民主党の「必殺仕置き人」、科学予算に切り込む!どんどん切り刻め!

みなさん、こんにちは。

ここ1週間ついに我が家へも新型インフルエンザが到来し、子供が発病、何とか無事平時に戻った。さて、そこでここ最近の話題と言えば、民主党の「必殺仕分け人」の刀が科学技術予算にまで及び、日本の科学者が異例の反論を行っているというところだろう。
例えば、以下のニュース

9大学が仕分け批判、予算削減で「科学立国崩壊」
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(連中は『科学技術で世界一を目指すことに疑問符をつけられた点に関しても、「世界の知の頂点を目指すことを抛擲(ほうてき)する(放り出す)ならば、日本の発展はありえない」と強調』とあるが、いったいあと何年一番を目指せば実現するのかいナ? 戦艦大和はいつ完成するのか? 「護送船団方式」というのはもう死語になったのかもしれないが、日本の科学者世界では未だに「護送船団方式」の亡霊が生きているようである。毎日毎日高級料理ばかり食ってホテル三昧の柳田博士のようなものばかりでは困るだろうに。そんなのが科学者教育ならだれもいらん!!)

や以下のブログなどがその典型であろう。「科学者ロビースト活動」というものである。
大栗博司のブログ(この人物は世の中の良いところしかご存じないようで、今の日本の一般人がどんなに貧しい生活を強いられているかまったくご存知ない。赤絨毯の上を歩くことばかり考えている、俗に「ハリウッド科学者」というものだろう。この人物が渡米した頃の日本は今や昔の話。今や地方は真に第三世界以下である。)
生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ(この人物も自分の恵まれた生活の、さらに上ばかり見て生きておられるようだ。口先だけならだれでも言える。)
吉岡直樹(仮名)のアンテナ(この人たちは論外。別世界の住人である。この人々には一般の日本人のことはどうでも良い話なのだろう。)
こういったものを見れば、日本の科学者さんたちの(もちろん、私も科学者だが彼らとは異なる)「感性」というものがいかなるものであるか、非常に良く分かるだろう。

和歌の万葉の時代、現在の「科学者」に当たるものは、俗にいう「お公家」であった。当時の研究と言えば、歌人になることであった。私個人は、ずっと前からこの「お公家さん」なるもののルーツがどこから来たのか、ということに非常に関心を持ってきているが、未だその本当のルーツを見いだすには至っていない。

まあ、それはともかくとして、現代においても「日本の科学者」というものの特質や特性を非常にうまく表現しているのが「お公家さん」という概念である。西洋人からは、一般に「日本の科学者は職人的だ」という評判がどの分野においてもよくなされるのだが、私個人は「職人さん」というよりはもっと「お公家さん」に近いと考える。日本の科学者を「職人さん」というには、日本の職人さんたちにたいそう失礼千万な話だからだ。日本の科学者で日本の超一流の職人さんに太刀打ちできるほどの人はほとんどいないからである。

こんな「お公家さん」的精神風土の中、そういう科学者文化の中で育った、日本の科学者たちの生息している世界に、おそらく歴史上初めて政治家の大ナタが振り下ろされたのである。そこで、「お公家さん」たちが慌てふためいた、というのがここ最近の騒動であろう。

まあ、日本の科学者世界の話は、私自身は拙著2冊(あるいは4冊)で大分前に論じたから、これまで静観してきた。以下の本である。
三セクター分立の概念(1991、1995出版、2001再販)
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何が科学をつぶすのか?(2002)
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柘植の「反秀才論」を読み解く(上)(2004)
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柘植の「反秀才論」を読み解く(下)(2004)
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もちろん、これらの本はまったく売れていないから、周知の事実とはなっていないが、私の見方は残しているので、参考にして欲しい。こういったたわいない本でも当時は日本のアカデミズムに住む、悪意ある人々から、さまざまな攻撃を受けたものである。中には産総研の中堅職員のように、10年に渡りネット上で悪意ある攻撃をし続けてきたものまでいた。

まあ、私が「職人さん」的というよりは「お公家さん」的と呼ぶ理由はそういうことである。要するに、ものごとを正々堂々と真っ正面から立ち向かう、というのではなく、日本の官僚と同じように、裏で手を回すように、ねちねちと画策するという輩ばかりだからである。

物事というのは、その人の「主張」も大事だが、なによりもっと大事なものはその人の「行動様式」である。「行動」とは「無言の言葉」そのものであり、いくら良いことを言ったとしてもその人物の行動が陰湿であれば、それは割り引いて考えなくてはならない。まあ、そういうことである。

ここ30年ほど私は科学者世界をつぶさに見てきたが、官僚に正々堂々と反論したり、それを本に書いて出版したりというやり方をしたものは、めったにいなかったということである。上の最初のブログのコメントなどを見れば、明らかなように、未だもって科学者の「お公家さん」体質は健在である。非常に興味深い事実である。

ところで、この問題の背後でまず忘れてはならないことは、今の日本人は、流行には敏感だが、すぐにちょっと前のことを忘れるという健忘症がある(もっともこれはずーっと昔からの日本人の習性のようだが)。そのおかげかどうか知らないが、今の日本の科学技術政策、特に科学技術振興政策ができたのは、いつだったか、そういうこともすぐに忘れる。日本に科学技術振興政策ができたのは、1995年の「科学技術基本法」成立の時代に遡る。ちょうど省庁の大編成の時に誕生したのである。この時の文部大臣が有馬朗人氏である。省庁再編後、文部省と科学技術庁が合併して文部科学省となったわけだ。

その1995年から、それまで地方の土建業のために、つまり道路やダムや河川や沿岸などの工事に使われた予算が、そっくりそのまま科学技術分野、特に大学や研究所に回ることとなったのである。もちろん、一部は以前同様に地方の土木建築などにも回されてきたが、大半は大学などのハイテクが存在する都市部へ回されることとなったのである。

その予算規模とは、第1期の5年(2000年まで)で17兆円、第2期の5年(2005年まで)で24兆円、その後もこのペースは続き、第3期の5年(2010年まで)で25兆円程度の予算がついているのである。これらがそっくりそのまま、それまでの地方ではなく、大学が集中している都市部や大都市部に回されたわけである。

まあ、ほとんどの日本人は「馬鹿」だから知らないだろうが(おっと失礼)、「格差社会」という実質的意味は、大学や研究所は大都市にしかなく、その大都市にしか存在しない施設へ巨額投資を行う法律を通したから、巨額が大都市に流れ、地方と首都圏との差が生まれたのである。

東京にはどれだけ大学がある? 数百あるだろう。 一方、ここ徳島には4つしか大学がない。4つしか小粒な大学がないのにどうやって「科学技術研究予算」が回ってくるのだろうか? 大学の規模、ランキング、数の順で予算がつくのであるから、大半は東京、大阪、京都、愛知、宮城、など旧帝国大学の存在する都市部を中心に回ってしまうのである。その予算の定義から明らかなように、東京が「一人勝ち」したのである。これが「格差社会」の知られざる真実なのである。(ちなみに、いつかこうなると私は分かっていたので、そうならないためにはどういう社会構造にしたらいいか、ということを提案したものが、拙著の一番最初の「3セクター分立の概念」という本なのである。この20年間で日本政府と官僚は私の主張と全部真逆をおやりになったというわけだ。)

私が大学院生であった頃、我々大学院生(まだ「大学院生」という言葉も世間的には知られていなかった時代である)は、学会に参加するのは「自費」であった。自費参加である。教授のお手伝いをしていっしょに発表する場合のみ旅費をいただけた。その教授や助教授や助手たちですら、海外の国際学会に参加するには、数年に一度、あるいは年に1度、それも一番重要そうな国際学会だけを選んで参加したものである。だから、我々はせっせとアルバイトをしてお金を貯めて学会に参加したのである。そういう時代であった。

ところが、今では最初の柳田充弘教授のように、毎週のように世界中の国際学会に公費(国費)で参加できる時代となった。同様に、大学院生の分際でも今では予算が下りて、世界中のどこの国際学会でも参加できるという、大変恵まれた時代なのである。人というのは「慣れより恐わいものはない」とよくいうが、まさしくそれは本当で、科学者といえどもほんのちょっと前のことであったとしても、いつしか昔のことは忘れてしまい、今の豊かな現実に慣れてしまうものなのだ。

現在、日本の大学に職を持つ人々の大半はこの事実を忘れているように見える。ほんの30年前はどうであったか? 20年前はどうだったか?15年前はどうであったか? 昔のことを思い、その初心に帰れば、感謝することはあったとしてもさらに不平不満を口にすることなどできようはずがないと私は思うのだが、連中はそういう人種ではない。この15年で80兆円という国家予算1年分に匹敵する援助を受けてきたにもかかわらず、まだまだ増額が欲しい、削減などもってのほかだというのだから驚く。

「研究を続けられない」…事業仕分けで若手研究者
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(だが、君たちの親は平均年収が軽く1000万円超える高額所得者じゃないか! それに論文一本出版するのに平均1500万円もかけているではないか! 海外渡航も研究費で落とせているではないか! 文句言うことばかり学んじゃいけないヨ! 私のように、自宅にこもってまで研究を続ける覚悟がないのなら、研究者になどなるな!)

どの世界でも、成果において、結果主義である。結果よければすべてよし。これが金銭の流通を伴うプロ世界の掟である。向こう15年で80兆円を使って、せいぜい山中博士の「万能細胞」程度の発明で、その他の日本初の発明は大半が民間企業や零細企業から出たというのであれば、その責任を問われるのは当然であろう。江戸時代なら「切腹」ものである。軍隊なら銃殺。西部劇時代のアメリカなら絞首刑。企業なら社長辞任。しかし、だれも実際には責任をとっていないのだ。

「歴史の法廷に立てるか」野依さん仕分け批判
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(1研究者としての野依博士は偉かったが、行政者としては失格だ!理研の脳科学には2兆円、もう何兆円もの税金を使ってこの程度なのだから、切腹しても足りないのではないか! 本当なら野依一家島送りものだろうヨ!ほんと日本人は唐変木で優しい国民で良かったというものサ。もっとも諸悪の根源はその先代の有馬朗人博士なんだがネ!!)

私など、「またあの馬鹿どもに何兆円もの金が行くのか、と思うと、はらわたが煮えくり返る」思いである。まあ、これが私が日本の科学者世界とは距離を置きたい理由なのである。民主党は、何者も例外なく、「必殺仕置き人」作業を徹底的に続けるべきであろう。日本にいる、本物の科学者たちはだれも国の予算などこれっぽちも当てにはしていないのサ! 

まあ、何度かそういう連中から金をせしめてやろうと努力したがまだ一度たりとも成功したことはない。なぜなら彼ら大学の研究者の大半は全部が官僚的で自分の弟子や「ともだち」でもなければ赤の他人に研究費を恵んでやるというような気骨はみじんもないからである。そりゃー、日本の学者ほど情け容赦ない冷淡な人種はいやーしないサ。そんな連中には一銭たりとも税金など恵んでやらなくて結構なのサ。もちろん中には例外的な人もいるけどサ。

「取り返しつかない」ノーベル賞受賞者が仕分け批判
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ノーベル賞・フィールズ賞受賞者 による事業仕分けに対する緊急声 明と科学技術予算をめぐる緊急討論会
(うそだらけの詐欺師のオバマがノーベル賞。ワクチンに仕込んで人をマインドコントロールするためのマイクロチップ開発者がノーベル賞。利根川さんの免疫学が今では「殺人免疫補助剤(アジュバント)」となってワクチンに仕込まれている時代。もはやだれもノーベル賞なんてありがたがってはいないのサ。この連中はそんなこともご存じないのだろうか? ノーベル賞はイルミナティーの功労賞だと国民はみんな知っているのサ。むしろ、イグノーベル賞の方がずっとましだヨ!! こういう学者馬鹿ばかりとなると、「日本人のため」と言いながら、その日本人がみんな死に絶えてしまい、残ったのは馬鹿学者ばかりという日本になるじゃないかい?)

ついでに、加えておくと、私自身、自分の本を書いた時には、いわゆる「国際金融資本」、「ビルダーバーグ」、「イルミナティー」などのことはまったく知らなかった。日本国内でそれが知られるようになってきたのは、インターネットが誕生した1996年以降だろうから、つい最近まで日本人は何も知らなかったのである。しかし、2001年の911以降、そういう連中が誰であるのか、何者であるのか、ということが徐々に明らかになり、今の「新型インフルエンザ騒動」の”背後”にいる人々もだれであるのか、今ではかなり正確に知られるようになったわけである。

この「NWO」や「イルミナティー」の時代、これまでと同じように科学技術を援助して良いものかどうか、そういう問題が生まれる。最先端のバイオ科学に国が援助しても、それは国民を抹殺する方向に使われる(使われた)のである。少なくとも、東大の河岡義裕博士の例はその一つであろう。また、これほどまでにあからさまに「優生学主義者」が欧米の政治中枢や大学中枢に入っている時代には、バイオ技術の進歩は即そのまま一般人の殺戮兵器になって帰ってくる。日本のある会社では、ハイテク技術として脳にチップを埋め込んだ通信技術を開発しているというが、それはそのまま名もない人々の「マインドコントロール技術」や「人間牧場化計画」につながる。ハイテクになればなるほど、科学技術が進歩すればするほど、今度はそれが人間管理、人間殺戮の首謀者の手に落ちる可能性が増す。昔の原爆などやたらと重い大型爆弾だったから、だれでも運搬できる代物ではなかった。しかし、今のバイオテロ用の細菌やウィルス、あるいは「ケムトレイル」用のエアロゾルであれば、だれでも運搬できるだろう。

そんなわけで、今では、やみくもに科学技術を進歩させることが社会の利益につながるかというと、必ずしもそうは言えないという、実に悩ましい時代に入っているのである。

その昔、手塚治虫が思い描いた21世紀と、今我々が現実に直面している21世紀はあまりに異なっている。しかし、人間というものは、一度成功した経験というものはなかなか捨てがたいという習性がある。だから、科学者たちも似たようなもので、「夢よもう一度」とばかりに昔を懐かしむ。しかし、現実は悪くなるばかりである。私など、個人的には、テレビの「ジン」ではないが、「米百俵の時代」、あるいは「百万石の戦国時代」にでも戻り、もう一度「イルミナティー」の発行する紙幣など使わない、米をお金にしていた「米資本時代」に戻るべきだとすら妄想する今日このごろである。

その昔、私もかなり本格的に「超紐理論」などを学んだが、あんなものは物理としては「まゆつば(トンデモ)」、時間浪費の学問に過ぎないと今では考えている(もちろん、そこで使われている数学には興味深いものがあるが。もちろん、これは私が超紐理論やその論文を理解できないという意味ではないよ)。だから、そこで何が分かろうが、社会に何のインパクトも起こさない。せいぜいSFねたになる程度である。それより「反重力」の研究であれば、実際に「空飛ぶ円盤」が実現できる可能性すらある。事実、スタン・デヨ博士など反重力の原理は「イルミナティー科学者」の世界では周知の事実であるというのである。だから、あれは世界中の頭のいい若者を解くべき社会の大事な問題から目を背けさせるためのロスチャイルド流のジョークに過ぎないのであるとすら思う。そんなものは、世界中の物好きがやっていればよく(事実、才能と時間と金の浪費以外の何ものでもない!「超紐理論」の研究者はよーく冷静に考え直してみるべきだろう!)、我々日本人はもっと現実的なエネルギー問題を解決する諸問題の基礎科学に勢力を向けるべきである。日本は人口が少ないのだから、科学分野全部で勝つことはそもそも不可能。それゆえ、「一極集中」、「少数精鋭」方式しかあり得ないのである。仮に「超紐理論」をやりたい人があれば、大栗さんのように国外でおやりになれば良いのである。だれもそれを阻止するものはいないのだから。
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  by Kikidoblog | 2009-11-24 14:08 | 真の歴史

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