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ペリーの見た江戸は美しかった!!:計算されたペリー来訪

みなさん、こんにちは。

さて、今日はまたまったく違った話題。

いまNHKでは「龍馬伝」という歴史ドラマをやっている。昨日は、「黒船と剣」で、1853年いよいよ亜米利加のイェール大学出身のペリー提督が黒船でやって来たというところである。
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実はまだ写真を撮るには結構時間がかかるこの時代、そしてまた現像にもかなり時間のかかるこの時代では、20世紀で言う「ポラロイド写真」の代わりに、あるいは今でいうディジタルビデオの代わりに、画家がいっしょについてまわり、その時々、その折々の場面を絵にして残した。銅版画という場合もあった。

私はごく最近インターネット上で知ったばかりだが、実はこのペリー提督
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にも1人の画家がいっしょについてまわり、ペリーが行く先々の風景を歴史に残したようだ。この画家こそ、ウィリアム・ハイネ(William Heine, 1827-1885)
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という人物であり、ペリーの黒船に乗って日本にやってきた。
古書への扉 ハイネ 「世界周航日本への旅」

このオランダ人画家ハイネの書いた絵は美しい。私はこの時代の日本の風景を見る度に、なんと美しい国だったのか、とつくづく思う。まるで日本全体が日本庭園のようであるからである。それゆえ、当時来訪した諸外国人が日本を非常に好意的に見ただろうことは疑い得ない。
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このペリー提督の来航から約10年後、今度はイギリス艦隊に随行したイギリスの画家、シルバー(J. M. W. Silver)が1864年から1865年の間に描いたという当時の日本の風景もあるようだ。
江戸時代の日本の礼儀と習慣をスケッチした貴重書が全ページ無料公開中
これは現在同志社大学のアーカイブで無料公開中である。
貴重書デジタルアーカイブ
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他にもこんなものがある。
西洋の目に映った日本
欧米人の見た幕末日本
青い目の見た幕末日本図絵
海外と幕末そして明治
「坂の上の雲」の近代史~ペリー来航~


ところで、このペリー提督とイルミナティーの接点については、2年ほど前の「はてさてメモ帳」にあった。
ロスチャイルド一族、日本をとる。 by Clifford Shack
この内容についてはおおよそ想像がつく。この当時の亜細亜情勢は以下のようなものであった。
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またペリー提督の日本遠征の計画については以下のものがある。
ペリー提督提出の日本遠征基本計画
この中のペリーの洞察は非常に興味深い。特に日本に到着する前のペリーの日本人観がすばらしい。

『
我が国の捕鯨船の保護という特別事項に関し捕鯨船の通常の寄港地を調査し、且つ避難と補給を行える新しい港を確保するということが遠征の主目的でありますが、一般的理解に立てば、この遠征の真の目的は世界にあからさまにならないようにすべきです。


日本で外国船が入港できる唯一の港は長崎ですが、そこでオランダは奸策をめぐらし、うまく影響力を行使しながら、他国の日本政府との交渉を難しくし、本当に長期間、今に至るまで、真っ先に商館長や使節を派遣してきました。


ビドル提督とグリン海軍中佐の二回にわたる日本寄港時には、オランダが我が国の唯一の通訳でありましたが、彼らは通訳をしながら明らかに彼らに都合の良いように取り計らい、過去二世紀にわたってもずっと同様にしてきました(筆者注: ビドル提督は直接浦賀に来て堀達之助が通詞を務めたから、ビドル提督についてはペリーの誤解)。

この明らかな理由から、将来のいかなる遠征もこの港は避けるべきで、オランダやその他の国が全く手を出せないような日本の地域、例えば松前か函館又はその両方が良さそうですが、日本のほとんど反対側にあり、且つ江戸との連絡に便利な場所を選ぶことです。


この二港(筆者注:松前と函館)はあまり離れていませんが、艦隊がこの中の一港に突然現れ、アメリカ船への補給や修理のため一港又は二港への自由寄港を、正当な理由による公的港湾設備として、また世界各国の権利として要求することです。今までかって見たこともない程恐ろしく強力な海軍力が沿岸に現れれば、疑いもなく大仰天と大混乱とを引き起こし、(日本人は利口で抜け目がないから)必ずや彼らはだまし、裏切り、策略をめぐらしながら、あらゆる方法で補給品を与えず侵入者を追い払う工夫をするでしょう。力に訴える時は、アメリカ側は我慢と忍耐と賢明な判断で、けしからぬ侮辱に対しては直ちに対応しますが、常に守勢の立場を堅持すれば、この企画にとって有利な結果が期待できるに違いありません。


どの程度アメリカが、脅迫に対する脅迫や武力に対する武力行使を正当化できるかは、勿論その時の状況から派生する事態によりますが、事前に予測できるものではありません。飲料水や他の補給品を求めての上陸は、彼らが補給品を出さない場合の武力的上陸でさえも、そして病人が必要とする時にも、常に対価を払いあるいは支払いを提案し、その他いずれにせよこのように必要とする場合、必ず正当化されるはずです。


日本の地図を見ると本州と蝦夷地の関係
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は、地理的にイギリスとアイルランドとの関係
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に似ています。日本を分ける(松前と函館がある)サンガー海峡(筆者注:津軽海峡)はイギリス諸島を分けるアイルランド海峡(筆者注:セントジョージ海峡)のごとくです。では説明のため(首府・江戸のある)本州はイギリス本国と仮定し、蝦夷地はアイルランドで、松前港はコーク、そして函館はダブリンです。さて強力な外国が相互貿易を求め、実質的な戦争に頼らず、強力な海軍力でアイルランドの二港に場所を占め、アイルランド海峡を制圧し、帝国の重要な二地点間の全ての連絡を遮断し、イギリスに圧力をかけると仮定します。この様にすでに本国政府に所属していた関係を遮断しましたから、アイルランドの人達と友好的な関係を作ります。そうなると蝦夷地の人々は征服者側ですから、更なる例えとしてその国が干渉者を武力で撤退させえないとした場合、日本人すなわちイギリスはどうするでしょう。答えは明白ですが、侵入者が退去するよう交渉できる余地があれば交渉するでしょうし、日本政府はその他あらゆる手段がないと分かれば、その港に入港し彼らと貿易をする我々の権利を認めた上で、我々の退去を求めるでしょう。

日本人は隣国である支那より優れており、反逆精神はあるが勇敢で、親切で、人情があり、非常な好奇心に富み娯楽好きで、世界中に比較のないほど作法と礼儀正しさに重点を置くという多くの特色を持ち、全員に行き渡ってはいるがあまり目立たず、半分が他の半分を監視するという完璧に張り巡らされた諜報組織により、人民に強い影響力を持って実行される気ままなお上の法令に、その半生を懸けてかしずいています。こうした訳で、事実であれ虚構であれ、人々は罪を被りはしないかと常に政府の密かな復習を恐れ、彼らは常に陰謀とその陰謀に対する陰謀に振り回され、強力なグループは現在の抑圧された状況の改善を望みながら、如何なる事の達成にも極秘裏に政府の手助けを借りているようです。


日本人の外国人に対する偏見について言われている事は、非常に誇張されています。より友好的な貿易の障害としてここに影を落とすものは、前述のごとく主として長崎におけるオランダの陰謀のようですが、彼らが何を止めたのでもなく、ただ彼らの目的に有効な不名誉を受け入れ、あるいは彼らの国民性にまで堕落せしめたことです。


今世紀の初め、スタンフォード・ラッフルス卿により日本に派遣された非常な知識人であるエインスリー博士の"日本人評は、昔からの著述者たちの意見に合致していますが、日本人はスペイン人的静寂さに良く似た明白な冷静さを持ち、斬新さを好み、役目に熱心で、異人には率直で、彼らの政治的制度の制約を嫌い、優れた知識を持つ諸国と付き合おうと熱心であります"。


日本人の作法、習慣、職業や政治的制度に関し、本官が最高権威者から収集した一般情報によれば、大衆は、現在強制されている異国人に関する理不尽な制限を取り除くアメリカのどんな試みも黙認するでしょうが、江戸の政府が首府から離れた遠方で、噴水が吹き上がるごとく全軍事力で行われる、彼らに対する完璧に組織された反抗を十分強力に阻止できるだろうか、という事が疑問点です。

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本企画の成功を目途の必要軍事力は、4艘の武装軍艦が必要で、3艘の1級蒸気軍艦と1艘のスループ型砲艦です。多くの理由がありますが蒸気軍艦は必要不可欠で、ごくわずかな日本人で、支那やその近辺に行ったことのある人達だけが蒸気軍艦を見たでしょう。そんな人達は、書物を通じてより目で見ることで影響を受け、強い印象を持つ事はよく知られています。従って、突然に、そして彼らにとっては不思議な出現をした艦隊が音もなく動き、全体が粛々として、帆も揚げず、潮の流れに無関係に彼らの港に向かうと、非常な驚きとろうばいが巻き起こることはすぐに想像できます。この(最初の)異常な現れ方はそれ自体訳が分からないし、加えて船尾に向かって設備される機械類、大口径の大砲、榴弾砲、ロケット砲の類、各種近代的な火器類、その他船舶を構成するアメリカの発明といった陳列品の数々は、過去百年間に積み重ねられた外交使節の全成果より、はるかに彼らの恐れを増大し、彼らの友好関係を得ずにはおかないでしょう。支那人の驚きは正確に伝わっていますが、それは日本人へも全く同様に適応され、 "彼らの恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点がありましょう"。
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要するに、坂本龍馬、秋山真之など、当時の日本人の若者たちの驚きは、ペリーが計算した演出の予想通りの反応であったということになる。そして、日本は開国へ向けて動き出したというわけである。

おそらく今現在これにちょうど匹敵する時代に入っているのだと私は考えている。「ペリーの黒船」に対応するものが、現在の「米国製のUFO」に当たる。黒い煙を上げる蒸気機関船を見て驚いたように、光り輝く反重力装置を搭載した空飛ぶ船を見て多くの人々は驚くのだろうということである。良い意味で世界を開国できるのか、あるいは、それを邪悪な連中に乗っ取られてしまうのか、というところだろう。

いずれにせよ、江戸時代までの日本は美しかった。それが当時の図絵から彷彿されるのである。また、ペリー提督の本当の目的が「亜米利加の捕鯨船の保護と捕鯨船の寄港地確保」だったというのが興味深い。今や亜米利加は捕鯨反対の立場だが、150年前には世界中で捕鯨しまくっていたわけである。まさに「白鯨」の時代だったわけである。

  by Kikidoblog | 2010-02-01 11:57 | 真の歴史

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