非線形波動の和達三樹博士ご逝去:「独創的な生活と平凡な研究よりは独創的な研究と平凡な生活を」

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みなさん、こんにちは。

風雲急を告げてしまった、この日本。この世界。そんな日本の最中でひっそりと一人の偉大な理論物理学者が亡くなった。元東大教授、現理科大教授の和達三樹博士である。享年66歳、癌による逝去であった。

孤立波「ソリトン」研究 和達三樹さん死去

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和達三樹さん(わだち・みき=東京理科大学教授)が15日、大腸がんで死去、66歳。通夜は20日午後7時、葬儀は21日午後1時30分から東京都千代田区麹町6の5の1のカトリック麹町聖イグナチオ教会で。喪主は妻朝子(あさこ)さん。

 元日本物理学会会長。「ソリトン」と呼ばれる孤立波の研究で1991年度の仁科記念賞を受賞した。父は初代気象庁長官で地震学者の故和達清夫博士。

(ちなみに、この和達三樹博士の家系和達家は、日本にそれほど多くはないが、いくつか残っている、「学者家系」の一つである。他に天皇家、菊池家、田崎家、阿久津家などがある。)

私と和達博士の接点は3度ある。たぶんたったの3回。

1度目は、1982年に長野県戸隠で開催した「物性若手夏の学校」の時であった。このスクールは私がマスター2年の時に阪大の大学院生たちが主催したものであった。確かある晩にみんなで花火をした時に初めて話す機会があったのである。私の記憶では、当時から学生たち、特に女学生たちの人気者で、非常に気さくで非常に活発な人

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という印象を得た。

私はその頃初めて「ソリトン」の話を和達博士から聞いたのだが、私自身は別の分野を研究していたので、あまり興味は感じなかったものである。場の量子論を勉強していた当時の私には、ソリトンはあまりにおもちゃのお話に見えた。応用数学の一種だろうという印象を得て、「あれは物理ではないな」というのが正直な私の感じであった。

それから、まったく話をする機会はなかったのだが、2度目は、私が1990年の夏にユタ大を卒業してその年の秋に帰国した頃、私と妻(まだ結婚する前だったが)は東京駒込の弟のマンションに寝泊まりして、就職先を探していた。その頃、東大はバスですぐだったので、妻といっしょに東大に散歩に行ったのである。その際、そういえば、和達先生がいるなと思いだしたのである。ユタ大時代の私の指導教官がビル・サザーランド博士だったので、かなり重なる分野(可積分系という)の専門家であったために、ユタ時代には私もそれなりにソリトンや可積分系の勉強はしていたからである。そこで私は突然和達博士の研究室を妻といっしょに訪問したわけである。その時に、最近の論文をもらうつもりで行っただけだったのだが、和達博士に「どこでPh. D.を取ったのか?」と聞かれたので、サザーランドのところだというと、「そういえば、いくつか求人が来ているよ」といくつか企業を紹介してくれたのである。

幸いなことに、この後に富士通と東芝を見学し、幸いに私と比較的マッチした富士通に就職することができたのである。この間に私は正式に結婚。子供も1人生まれた。しかし、1年2年と勤務するうちに、私の咳が止まらなくなり、どうも会社の空気が合わなさそうだということになった。当時は解らなかったが、今でいうシックハウス症候群だったのだろうと思う。あまりに咳き込み吐き気がでるほどになったために、どこか他にないかと探していたところ、理研のポスドク(基礎科学特別研究員)なるものを私の妻が見付けたのである。そこでダメ元でこっそり応募して試験を受けたところ、運良く合格したのである。後で聞いた所、すべては故小田稔博士のおかげであった。

私は富士通を2年で退職し、理研に移ったのだが、その頃東大で物理学会があり、その時に夫婦と子連れで散歩がてらに参加したのだが、その時に和達博士と食堂でいっしょになったのである。これが3度目であった。私が「会社を辞めて、理研に移った」というと、和達博士は「え?もう辞めちゃったの?」、「ぼくはあなたの恩人なんだよね」と笑っていたことを思いだす。そう、その意味では、和達博士は私の恩人の1人であったのである。

しかしながら、科学、特に理論物理、それも日本という狭い世界での理論物理という観点で見ると、かなずしも和達博士の存在は一長一短であったというのが、私個人の正直な見解である。もちろん、和達博士だけではないのだが、東大の有名教授という存在の功罪と言ってもいいかもしれない。

まあ、この際、せっかくだからそれをメモしておこう。要するに、東大教授に有名教授が出てくると、その人のお弟子さんたちで日本全国満ちあふれてしまうということである。

私がずっと前から私のユタ大時代の指導教官であったビル・サザーランド教授から「どうしてお前ほどいい研究している人間が大学の職にありつけないのか?」と何度も疑問をぶつけられたものである。それに対して、私は「日本の理論物理の場合は、東大の有名教授の弟子でないと職は手に入らないのだ」と答えたものである。その1つの代名詞が東大の和達博士であった。非線形波動やソリトンの分野で研究職を得ようとすれば、日本国内では戸田盛和、和達三樹門下生でないかぎり飯にありつけないのである。

私の知る限り、日本には大学の研究職の数はかなり限られているから、東大でいい教授が誕生すると、アッという間にその教授の弟子たちで、日本全国のしかるべき職が埋まってしまうのである。そうなると、一種の「学問的独裁」が始まる。そうすると、物理学における思考形態や研究のやり方などあらゆる点で、主流派と非主流派という2極分化し、非主流派は日の目を見ることがなくなってしまうわけである。

こういうことは、和達博士の分野に限ったことではない。統計物理、物性物理、地震学、原子力、なんでもそうである。今や東京電力の福島第一原発の崩壊事故問題から、京都大学の小出博士と東大の「御用学者」の観点から一般人にも実によく知られるようになったものである。

東大の学者が「いい人」であればあるほど、残念ながら逆にこの傾向が増長されるのである。ここがもどかしいところである。東大の教授なのだから、自分の学校に通う学生の人生がいいものであることを願うのは当然である。しかしそうなることによって逆に日本の科学の視野が狭まってしまうのである。もちろん、東大にいれば、自分はそれに気付くことは永久にない。

私の個人的見解では、和達三樹博士、戸田盛和博士の非線形研究は基本的に「おもちゃ(モデル)の研究」であり、理論物理というよりは、どちらかといえば「応用数学」か「数理工学」と呼ぶべきものであったと思う。同じ分野の海外の研究者の有名教授のラム博士とかの実験ベースの理論家とはかなり異なっている。あるいは、日本の名大の上田睆亮博士や長谷川晃博士のような実験理論家とも異なる。

要するに、戸田–和達学派は数式の意味や応用や物理を理解するというよりは、数式の中の数理構造を研究するグループであったということである。これ自体は1つのやり方ではあるが、これがすべてではないのである。

例えば、同じ分野の創始者の1人であった、故ハンス・ベーテ博士やエンリコ・フェルミ博士などの場合(もちろん、共にノーベル物理学者だが)、純粋に数学的な理論を作ったかと思えば、核反応理論など非常に実際的応用的は研究もしているのである。方や原子炉を開発し、方や原爆開発に関わったのは歴史の1ページである。

こういった欧米の猛者たちと比べると、日本の理論物理学者、ソリトンの研究者たちは、どうしても「四畳半物理」(これは私が阪大の大学院生の頃日本の理論物理学者を評したいい方である)、「ケーススタディー」、「趣味的物理」の域を出ていないように感じるのである。まあ、あくまでこれは私個人の感じ方なので、特に信じる必要はない。

さて、いずれにせよ、和達三樹博士は数多くのすばらしい数理物理学者のお弟子さんたち

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を誕生させたから、アカデミックな世界では大きな貢献を行なったのは事実なのである。まだまだ若い66歳での逝去は実に残念である。

最後に、生前の和達三樹博士のインタビューを見つけたので、ここにメモしておこう。以下のものである。

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mms://realsv.ms.u-tokyo.ac.jp/vgbook/2007/vg070720_wadachi.wmv
和達三樹教授 最終講義

心よりご冥福を祈ります。RIP.


おまけ:
最後の最終講義の「教訓」が面白いのでここに追加しておこう。
教訓 III-1
太ったブタよりは  やせたソクラテスになれ
(大河内一男東大総長)
やせたソクラテスよりは  太ったソクラテスになれ
(独立法人化後の大学)
教訓III-2
清貧
noblesse oblige
教訓 III-3
初心忘るべからず
なぜ物理学科を選んだのか
教訓 III-4
ピーターの法則 (米国、1960年代)
人間は無能なレベルに達するまで出世する
教訓 Ⅲ-5
一生の業績、人生の成功・不成功はその経路によらない。
・・・積分公式(ワイエルシュトラス–和達の積分公式)

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  by kikidoblog | 2011-09-18 22:47 | 人物

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