「昔は良かった」:「19世紀の物理学への回帰」の必要がある!?

みなさん、こんにちは。

さて、今回は私が個人的に最近常々思っていることである。だから非常に個人的な観点なので、興味がなかったり、賛同しない人には不快そのものだろうから、適当にスルーして欲しい。

まず、例の岡潔博士のエピソードにこんなものがある。

岡潔は京都大学で「19世紀の数学」の知識とセンスを学び、最終的には数学者を目指した。そして、当時数学では最先端だったフランスへ留学した。今ではマンデルブロー博士の「フラクタル」で有名になった、「ジュリア集合」の創始者であったジュリア博士の研究室へ留学したのである。そこで、今でいう「再帰的方程式」の研究をした。しかし、なかなか新しいことはできなかったが、近くにいたアンリ・カルタン博士の研究などの関心を持ち、フランス留学中にはいい研究はまだできずにいたが、日本へ帰国後に「多変数代数函数論」の夢を見て、それに渾身の力を注ぎ、ついに「多変数函数論」の創始者になったのである。

この晩年において、方やカルタン博士はフランス数学界を代表し、当時フランス数学界の長になっていた。そのカルタン博士が日本へやって来た折、岡潔博士はすでに和歌山の田舎に居を構えて、数学研究していたのだが、その岡潔博士に是非会いたいと、カルタン博士はわざわざ和歌山の山奥へ会いに行ったというのである。

その生まれて初めての最初で最後の出会いの時、カルタン博士は
「おおお〜〜、キヨシ・オカ〜〜!! 君は今の数学をどう思うかね?」
といっていきなりハグして旧友のように親愛の情を示したという。

こんなエピソードがある。

この時、カルタン博士が岡潔博士に「今の数学をどう思うかね?」と言った時の「今の数学」とは、俗にいう「ブルバギ数学」というものである。いわゆる「現代数学」という「20世紀型数学」のことである。この「現代数学」とは、非常に形式的であり、具体的に考えるというよりは、より抽象的に考える。そして、「厳密(Exact)」というよりは「厳格(Rigorous)」に物事を考えたがるという特質を持つタイプの数学のことを意味している。

(ちなみに、英語のExactに適ういい日本語はない。辞書ではExactもRigorousも共に「厳密な」という訳になり、ここに混乱が生じることになる。同じ「厳密」といっても意味が大分異なるのである。前者は「そのものずばり」という意味であるが、後者は「手を抜かない」という意味である。だから「厳密解」を「exact solution」、「厳密証明」を「rigorous proof」というわけだ。)

この数学の創始グループは、自分たちのグループ名を「ブルバギ」という個人名を与えて、あたかも個人の数学者のブルバギ博士が論文や書を書いたかのように欺いて出版し、世界中を席巻したものである。そのグループ内の代表者が、アンドレ・ヴェイユ、グロタンディーク、などである。

それに対して、彼らより少し上の世代のカルタン博士はあまりいい印象を持っていなかった。日本では岡潔博士がまったく同じ見知でいたのである。自分の10編の論文の導入部ではいつもそういう数学に対する批判めいた文章をかなり詩的な表現で表明していたのである。例えば、「現代数学」を「まるで雪原のようだ」と評したのである。それに対して自分のかなり古典数学的仕事の結果を「春が来て最初に得た実」と評している。

このことをカルタン博士は岡潔博士と語り合いたかったのである。実際にどんな話を2人が語り合ったのかは今や知られていないが、意気投合し、かなり長い時間歓談したようである。

実は、私が個人的にもっとも愛読している数学の本が、ドイツの数学者フェリックス・クライン博士(一般には、メビウスの帯を高次元化したクラインの壷で有名)が書いた
19世紀の数学
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なのである。ガウスの仕事から始まり、リーマンやワイエルストラスの仕事、そしてクライン自身の仕事までを見事にまとめている。そればかりか、その時代の数理物理学まで俯瞰しているのである。もちろん、1変数複素関数論が中心である。岡潔博士は、まさに1人でこういった19世紀までの数学を全部多変数複素関数論でやりたかったのである。

話はちょっと脇道に行くが、この本の中で、イギリス(スコットランド人)の物理学者W. Thomson博士のことが書かれている。ケルビン温度の創始者の、ケルビン卿に後々になった人物である。このウィリアム・トムソン博士は、数学教授の父親の教育を受けて10歳で大学に入った早熟の天才児であったことはあまり知られていない。音楽で言えば、モーツアルトのような人物である。大学生ですでに16の論文を公表したという。

中でも実に興味深いエピソードは、1858年にイギリスとアメリカ合衆国を海底ケーブルで結ぼうという時、高圧電流のケーブルがすぐにダメになった。この理由を理論的に見つけて適切な方法を提案したことによって、3度目のケーブル設置で見事に成功したという。

さて、私が何を言いたいのか?

というと、我々はすでに21世紀に入ってしまったが、科学、そして物理学と狭めてみた場合にも、どうやら我々はかなり危うい方向に袋小路に入ってしまったように思うということである。数学で言えば、あまりの抽象化のために、もはや狭い分野の、またごく狭い分野の専門家以外はなかなか知識を共有できない時代になってしまったのである。それと同様に、物理学もあまりに抽象化しすぎて、なかなか他の分野の人々は理解不能という時代に入って久しいのである。

特に、いわゆる「数理物理学(mathematical physics)」という名称の分野が誕生し、例えば、Communications in Mathematical Physicsという研究雑誌に代表されるように、その筋の専門家以外は論文すら出せないという感じの時代にかなり前から入っているのである。なぜなら、非常にRigorous(厳格)でないとだめだというその雑誌の様式のために、直感的な研究や、厳格証明のない、答えそのものを書き下したような論文は掲載不可だからである。

そこで、私個人が最近自分自身に提案して来たのが、「19世紀の物理学への回帰」である。岡潔博士とアンリ・カルタン博士が「19世紀の数学にその完成された優美さ」を見たように、我々の物理学や理論物理学も再び「19世紀の物理学」の原点に戻るべきではないか、というのが、私の言いたい所なのである。これは、20世紀初頭に生まれた量子力学の否定とか、アインシュタインの相対性理論の闇雲な否定とかそういうことを言っているのではない。要するに、物事を数式できちんと証明したり、計算したり、結果を出して実験数値と比較できたりという、「19世紀の物理学」のような意味合いを持つ、優美な物理学に戻るべきだというような意味である。今の物理学はその意味では優美ではない。

かつての西洋世界で中世の不毛の時代から、いわゆる「ルネッサンス」が起こり、「ギリシャ時代への回帰」の時代が訪れた。つまり、自由闊達、自由奔放で理想主義や啓蒙主義に満たされた、「ヘレニズム精神」への回顧であった。

今我々の科学は再びこの時代精神に戻る必要があると私は考えるのである。

まあ、そんなわけだから、だれに言われたわけでもなく、何の価値があるというわけでもなく、何の利益があるというわけでも、何かはっきりした目標があるというわけでもないが、「19世紀の物理学の古典的業績」を日本語訳に直し始めたというわけですナ。

「昔は良かった」

というのは、本当である。
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  by kikidoblog | 2011-09-28 16:51 | アイデア・雑多

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