イエス、イエス、イエス、イエス!:「君は未来のスターだよ!」

みなさん、こんにちは。

スーザン・ボイルさんなど、無名の才能を発掘したイギリスの歌番組で、新たなるビッグ・タレント発掘か? 以下のものである。

Shy Boy and his Friend Shock the Audience with The Prayer

ジョナサンとシャーロッテ
Jonathan and Charlotte


さて、ついでに、私がいつも思っていることをメモしておこう。ここから先は、まあ、興味がなかったり、価値観の違う人には不快かもしれないから、適当にスルーして欲しい。


いつも私が思うことだが、我々は、ある価値観の中で生きている。それは、いわゆる日本の「故郷に錦を飾る」という諺や、資本主義社会の模範とされたアメリカの「アメリカン・ドリーム」、そしてキリスト教の諺「最も幸福な人とは最も多くの人に幸福をもたらす人」などにみるようなものである。「社会的成功神話」や「だれからも尊敬される人になること」や「お金持ちになること」という価値観である。我々は、そういった成就の価値観の下で暮らすのだが、はたしてそれは正しいことか?といつも考えるのである。もちろん、私自身も幼少期の頃からそういう価値観の中で生きていま現在に至っているのはいうまでもない。いつかノーベル賞を取るような立派な物理学者になる、そういう価値観で育ったわけである。

スーザン・ボイルさんにしても、ちょっと前の韓国人青年スン・ボン・チョンさん(ホームレスボーイ、スン・ボン・チョン:韓国のスーザン・ボイル?)の場合も、今回のジョナサンとシャーロッテさんのペアにしても、こういう発掘番組が無名で貧しい生活から脱出するための、一つの契機となり、自分の持っていた偉大なる才能によって新生活に移行できるという意味では、才能というものは人生に非常に役立つということができるに違いない。すばらしい成功物語になるだろう。

しかしながら、そういった才能を持っていたとしても、隠れた才能として、まったく個人的に自分の生活の中だけで育み、人知れず楽しんでいたとしても、それではいけないのだろうか? 私の場合であれば、世紀の大発見を行ったとしても、だれにも知らせず、どこにも公表せず、ただ一人で知っていて、100年ほど世界に先駆けた知識を持って、たった一人で楽しんでいたとしても何が悪いのだろうか? というようなことをよく考えるのである。

はっきり言って、大発見を公表して何十年後に評価されて、ノーベル賞をとり、世間にもみくちゃにされて、それで研究者としては終わってしまうというような科学者ばかりをみていると、そういうやり方よりむしろ、だまってどんどん先に進んで行った方がいいのではないか?その方がより健全であると考えるというわけである。少なくとも、無知な一般人の好奇心を満足させる為に講演、講演の生活になって、健康を損ねてしまうというよりはずっとましである。かつて湯川秀樹博士、朝永振一郎博士、岡潔博士など世間的に有名になった瞬間から研究者としては終焉してしまったからである。欧米でも若干の例外を除き、似たようなものである。

また、我々が才能のあるなしに無関係にごく普通に生きることは悪いことなのだろうか?とも考えるのである。例えば、Jリーグに入れば、日本代表に成れるくらいのサッカーの才能がある人が、ごく普通のサラリーマンとして一生を終えることは悪いことか? 

あるいは、女優になれるほどの美人がごく普通の主婦になって生活することが悪いことなのか?それでいいのではないか? 下手にどこぞのスカウトが美人少女をスカウトしてテレビデビューさせるから、その結果としてその女性の人生が台無しになる。ましてやその新たなる美人女性に似た顔の女性が一般社会の中で「あなたは〜〜に似ているね」といわれて恋愛のターゲットにされてしまう。だから、むしろそういう美人をテレビに出さない方が、その女性に似た美女にとっては普通の生活ができる可能性が高くなる。

そもそも、我々は社会で成功することを求めるあまりに、時にはその結果を急ぐようになる。そうして、あくどいことや綱渡りのようなこともせざるを得なくなるというわけである。だから、「急がば回れ」の諺にあるように、目先の損得にこだわらず、むしろずっと先をみた方がいいということも多々あり得るわけである。本当の仕事を実現してこの世を去る為には、むしろ今成功しないで普通でいるということの方が身の為だということもあり得るのである。

サッカーでいえば、年齢的に早く代表に入ったばかりにサッカー選手として伸びなかったというようなこともあるわけである。むしろ、まったく無名の選手でいて、自分の夢を次世代の若手に委ね、若手を育てるというような指導者となって、幾多の一流選手を育てたというようなケースが、いま私の言わんとするものに近いのである。

また、私がいつも思う疑問は、この社会を歩く時、女優やスターやタレントは、「自分は有名人です」というような、大きな顔をして歩いているが、それ以外の無名の人や才能のない人たちが、こそこそと生きたり、卑屈な振る舞いをして生きなければいけないなどということがあるのだろうか? あるいは、普通の人が大スターのように大きな顔して生きてはいけないのか? 才能のあるなし、有名か無名かに関わらず、だれしも自信を持って生き抜くことのどこか間違っているのか?と思うのである。

私がこれまでの人生でみて来たことからいえることは、やはり人間たるものどんな人生であろうが、自分がその人生の主役である、自分の人生の中の大スターなのだという自覚を持って生きるということだと思う。はたからどう思われるか、どう評価されるかには無関係なのである。運良く外から認められることもあるだろうし、CMをもらい金ができるということもあるだろうが、何より大事なことは、自分を大切にして正々堂々と生き抜くということだと私は信じている。才能のあるなし、そんなことより、普通に生き抜くことの方がはるかに大事である。

いくら自分に才能があったとしてもそれは自分のものだから、必ずしも他人のために使ったり、他人を喜ばすことのために使わなかったとしても、それはそれで良いのではないか、と私はいつも疑問に思うのである。自分の才能は自分だけのものでもいいのではないか、私はそう思うのである。
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  by KiKidoblog | 2012-04-03 10:32 | マスゴミ

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