岡潔「人間の建設」にみる憲法前文の解釈:憲法は人を甘く見ているヨ!

みなさん、こんにちは。

今回は、再び岡潔の話である。今日早速
人間の建設 (新潮文庫)
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という本を読んだので、これについてちょっとメモしておこう。

確かにこの本は小林秀雄との対談集ということだが、そのところどころに岡潔の数学の捉え方、政治や教育への捉え方が記録されていて大変興味深いものである。驚くべきことは、1965年の対談だということである。

私も最近になって、

「基本的に20世紀の自然科学は1960年代に終焉していた」

と考えるようになった。だいたいの基本は生物学であれ、物理学であれ、数学であれ、自然科学の基本は終了してしまったのである。

この実感は分かる人にしかわからないだろうが、私はそう実感するのである。特に、理論物理学はそうである。基本はそれまでに終了し、後は応用物理の一種のようなものにすぎない。

どうやら、岡潔博士は数学もすでにそういう感じだったと実感していたらしい。

さて、今回はこういうことではなく、せっかく世の中は参院選の直前だから、岡潔が日本の政治をどうとらえていたかについてのみ、ここにメモしておこう。この本のたった二箇所だが、実に興味深い観点を披露していた。
岡:日本は、戦後個人主義を取り入れたのだが、個人主義というものは日本国新憲法の前文で考えているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。それに気づいて直してもらいたいと、私は呼びかけています。それを一億の人に呼びかけようと思ったら、続けて呼び続けなければならない。同じ文章で同じことをいって呼びかけても、退屈して読んでくれなくなる。どうすれば比較的読んでくれるだろうかという技巧は数学で使っていることと同じでしょう。数学で未知なるものをできるだけ既知のものに近づけるために書く文章と、いまあちこちに書く文章は、書き方としては同じです。
(以下省略)−−−美的感動について

これは当時の学生運動のことを言っているのだろう。

この時代に学生運動していた残党が、仙谷由人であり、菅直人である。岡の慧眼が良く分かる。岡潔の言った通りの結果を生んだわけですナ。

さて、もう一つはこれ。

小林秀雄が、岡潔に人は若い頃からあまり変わっていませんねというようなことを聞いた時、岡潔はこう答えた。
岡:それは理論の根本でしょうね。実際一人の人というのは不思議なものです。それがわからなければ個人主義もわからないわけです。そういう事実を個人の尊厳と言っているのですね。利己的な行為が尊厳であるかのように新憲法の前文では読めますが、だれが書いたのですかな。書いた連中には個人の存在の深さはわからない。個人の存在の底までわかり、従ってその全体像がわかってはじめて、その人の残した一言一句も本当にわかるわけですね。いまの知識階級のごく少数の人だけでもわかってくれたらよいと思います。個人主義をごく甘くみてしまっているんです。そういう個人というものがわからなければ、もののあわれというものも恐らくわからないでしょうし、もののあわれがわからなければ平和と言ったってむなしい言葉にすぎないでしょう。−−−人間の生き方

その問題となる日本国憲法前文はこれである。
日本国憲法前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

一方、明治憲法前文はこれ。
大日本帝国憲法

 朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ卽チ朕カ祖宗ノ惠撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ增進シ其ノ懿德良能ヲ發達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊ニ依リ與ニ倶ニ國家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ玆ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
 國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ將來此ノ憲法ノ條章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
 朕ハ我カ臣民ノ權利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範圍内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
 帝國議會ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議會開會ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
 將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
 朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ

現代語訳
 朕は、祖宗の功績を受けて万世一系の帝位をふみ、朕の親愛なる臣民はすなわち朕の祖宗が恵み、愛し、慈しみ、養ったところの臣民であることを思い、その幸福を増進し、その立派な徳と生まれながらの才能を発達させることを願い、またその補佐によって、ともに国家の進運を助けてくれることを望む。
 そこで明治十四年十月十二日の勅命を実践し、ここに大いなる憲法を制定して、朕に従ってくれることを示し、朕の子孫および臣民とまたその子孫によって永遠に命令に従い実行してくれることを知らしめる。
 国家を統治する大権は朕がこれを祖宗より受け継ぎ、また子孫へと伝えていくものである。朕および朕の子孫は将来、この憲法の条文に従って政治を行うことを誤ってはならない。
 朕は我が臣民の権利および財産の安全を貴び重んじ、またこれを保護し、この憲法および法律の範囲内においてその享有を完全に確かなものだとしてよいと宣言する。
 帝国議会は明治二十三年をもって召集され、議会開会の時をこの憲法が有効となる期日とする。
 将来、この憲法のある条文を改正する必要が出たときは、朕および朕の子孫はその改正を発議し、これを議会に提出して、議会はこの憲法に定められた要件にしたがってこれを議決するほか、朕の子孫および(そのときの)臣民は決してこれを掻き乱して変えようとすることがあってはならない。
 朕の朝廷に勤めている大臣は朕のためにこの憲法を施行する責任を有し、朕の現在および将来の臣民はこの憲法に対し永遠に従順の義務を負わなければならない。

では、だれが作ったのか?

この人達である。
日本国憲法を生んだ密室の九日間
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問題は、だれが作ったか?と岡が聞いた意味は、日本人であろうが米人であろうがだれがつくろうと構わないが、「個人主義」というものを本当に分かったものが作らないと、ろくなものにならない。そういう意味である。

というわけで、いや、というわけではないが、ここでしばしば私が「憲法改正」ではなく、「新憲法を作れ」と言っているように、私の主張と岡の主張が独立に一致したわけですナ。まったく別々の観点から一致したわけである。

私は「自衛のための銃所持も可能となるように新憲法を作るべきだ」ということだが、岡潔は「個人主義を本当に全うできるような、個人の深みを理解する憲法にしろ」と言っているわけである。

まあ、おれに言わせれば、「真の個人主義を生むためには、殺傷能力のある銃を持ってはじめて個人を自覚するのだ」ということになる。サムライが自分が一人のサムライであることを自覚するのが、剣を持った時だというのと同じことである。そうして、真の個人を見出したものだけが、真の軍隊やら防衛軍を持つことができるのである。

そういうものが分からない人間が武器を持つから、簡単に戦争を起こし、簡単に人を殺めるのである。そういうものだと私は考えている。

実は「ふだん戦争はいやだいやだ。まっぴらごめん」なんて言っている人間がいざ戦争になれば、我を忘れてもっとも残虐な人間に変わるものなのである。現実は何事も逆なのだ。普段から銃の危険性に熟知している人間は、そうやすやす人を殺めたりするものではない。そういうことを知らないから刀を振り回すのである。

簡単に死ぬ人というのは、自分がその瞬間まで死ぬなんて一瞬足りとも考えない。だから、死ぬ。むしろ何があっても自分だけは死なないと思っている。だから、簡単に死ぬ。自分だけは病気にならないと思っている。だから不摂生をして病気になる。そういうものだ。

もし明日自分が死ぬと覚悟していれば、あるいは、何かの拍子にいつも死の淵にあると考えていれば、そういう人は事前にそれを回避しようとする。だから、そういう人は無駄な死を避けることができる。そして、明日死ぬかもしれないと思うから、今を充実させようと思う。その結果、ガンジーの言葉のように、「明日死ぬと思って生きよ。永遠に生きると思って学べ」という発想が出てくる。

しかし、大半の人はそうは思わない。だから、この夕方に自分が落雷にあって死ぬなどとは一度も考えない。だから落雷で死ぬ。今吸っているタバコで自分がいずれ重病になるとは考えない。だから吸えるし、だから危険な場所にも飛び込める。そんなもんだ。

個人主義とは憲法の前文を書いた連中が思っているような甘っちょろいものではないのだ。

私もまったく賛成ですナ。
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  by kikidoblog | 2013-07-10 15:53 | 岡潔・数学・情緒

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