邪馬台国論争:いにしえの昔から日本男子と日本女性はカッコ良かったんだヨ!

みなさん、こんにちは。

いやはや、もはや100年以上も時の経ったノーベル賞など今ではイグ・ノーベル賞の足元にも及ばないほどになったからどうでもいいが、やはり古代の極東の歴史と古代日本の歴史ほど興味深いものはない。最近、ねずきちさんこと、
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氏が実に合理的かつ科学的な思考に基いて「邪馬台国論争」について書いていたので、ここにもメモしておこう。以下のものである。
邪馬台国論争
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)といえば、卑弥呼や邪馬台国で有名ですが、これが書かれたのは、3世紀末(280年〜297年間)頃です。
この魏志倭人伝に書かれた邪馬台国について、九州か畿内かという議論があります。
ところがこの議論、実はとっくに答えが出ている議論です。(後略)。


本文は実に興味深くかつ長いので、そちらを見てもらって、ここでは、私個人の妄想をメモしておこう。

(あ)「邪馬台国論争」とは?
いわゆる、邪馬台国論争とは、何だったか?

というと、結論から言えば、第二次世界大戦後の日本の東大と京大に巣食った左翼系学者たちの、自虐史観に基づいた、日本史書き換え、捏造に関わる「東大vs京大」の派閥争いにすぎなかったということである。

ねずさんのような経済学部を出たような人や科学者のような連中が日本の古代史を研究してればよかったが、鼻息だけが荒かった、血筋で言えば、韓国系の系統ないしはそういう連中の息のかかった左翼系の学者の独壇場と化してしまったことが一番の原因だったようである。

まあ、要するに、マッチポンプだったのである。喧嘩(論争)しているような振りをしながら、実際には真実から遠ざけるという、かなり古典的手法でいたずらに時間と金と人材を浪費したのである。

これは、ちょうど今まで、野党の共産党や社会党や民主党と与党の自民党がやってきた政治と非常によく似ているのである。UFO学会や地震学会などもそうである。たいていその中には真実から遠ざけ、むしろ物事を混乱させることが目的だという人物が入っているものなのである。いわゆる、拉致被害者の会もそうだろう。物事をちゃぶ台返しするために、何かの会の会長になっているというようなことは実によくあることなのである。

(い)結論は最初から出いていた!
要するに、結論は最初からわかっていたのであって、第二次世界大戦のために、それまでの日本史をGHQが封印し、それに在日朝鮮人韓国人がうまく乗っかったということにすぎない。

その結論とは、古事記と日本書紀の記述がそのまま正しい事実だった、ということである。

したがって、古代の日本には基本的にアイヌと沖縄の源流の人々が住んでいたが、そこに韓半島を通って、九州の阿蘇山近辺で国を起こした。それが「邪馬台国」=「倭国」=「倭奴国」と呼ばれた。おそらく、全部「やまたいこく」ないしは「やまとこく」と発音したのだろう。

その時代が非常に長く続いたが、それが「山幸彦」の時代になって、その子供の末っ子(つまり、孫)の神武天皇の時代に入り、ついにその場所をもっと東に移動し始めた。ねず氏の記述には四国経由か、中国地方経由かどうかは書かれていないが、おそらく、四国経由で、畿内(和歌山、奈良、三重)の方向に進んだものと思われる。

そして、そこで初めて、倭国よりずっと東の日出る国という意味で、「日本」と呼称し始めた。これが「大和」の誕生である。そして、富士山の麓くらいまでは、大和民族が統治し、それより東北にはアイヌの源流である「毛人」と呼ばれる人たちが住んでいた。

とまあ、ざっとまとめると、こんな感じだろう。

(う)その証拠の数々はいかに?
そこで、ねずさんの紹介してくれた、その証拠の数々というものが、実に面白いので、ここにもメモしておこう。

(1)まず、「旧唐書(くとうしょ)」(AC945年完成)の記述。
この「旧唐書」というのは、完成したのが945年で、魏志倭人伝よりも600年ほどあとの時代のものです。
記載された内容は、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事で、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があります。

その「倭国伝」の冒頭には次の記載があります。

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。

倭国とは、古の倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り。

東西五月行、南北三月行。世與中國通。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。

広さは、東西に五ヶ月の行程、南北に三ヶ月の行程であり、代々、支那と通じている。四方を海に囲まれている島国だ。その倭国には、居住地に城郭はなくて、木でできた柵を塀として囲い、屋根は草葺き屋根だ。そして倭国の四方には小島がある。国内とそれらの島々にある五十余国が、倭国の傘下にはいっている。その王の名は阿毎氏といい、一大統率をとり、諸国を検察し、諸国みなこれを恐れ入っている。官職は12ほどある。

其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級

争いごとが起こると、這って前に進み出て訴えを起こす。その地には女が多く男が少ない。一般の民衆に至るまで読み書きが普及していて、仏教も敬われていた。服装は、みんな裸足であり、幅の広い布の衣装を着ている。貴人は錦(めん)の帽子をかぶり、百姓たちもマゲを結っている。婦人の衣装は、鮮やかな色のスカートに、長い腰襦袢で、髮を後に束ねていて、銀でできた花のカタチの簪(かんざし)をさしている。長さは8寸(約24cm)ほどであり、左右各数枝がある。明らかに貴賎の変わりなく同じものをしている。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地

日本国は、倭国の別種である。その日本国は、日の出の場所、つまり「倭国」からみて東方にある。
そして東にあるから「日本」と名づけた。倭国という名が雅(みやび)でなかったので、あらためて日本という名にした、あるいは日本は、昔は、小さな国だったのだけれど、倭国の地を併せた。

其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國

日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国である。


(2)「隋書(ずいしょ)」の記載。
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵

倭国の真ん中には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執り行っている。宝珠(宝玉)を自在に操り、その色は青、大きな鶏卵のようである。


(3)「新唐書」の記述
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居
(中略)
彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀

日本は、いにしえの「倭奴国」なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である。その「倭国」に、彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿德、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀である。

ここで、「彦瀲(ひこなぎさ)」とは、「海彦、山彦」の物語でよく知られた「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)」と海神の娘である「豊玉姫(とよたまひめ)」の子であるという。

つまり、「彦瀲(ひこなぎさ)」とは、山幸彦と豊玉姫の息子。

「古事記」では「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。
「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。

この「彦瀲(ひこなぎさ)」の末っ子の「若御毛沼命(わかみけのみこと)」が「神武天皇」になって畿内に「大和朝廷」を築いた。

(4)「後漢書東夷傳」の「倭奴国」の記述。
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

建武中元二年(西暦57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う

このときに下された印鑑が、江戸時代天明年間に発見され、昭和6(1931)年に国法となった
漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)
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(5)「隋書・倭国伝」の記述。
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居

倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。(倭国は、新羅や百済などの朝鮮半島南部の国から、東南の方角に海を三千里ほど渡った先にある。)
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵

倭国の真ん中に「阿蘇山」があって、その阿蘇山は火柱を昇らせて天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。宝珠(宝玉)を自在に操り、その色は青、大きな鶏卵のようである。
新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來

新羅や百済は皆、倭を「大国」で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。


(え)ねすざんの結論。
新羅や百済は皆、倭を「大国」で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのです。
「隋」というのは、古代の支那に生まれた強大な軍事大国です。
そして「隋」の歴史書である「隋書」は、その強大な軍事大国である「隋」の公式文書です。
当然、記述は隋の立場で書かれているし、本来支那は中華思想の国ですから、朝貢を受ける国は自分の国だけだというのが大前提です。

にも関わらず、その隋が「倭国は大国だ」と書き、朝鮮半島にあった百済や新羅が日本に朝貢していたと、この一文には書かれているのです。
つまり、強大な軍事大国である隋でさえ、不承不承ながら、百済や新羅が倭国に朝貢することを事実上認めざるを得ないほど、倭国の実力が大きかったということが、この一文から明らかになるのです。

ついでにもうしあげると百済も新羅も、国王は後継ぎとなる長男の王子を、倭国に人質に出しています。
要するに、百済も新羅も、そこまでして倭国の実力を認めていたわけです。
そしてその倭国には、阿蘇山があった。
そのどこをどう読んだら、倭国(やまと国=邪馬台国)が朝鮮半島にあったことになるのか。
アホらしさを通り越して、呆れてしまいます。

いずれにせよ、いつまでも学閥や国家意思のようなドグマにとらわれるのではなく、論理的にも考証学的にも正当な学問的研究がちゃんと進む日本の学会に、なっていただきたいものだと思います。
なぜ、わけのわからない邪馬台国朝鮮半島論などが登場するのか。
要するに、我が国の学会にも、同様のドグマがまかり通っているから、つけ込まれるのです。

毅然とした日本というのは、何かを言い張ったりレッテル張りをしたりする日本のことではありません。
事実を事実として、冷静にちゃんと受け止め、謙虚に学び、語り、伝える。
そういうことが、これからはもっともっと大切になると私は思います。

まさにその通りである。

(お)縄文人と弥生人のイメージは逆だったのではないか
さて、最後に私個人の妄想を、というか、かねてから感じてきたことを付け加えておこう。私が特に重要かつ興味深いと思うのはここである。
其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級

争いごとが起こると、這って前に進み出て訴えを起こす。その地には女が多く男が少ない。一般の民衆に至るまで読み書きが普及していて、仏教も敬われていた。服装は、みんな裸足であり、幅の広い布の衣装を着ている。貴人は錦(めん)の帽子をかぶり、百姓たちもマゲを結っている。婦人の衣装は、鮮やかな色のスカートに、長い腰襦袢で、髮を後に束ねていて、銀でできた花のカタチの簪(かんざし)をさしている。長さは8寸(約24cm)ほどであり、左右各数枝がある。明らかに貴賎の変わりなく同じものをしている。

特に「婦人の衣装は、鮮やかな色のスカートに、長い腰襦袢で、髮を後に束ねていて、銀でできた花のカタチの簪(かんざし)をさしている。長さは8寸(約24cm)ほどであり、左右各数枝がある。明らかに貴賎の変わりなく同じものをしている。」という部分である。

これが、いわゆる「邪馬台国」の女性たちのユニフォームである。

一般に邪馬台国の衣装というと、巫女の衣装という感じで考えてきた。つまり、こんなもの。
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あるいは、卑弥呼のイメージはこんなもの。
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しかしながら、私はそうではなかったのではないかと思う。むしろ、いま我々が朝鮮のもの、古代百済や高句麗のものと思っていた衣装の方が邪馬台国のものだったのではないかと感じるのである。こんなものである。
ワン・ジェサン芸術団の衣装
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少なくとも、朝鮮の人たちが自分たちの古代の衣装だと思っていたものは、その当時ですら「いにしえの昔から倭国は強国な大国であった」と感じていたほどの文明圏だったわけである。そこの衣装が広まったと考えるのが合理的である。

そしてどれほど「いにしえ」の昔からだったかと言えば、おそらくBC800年ほど昔だろうということになる。

この時期にアッシリアから東方に逃げてきた「古代イスラエルの失われた10支族」の一部が、邪馬台国を作り上げた。だから、最初から文字(おそらくカタカナ=古代ヘブル文字)も持っていたし、金印も作ることが出来た。だから、当初から文盲ではなかった。そして、身体も大きく、骨太であり、手足も長く、目もぱっちりし、鼻筋の通った近代的な顔形をしていた。

だから、極東において周辺のアジア系の民族の間では恐れられていた。と同時に、ハンサムな男子のルックスのために、周辺の民族、特に朝鮮系や中国系の民族には憧れの存在であった。

要するに、古代から今現代とまったく同じような状況だったということである。
日本男子は古代からアジアの女性たちの憧れの文明人だったのサ。

これが、私個人の感じるところの妄想ですナ。

つまり、一般にこんなふうのイメージがある。
東京都新宿区で縄文人の骨発掘!マンション予定地で11人分、保存状態良好
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ところで、この写真の「縄文vs弥生」のイメージ写真は、例の韓国工作員の李信恵という人が企画したようですナ。この弥生人のモデルの顔こそ、南朝鮮(韓国)の顔であって、昔の弥生人は中国の山東省の顔とほとんど同一だったから、まったく異なり、長頭型の細面手の顔かたち。つまり、むしろ今の北朝鮮の方の顔に近かったはずなんですナ。李信恵さんよ、もっと研究すべし。また歴史を捏造しないことだナ。つまり、こういう顔。
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中国山東省莱蕪市より実習生10名が入国致しました。より。

しかしながら、邪馬台国の民族は逆だっただろうということである。つまり、邪馬台国ほど、血筋が西洋風に近いルックスの人たちであった。かなりユダヤ人に似た感じの顔形であったはずなのである。

事実、江戸時代末期に日本にやってきた
ノーマン・マクレオド
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によれば、日本人は基本的に4つの人種に分類できるほど顔形が異なっていたと言っている。そして、特に公家やサムライなど高貴な人ほどユダヤ人やイスラエル人顔をしていた。特に、西洋のエプスタイン家の顔にそっくりだったといっていたのである。
 また、ケンペル来日から200年ほど経って、19世紀にスコットランドから、ノーマン・マクレオドが日本にやって来た。マクレオドは日本に来る前、ヨーロッパにいたとき、ユダヤ人たちと暮らしていた。だからユダヤ人の顔つきなどには詳しかった。
 マクレオドは日本に来て、とくに皇族や公家の人々は、ユダヤ的な顔立ちをしていると思ったという。1872年の第一回京都博覧会で、明治天皇と皇族方の姿を見る機会を持った彼は、こう書いている。
「その会場で、私はユダヤ系の顔をした人をたくさん見かけた。彼らの顔立ちはかつて私がヨーロッパで見たユダヤ人の顔とそっくりだった。。。。明治天皇の随行員は、全員がユダヤ人の顔つきをしていた。天皇陛下の顔立ちは、ワルシャワとセント・ペテルスブルグの裕福なユダヤ人銀行家、エプシュタイン家の人々によく似ていた。若い伏見宮殿下は、お写真を拝見した限りでは、皇族の中でも一番イスラエル的な顔立ちをしておられた。」
東伏見宮とはマクレオドの本の表紙の一番左上の顔の人物。
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このエプスタイン系の顔とは、いまで言えば、
オダギリジョー
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の顔である。あるいは、半沢直樹役の堺雅人の顔がそういう系統の顔といえるのである。この顔ですナ。
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事実、この顔の西洋の末裔を見ることができる。それは、かのビートルズを世に送り出した男こそ、この西洋のエプスタイン家の末裔だったのである。この人ですナ。
ブライアン・エプスタイン
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確かにオダギリジョーと堺雅人の顔は英国のエプスタインの顔と似た特徴を持っている。

実はこういう顔が、日本のお公家さんたち特有の、典型的な顔だったらしい。これが倭顔の一つであって、太古の昔から、倭国の男性はカッコ良かったのである。

とまあ、これが私の妄想というわけですナ。


おまけ:
妄想ついでにもう一つ。
そして、日本が朝鮮半島を統治していた時代、日本人との交流がより大きく、日本人のエリートの血筋が色濃く残されたのが、北朝鮮の方だった。日本から相当数の日本人が渡朝鮮し、そこに日本人の倭顔を残していったのだ。だから、北朝鮮人の方が、日本人の顔形に近いのである。


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  by kikidoblog | 2013-10-07 14:17 | 失われた10支族

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