1904年NYTimes記事「日本人が変えた未開の島」:NHK「JAPANデビュー」の反日活動バレた!?1

みなさん、こんにちは。

韓流NHK、在日韓国朝鮮人が社長をしている電通の配下になって久しいが、最近ではやることなすこと裏目に出ている。

昨日の古代の日韓の交流の話も支離滅裂だった。日本の九州で発掘された古代の馬具の遺品と古代新羅の小古墳の数々。昨日の韓流学者たちの見解では、古代に新羅と倭が敵対していたから、文明の進んだ新羅から倭の大和朝廷(番組では、慣れ親しんだ「大和朝廷」と言わずに「大和王国」と捏造していた)への貢物だったという見解を披露した。

三国志の時代だから、その時の新羅の王様は倭国から来たということがすでに証明されているらしい。倭国は九州の阿蘇のこと。そしてそこから分家して畿内の大和が誕生した。同様に倭国から新羅へも分家した。だから、分家した子孫同士が仲違いすることはあり得る。そういう場合には、外国へ分家した方が親元本家に自分がここまで成長したことを示して、他の分家をなだめてもらうのはよくあることである。

新羅王は八坂のヒスイ勾玉を体中に身にまとっていて、ヒスイは日本からしか出ないのだから、倭国から分家したのは当たり前。だから、分家の古墳の方が本家の古墳よりちゃちになる。

とまあ、私はこんなふうに見ていたのだが、さすがに途中からあまりのクレージーさにあきれて見るに耐えなくなった。最近の韓HKはすべてがこんな調子である。

同じようなことは数年前の2009年以前にも行われていたらしい。それが今回台湾人から裁判を起こされてNHKが敗訴したというニュースである。これである。
NHK、逆転敗訴 東京高裁が番組巡り賠償命じる
2013/11/28 22:16

 日本の台湾統治を扱ったNHKの番組で名誉を傷つけられたとして、出演者らが損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で東京高裁は28日、「人間動物園」という言葉が台湾先住民族の女性に対する差別的表現だったと認め、100万円の支払いを命じた。一審東京地裁判決は原告側の全面敗訴だった。

 判決によると、2009年4月5日放送のNHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー」の第1回「アジアの“一等国”」は、1910年にロンドンで開かれた博覧会に日本が台湾の先住民族パイワン族の人々を連れて行ったことを取り上げた。博覧会には女性の父親も参加していた。

 番組では当時、西欧諸国が植民地の人々の生活を見せ物にしたことを日本もまねた、として、集合写真を「人間動物園」の文字とともに放映。「連れて行かれたのはこの村の出身者たち」とのナレーションの後に原告の女性を紹介した。

 須藤典明裁判長は「差別的な意味合いに配慮せずに番組中で何度も同じ言葉を使い、パイワン族が野蛮な植民地の人間で、動物と同じように展示された、と放送した。誇りを持って博覧会に出向いた人たちへの侮辱だ」と指摘。父親に対する女性の思いを踏みにじり、女性自身の社会的評価も低下させたと名誉毀損を認定した。

 また、NHK側の事前説明が極めて不十分だったとして「表現の自由はあるが、取材対象の名誉に関わる内容を放送するときは同意がなければ免責されない」として賠償責任を認めた。〔共同〕

この番組の貴重となる感性は、まさしく韓国人のものである。韓国人は戦後の反日国粋教育のために世界の民族は韓国から誕生したという歴史教育を行ってきたのである。そして、当然、アジアで一番優れた民族が韓国人だという教育を行っているというわけである。いつしか在日韓国人の手招きでNHKにもたくさんの韓国系のスタッフやプロデューサーだらけになって久しい。これに手を貸すのが中国人社長のいるトレンドマイクロあたりだろう。その結果が、こういった捏造番組の流行であるらしい。


さて、あまり日本の昔の統治のしかたは知られていない。しかしながら、面白いことに、おそらくNHKも知らなかったのだろう。が、日本が台湾を統治して、ならず者に支配されていた当時の台湾が見る間に近代国家に変わった姿に驚いた当時の英米人がいたのである。そして、その欧米の記者が、日本の見事な平和的な統治によって急速に近代国家したその台湾をレポートしたのである。それが当時のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されていたのである。

不遜韓国人に汚染されたNHKにとっては不幸である。NHKの歴史捏造がばれてしまったのである。

この記事のことはすでにいくつかのサイト
台湾は日本の生命線!

NHK「JAPANデビュー」が日本の台湾統治史を台湾人抑圧・弾圧・殺戮の歴史と描いて問題になる中、ネット上では約百年前の「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された記事が話題になっている。

記事のタイトルは「日本人が変えた未開の島―台湾」。日本統治下に組み込まれた台湾の近代化状況を伝えている。一九〇四年九月二十四日付の記事だから、一八九五年の日本の台湾領有から九年目のものだ。

一九〇四年とは、「JAPANデビュー」の語る歴史によれば、日本が住民殺戮の「日台戦争」を経て、後藤新平民政長官の「匪徒刑罰令」で三千人の住民を殺し終えた翌年である。

実際には殺戮したのは土匪(山賊)集団など武装反抗勢力。治安確立のためだったが、あの番組を見る限り、一九〇四年の台湾はなお殺伐とした暗黒社会であるかと想像してしまう。

そこで重要になるのが、外国人特派員による当時のレポートだ。そこには番組が決して語ろうとしなかった歴史の側面がはっきりと語られている。

実はこのレポートは今から二年前、台湾でも原文や漢文訳が、台湾独立派などの複数のブログに掲載され、ずいぶん話題になっていた。私も昨年、台湾人の友人から「日本の総督府の功績に関する驚くべき内容だ」と推薦され、読んだことがあった。

なかには当時の写真も掲載しながら二ヶ国語で記事を紹介する手の込んだブログもあった(ブログ「年糕料理館」)。

こうしたものを話題にできる台湾人の感性は、やはり中国人や韓国人とは違うなと思ったことだった。

【参考】「年糕料理館」―百年前的台灣報導
http://blog.roodo.com/gamy543/archives/4280905.html

そこでここでもその手法を真似、それら写真を拝借しつつ、日本語訳を掲載したい。これは東郷勇策氏と尾形美明氏による精訳である。

重要なポイントはレポート末尾の「1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加している」と言うくだりではないだろうか。

これは日本の施策により、治安が確立され(土匪集団の解体によるところ大)、近代的な法治社会、産業社会が現出し、衛生医療環境が改善され、食糧が増産された結果、住民の生存環境が著しく改善された結果ことを示すものだ。

なお、ここで見られる「原住民」とは、今日「原住民」と呼ばれる高砂族だけではなく、それ以外の平地住民を含む。

※「註」は訳者。

が取り上げていたが、ここにも一応メモさせてもらおう。ここではねずさんの翻訳版の言葉が読みやすいのでそちらをメモしておこう。以下のものである。
日本の台湾統治の真実
ニューヨーク・タイムスの記事(1904年9月25日)
e0171614_10143110.gif

日本人が変えた未開の島―台湾~他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々~☆他の植民地主義国家への教訓☆

1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙では、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。

どんな事業においても、成功するためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして、「経験」という三要素が必要です。植民地経営も例外ではありません。

実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しています。なぜドイツが植民地の経営に失敗したのか。ふつうに考えられるのは、まず、どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいということです。

そういう意味においても、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。なぜなら、日本の最初の植民地である台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できないとされていた困難があったからです。

日本統治前の台湾島は、支那やその他様々な国からの無法者がずっと好んで跋扈していました。野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがなかったのです。(註:清朝は、台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んでいました。)

スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。けれど絶望の内に断念しています。支那は島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。

未開原住民の懐柔・開化
1894~1895年の日清戦争の終結後、日本は台湾の割譲を要求しました。このとき支那は、喜ばないまでも快くそれに応じています。李鴻章は、「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と、皮肉っぽく論評しています。(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)

日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態でした。奥地は、野蛮な原住民によって支配されていました。海岸部は、難破船を分捕ったり、島に漂着した船員たちを殺害することで生きている無法者や盗賊の集団に支配されていました。実際、台湾が支那領であった頃、外国船船員に対する台湾民たちによる殺戮や攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じています。

1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれました。このとき、支那統治時代の台湾島の管轄者である支那の武官や官僚は、その地位を追われることを恐れて、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者である日本に対する反乱を扇動しています。日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだのは、ようやく1901年の末頃のことでした。それまでは、台湾島は常に不安定で混乱した状態が続いていたのです。

法令施行に於ける寛容さ
台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受しはじめたのは、ようやくこの2~3年のことです。ところが台湾島の様相、すなわち、すこし前までは未開の民であった台湾の原住民の様子は、180度違うものになっています。台湾の人々は、日本の法政を理解し、それを賞賛し始めるようになっているのです。

日本が顕著な成功を収めている政策はに、次のようなものがあります。

まず日本は、可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することを心がけています。

例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入しています。(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えています。)

そしてこれら「成文法」は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用しています。  

阿片常用者の治療(漸禁策)
阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は、最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えています。医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常にさとし、教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。

台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。

17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。なぜなら1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。

財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。台湾の民衆は、公正な政府の下で自由を謳歌できるようになったのです。

次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされました。台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできたのです。それは澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する極めて質の悪い水が主な原因でした。そこで日本人は、浄水の供給を始めたのです。

台湾で掘られた井戸の総数は不明です。けれど総人口の10分の1が住む台北地域だけでも、800以上もの井戸が堀られました。(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)
日本が整備した台北水源地一帯(1903年着工~1905年完工)
e0171614_1024012.jpg




(つづく)




e0171614_11282166.gif

[PR]

  by kikidoblog | 2013-12-03 11:05 | 反日・在日の陰謀

<< 1904年NYTimes記事「... 「NASAの未来計画文書」:な... >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE