「司馬史観」以上の「ねず史観」1:戦後日本は「しょうゆ組」に乗っ取られたらしい!

みなさん、こんにちは。

司馬遼太郎と言えば「司馬史観」。かつて故柘植俊一博士がその著書
反秀才論
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の中で絶賛したものである。

その当時の1970年代から80年代は、いわゆる「受験戦争」「受験地獄」の時代となり、伊丹十三の「家族ゲーム」が描いた時代である。こんな受験一辺倒の時代にあって、戦前の俊雄のような第一級の人物が育つだろうか?、ということを論じたわけである。

我々が目撃した真実の歴史では、「まあ、それなりに育っていた」というところだろう。今回の青色発光ダイオードの発明の中村、赤崎、天野の3人を見ても分かるように、東大にはいなくなったかもしれないが、名古屋大や東北大など他の大学内にそこそこ「反秀才」の居場所があったということになる。

さて、「司馬史観」もさることながら、「ねずさん」こと、小名木善行さんの「小名木史観」ないしは「ねず史観」というのもなかなか捨てがたいものがある。両方基本的な部分は同じであるが、前者は「サムライの最後のほとばしり」「サムライ時代の終焉」を基本にとっているらしいが、後者では「日本人魂」「日本人の心」の不変性を基本にとっている。だから、互いに補完しあう史観ということができる。

さて、司馬史観亡き後のねず史観、今日最近の記事に非常に興味深いものがあったので、今回はこれをここにもメモしておこう。

テーマは井上成美である。この人は以前ここで、私が個人的に調べた故三國連太郎さんの父親は日本海軍の南雲忠一ではなかったかというもの
佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?
でメモした人である。(特にこの中で、戦前の日本軍人の顔つきは非常にいい顔をしていたということを強調した。我々の言い方ではハンサム。今風の在日マスゴミ流の言い方ではイケメンであった。私は英語風のハンサムという語の方が適切だと感じる。なぜならハンサムというのは客観的事実をいう言葉だが、イケメンというの主観が入るからである。)

しかし、ねず氏の元記事には写真がないので、適当にそういうものをつけて、だれがだれだったかをはっきりできるように、補足しておこう。以下のものである。

井上成美提督

几帳面で謹厳実直、まじめ一筋、けれど全力で生きてきた。
誰よりも努力した。
勉強もした。
世界の情勢に通じ、時代を確実に見通す眼も持った。
だからこそ、長いものに巻かれない生一本を貫いた。
遊ぶこともしなかった。
ただ、たまにギターをひくのが唯一の楽しみだった。
かつての日本人には、そんな人がたくさんいました。

そんなひとりに、井上成美(いのうえしげよし)元海軍提督
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がいます。
井上提督は、大東亜の開戦に、断固反対しました。
けれど、国家は開戦への道を進みました。
提督は、全力を尽くして戦いました。
そして終戦。
多くの優秀な部下を失いました。

戦後、彼は、一切の人前に出ることを拒み続けました。
そして贅沢とはほど遠い生活を送りました。
毎年8月15日には、一日中、緑茶以外は摂らずに絶食しました。
ひとり、古びた軍帽を被って、一日部屋で端座して遠い海を眺め、戦死した仲間たちの冥福を祈りました。

井上成美海軍大将は、明治22(1889)年、宮城県仙台市で生まれました。
仙台二中(現:宮城県立仙台第二高等学校)を優秀な成績で卒業し、江田島の海軍兵学校に学びました。
海軍兵学校の入学時の成績は、180名中8番です。
そして卒業時の成績は、2番です。
トップ集団の中で、さらに成績順位が上がったということは、相当な努力をする人であったということです。

兵学校を卒業した井上大将は、練習艦「宗谷」
宗谷のすべて
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(終戦後、宗谷は最初の南極観測船に転用された。)
乗り組みました。
このときの艦長が、後に終戦時の内閣総理大臣を務めた
鈴木貫太郎
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第一分隊長が
山本五十六
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指導官が後の連合艦隊司令長官でフィリピンで殉職した
古賀峯一
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でした。
いま振り返ってみると、まさにそうそうたる豪華メンバーです。

大正4(1915)年に、新造艦であった
「戦艦扶桑
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に分隊長として乗り込んだ井上大将は、翌大正5年に、
海軍大学
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に進学しました。
その後、イタリア駐在武官(昭和2)、海軍大学教官(昭和5)などを勤め、昭和7年には、海軍省の軍務局第一課長に就任しています。

その頃のエピソードがあります。
当時海軍軍令部は「軍令部令及び省部互渉規定改正案」を作ろうとしていたのですが、一課の井上成美課長が、案に真っ向から反対しているというので、海軍大学で一期上の
南雲忠一(後の海軍大将)
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が説得にやってきたのです。
大激論となったそうです。
論戦の果てに、南雲は激昂して、
「お前のような奴は殺してやる!」
と言いました。井上は、
「やるならやれ。死んでも俺の意志は変わらん!」
と、あらかじめ用意してあった遺書を南雲に見せたのだそうです。覚悟の上だったのです。

井上大将は、日頃から南雲大将をとても尊敬していました。
けれど、どんなに尊敬する先輩の説得であっても、イケナイものはイケナイ。
彼は、先輩後輩という「私」ではなく、職務という「公」を優先する男だったのです。

日本人は、論争を好まない民族です。
けれど「公」を背負ったときには、断固争う。同時にどんなに争っても、根底には相手に対する礼と尊敬の念が必ずある。それが日本人です。

昭和8(1933)年11月、井上は
練習戦艦「比叡」
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の艦長に就任しました。
このときの井上艦長の訓示です。
「軍人が平素でも刀剣を帯びるのを許されており、吾々またその服装を誇りにしておるのは、一朝事ある時、その武器で敵を斬り、国を守るという極めて国家的な職分を果たすからである。
国家の命令があって初めて軍人は武器を使用できる。手元に武器があるからと言って自分勝手に人を殺せば、どんな思想信条であろうとただの人殺しである。」


昭和11(1936)年、井上成美提督は、正月に催された横須賀陸海軍の親睦会に出席しました。
このとき、一緒に呑んでいた
憲兵
隊長林少佐(拙注:林清か林耕三かが分からない)が、井上に
「貴公、貴公」
と話しかけました。
これのとき、井上が激昂した話が伝わっています。彼は、
「君は少佐ではないか。私は少将である。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは無礼である。海軍では、軍艦で士官が酒に酔って後甲板でくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をする。これが軍隊の正しい姿である。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん!」

翌日憲兵隊長が謝罪に訪れました。普通ならこれで終わりにするのですが、井上は、
「あとで謝るなら最初からするな!」と相手が謝罪しても、一歩も譲りませんでした。

たかが酒の席のことで、と思われる方もいるかもしれません。
けれど、常住坐臥、常に戦場に心を置くのが武人です。
たとえ酒の席であっても、非礼は非礼として絶対に赦さない。
その厳しさこそが日本の武士の心です。

また階級差で、少佐が少将に「貴公呼ばわりするのは怪しからん」というのは、いささか階級主義、権威主義なのではないかという人がいました。
それも違います。
身に寸鉄を帯びる軍人が、酔ったからといって節度を忘れるようでは、これほど恐ろしいことはありません。
そういう意味で自己に対するどこまでも厳しさを忘れないのが日本の武士であり、帝国軍人であったのです。

憲兵の林少佐も、そのことに気が付いたから、謝ったのです。
井上も「最初からすなっ!」と声を荒げたけれど、気がついた林少佐を、言葉では叱りながら、心で許しています。
そのことに林少佐は気がついたから、井上提督を尊敬するのです。

そういう、「互いに相手の心を察する」という文化が、日本の文化の基本です。だからこそ、互いに人として成長していくことができるのです。

そしてそういう姿勢が、この話の両者にあり、この話を聞く側にも常識として具わっていたからこそ、こうしたエピソードが逸話として活きてくるのです。

昭和10年、井上が横須賀鎮守府の参謀長だった頃のこと、ある艦艇の艦長が、乗員に上陸禁止令を出しましたた。ところが自分は上陸して
水交社
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で飯を食っていました。
そのとき食堂に、井上参謀長が現れました。
彼は艦長に向かって言いました。
「貴艦には上陸禁止令が出ていたはずだが?」
当然艦長は、それを認めます。
すると、「それは艦長命令で出したのか?」
艦長「はい、艦長命令で出しました。」
すると井上の眼がみるみるうちに吊りあがり、
「自分が出した命令を自分で破ってどうする。すぐに戻れ!」と激怒しています。

艦長は、あわてて自艦に戻りました。
すると艦長室の入り口にゴミが置かれていたのだとか。
これは乗組員たちの、ささやかな抵抗です。
上に立つ者こそ、規律を守らなければならない。
でなければ、組織は成り立たないのです。

共産主義の人治主義のもとでは、上に立つ者にはありとあらゆる自由が許容されます。
下の者は、銃を突きつけられて無理やり言うことをきかせられる。
これでは、人として、組織として、人は育ちません。

学校で、先生が生徒に規律を守れ!というなら、まずは先生が率先して規律を守らなきゃならない。
会社で上司が部下に規律を守れ!というなら、まずは上司が率先して手本を示さなければならない。
それは
上杉鷹山
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(米百俵の話で有名)

の師匠だった
細井平洲
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の教えでもあります。


(つづく)


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  by kikidoblog | 2014-10-17 09:52 | 人物

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