「司馬史観」以上の「ねず史観」2:戦後日本は「しょうゆ組」に乗っ取られたらしい!

(つづき)

昭和12(1937)年、日本は、日独伊三国同盟を締結しました。
海外「俺達は嘘の歴史を教わった」 日独の蜜月を伝える貴重映像に外国人衝撃
映像は1941年に、当時の外務大臣であった松岡洋右が、
ドイツ、イタリア、ソビエト連邦を歴訪した際にベルリンで撮影されたもので、
ベルリン市民の熱狂的な歓迎を受ける様子が紹介されています。

Hitler and Germany Welcome Japan's Foreign Minister 1/2

これに対し、当時軍務局長だった井上は、
米内光政海軍大臣
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山本五十六海軍次官
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永野修身軍令部総長
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らとともに猛烈と反対しました。

昭和12年とえいば、日華事変の最中です。
そして日華事変を背後で操っているのは、米英です。
けれど、だからといって、この時代にドイツと手を結ぶということは、米英と真正面から対峙することになるのです。
だから反対したのです。

当時の新聞などの論調は
「日独伊三国同盟は集団防衛であり、我が国の国益に適う」
拙注:これが戦前の朝日新聞が吹聴しアジったこと。戦前戦中戦後と朝日新聞はずっとアカヒ新聞だった!
というものでした。
けれど井上は、
「集団防衛というけれど、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。またできるのか。強い国と仲良くしていかなけりゃならんのに、アメリカとも仲が悪くなるし、イギリスとも悪くなる。一方で、ドイツからは何等の恩恵もこうむらない。日本にとって何のメリットもなく、得するのはドイツだけです」
と述べています。

振り返ってみれば、井上大将の先見性の方があたっていたといえようかと思います。
けれど当時、三国同盟に反対する井上のもとには、「斬奸状」「宣言」などの奉書が送りつけられ、まさに国賊扱いでした。(拙注:こういうことの手口から戦前戦中戦後と朝鮮人が動いたことが明白。連中はずっと「韓国していた」のだナ。)いまならさしづめ、マスコミから総攻撃を受け、ネットで悪口やら誹謗中傷やらをめいっぱい受けるようなものです。
三国同盟に反対する米内、山本、井上は、「海軍左派の三羽烏」とまで揶揄されています。

昭和15(1940)年、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長となっていた井上に、事件が起こりました。
上海の共同租界で、私服の日本人憲兵が支那人の強盗に襲われ殺害されたのです。
陸軍はこれを口実に国際法規を無視して、一個大隊を租界に進入させようとしました。

これに対し井上は、
「強引に租界に入ろうとする者は、たとえ日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」
と命令しました。
上海海軍特別陸戦隊は、陸軍の行進と対峙し、押し問答の末、陸軍が引き下がっています。

結果からみれば、陸軍の判断の方が正しかったのかもしれません。
外国人一人を殺害したら、支那人1万人が報復攻撃される。
そのくらいの実力行為があってはじめて「侮れない相手国」と看做される。支那社会というのは、そういう社会だからです。
実際、支那に駐屯していた欧米白人諸国は、ぜんぶそうやって自国民の安全を図ってきています。
おかげで、いまだに支那人社会では、現実に植民地支配をしていた欧米に対しては、なんら苦情の申し立てがされません。
支那の社会では、何十万人が殺害されようが、いま自分が生残っていればそれで良いのです。
そして生残るためには、あえて危ない橋は渡らない。
これが彼らのマインドです。

けれど、その一方で、本当の意味での平和と繁栄を築くためには、そういう支那人的わがままには一切妥協せず、どこまでも正しい道を貫いて行くという努力が必要であることも事実です。
そして、いまを生きる私たちにとって必要なことは、そのどちらの判断が正しかったかという評価ではなくて、そういう見解の相違がかつてあったのだという事実から、私たちが何を学び、そこからどういう未来を建設していくかにあろうかと思います。

昭和16(1941)年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃の日、井上大将はカロリン諸島のトラック島で第四艦隊旗艦
鹿島
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艦上にいました。
そして艦の無線で、「トラトラトラ」を傍受しています。
通信参謀だった飯田秀雄中佐が井上に、「おめでとうございます」と言って電報を届けたのだけれど、そのとき井上は、
「何がめでたいだバカヤロー!」
と物凄い剣幕で怒鳴ったといいます。
飯田中佐は、そのときは何故自分が怒鳴られたのかわからなかったけれど、本土に帰還し、焼け野原となった東京を見たときはじめて、井上の「バカヤロー」の意味を理解できたそうです。

戦争が終わった時、戦前の海軍省は、第二復員省という名称になって、外地からの兵士の復員を専門に扱う省庁となっていました。
この復員省に、ある日、井上が自宅があった三浦半島の名物のミカンを大量に手土産に持ってやってきたそうです。
そして、
「田舎にはこんなものしかありませんが、みんなで食べてください」
と、旧部下に心づかいを見せたという。
この当時は、食べ物もなかなか入手できない困窮の時代です。
その時代に、ミカンは非常に貴重な果物だったのです。

それを井上は、自身も後日、貧困のため栄養失調と胃潰瘍で入院を余儀なくされるほどの生活を送っていながら、貴重なミカンを机に山が出来るくらい、たくさん持参して、みんなに食べてもらっています。
当時復員局員だった
中山定義
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は、
「元の大将中将で、復員局を訪れてかつての部下を労ってくれたのはそれまで一人もいなかった」
と述べています。

そして井上は、昭和50(1975)年に86歳でお亡くなりになるまで、横須賀で隠棲して暮らしました。
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近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたけれど、
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謝礼を受け取らないので、生活はそうとう厳しかったようです。

軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受けられるよう取り計ろうとしたけれど、これも
「自分は軍人である」
と拒否しています。
さらに、海上自衛隊が発足した当時、海自の練習艦隊壮行会で、
嶋田繁太郎
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(A級戦犯にもかかわらず命乞して生き延びた。)
が出席して乾杯の音頭をとったと聞いたとき、
「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」
と周囲が青ざめるほどに激怒したといいます。

(拙注:上の部分はこのことを指しているらしい。)
東京裁判[編集]
終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」と語った。

極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と、元外務大臣東郷茂徳と対立。「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と批判した[11]。

海軍における戦争遂行の最高責任者として死刑は免れない、という予想が大多数を占め、実際に判事の投票では11人中5人が死刑賛成だったが、自己弁護により死刑は免れ、1948年11月12日終身禁固刑判決を受けた。東京裁判での自己弁護はウェブ裁判長が褒めるほど見事なものであった。そのことを憲兵から聞いた嶋田は日記に嬉しかったと記している。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと武藤章が日記に書いている。

1955年仮釈放後赦免される。海上自衛隊の練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。『昭和天皇独白録』では「嶋田の功績は私も認める」という天皇の発言があり、嶋田について、「知恵があり、見透しがいい」人物としつつ、「部下に対して強硬であったこと」がその不評判の原因だったとしている。


島田繁太郎という人は、大東亜戦争開戦時の海軍大臣だった人です。
要するに井上提督は、自分が軍人として、将官の立場にありながら、多くの部下や民間人を犠牲にした。そのことと真正面から向き合って残りの人生を過ごしたのです。

会社が倒産したとき、その会社の幹部が、多くの社員を犠牲にしたことを恥じ、隠棲生活をした、という話は、あまり聞きません。
井上提督は、開戦当時、第四艦隊司令長官であったけれど、それは大東亜戦争そのものの開戦責任を負うような立場ではありません。
けれど、彼は、多くの若者を犠牲にしたことと、生涯真正面から向き合って過ごしました。

それは、とても辛いことです。
けれど、それをやりとおしたのが、井上成美という人物だったのです。

先日「しょうゆ組」のことを書きました。
しょうゆを飲んで兵役を逃れた卑劣な連中が、戦後は、自分たちの卑劣さを正当化するために戦争反対、戦前、戦中の日本は異常だった、日本は悪い国だと声高に主張しはじめました。
私ははっきりと申し上げたいのです。
そういってきたあなた方こそ、異常で悪い人たちなのですよ」と。


とういうわけで、おソース顔とおしょうゆ顔という言い方があるが、それとはだいぶ違うが、しょうゆの一升瓶を飲むと、一時的に病気になり、仮病を起こして兵役を逃れる。いま在日韓国人がこれを必死でしている。あるいは、道行く罪もない子どもたちの隊列に突っ込んだり、殺傷して韓国への兵役逃れを行っている。これと同じことを戦前行った連中がいたということである。戦前の朝日新聞こそその「しょうゆ組」の代表格であり、戦後は連合軍に媚びへつらい、朝鮮進駐軍をつくって若い女性をレイプ、殺害、陵辱、拷問したり、自虐史観の反日報道に明け暮れた連中の同類だったというわけである。

いまやそういう真実が明るみに出た。

朝日新聞もまた「しょうゆ組」=在日韓国系だったという証である。

とまあ、長くなったが、ねずさんの記事を写真絵本化した。


おまけ:
海軍大将井上成美 ① 『余生に英語塾開く』



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  by kikidoblog | 2014-10-17 09:58 | 人物

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