個人メモ:私と保江博士との「裏腹」なところ→人にも双対性はあったのか!?

ヒトの双対性

保江邦夫博士「ヒトを見たら神様と思え」
井口和基博士「ヒトを見たらヒトモドキと思え」

保江邦夫博士の秘技「ハトホルの神降ろし」
井口和基博士の秘技「奥さんの髪下ろし」

保江邦夫博士の弟子「無数」
井口和基博士の弟子「皆無」


みなさん、こんにちは。

いや〜〜、それにしても私、井口和基
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と同じ理論物理学者であり、数理物理学者である保江邦夫博士
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は面白い。何が面白いかといえば、何から何まで私と「裏腹」「相反的」「双対的」だからである。

今回はそんな私的な側面をメモしておこう。普通の人にはどうでもいいことだろうから、無視無視。スルーして欲しい。

(あ)生誕地
私と保江博士は、年齢的には保江博士が6歳上の1951年生まれで、私が1957年生まれで、わずかに違う。

私は山梨甲府生まれの関東出身の東日本生まれ、保江博士は岡山生まれの西日本生まれ。

(い)生誕から家庭環境
私はイエス・キリスト同様に、今で言えば、馬小屋のような掘っ立て小屋の家で生まれた。実際には、あまりにひどい場所だったので、他人の家で産婆さんの手によって産声を上げた。しかし、私には、立派な両親があった。その母親は昨年暮れに亡くなったが、高度成長期と相まって、事業の宝石製造業が順調に成長して、私は成長した。私の高校時代は、父が山梨の宝石業界のリーダーになっていくつもの業種を率いていたから、我が家はリッチで何不自由なく、生活できた。野球サッカーとスポーツに打ち込めた。だから、高校まではほとんど本も読まず、ただひたすらサッカーに打ち込んでいた。読んだ本といえば、ほとんどがサッカーの本であった。せいぜい小学校時代に読んだジュール・ベルヌの小説くらいしか記憶に無い。小5から始まった天体への関心から、中学で口径8cmの五島式屈折望遠鏡を持ち、火星大接近の時に火星のスケッチをしたり、高校時代には自前の現像所を持ち、天体写真を撮っては、現像したものである。アンドロメダ星雲の写真を撮って現像したり、月面写真を自分で印画した。

一方、保江博士の「愛の宇宙方程式」によれば、いきなり「僕は母親を知りません」とあることから、理由は分からないが、保江博士はずっと父親1人の手とその両親である祖父祖母とともに育てられたようである。母親からの愛情を受けること無く育った。その後、小中高とかなりインドアー派のようにみえるが、方程式をそのまま黒板に書いたように記憶できる(私も同じ)という能力から、勉強は非常によく出来たようである。大学へ入って初めて合気道部に入る。そして天文への興味から、天文学科に入る。

私と保江の共通点は、ともに天文学や天体に関心があったということである。また、私もけっこう飽きっぽいので、一度講義したらもう二度と同じことはしたくないという質だが、保江博士も似た傾向を持つ。

(う)大学大学院
私は、高3の夏休みまで全力でサッカーだけに打ち込んでいたから、ほとんどまともに受験勉強をしていなかった。高3の夏休みに日に10時間勉強した先輩がいたという学年主任の話を真に受けて、じゃ、俺は日に12時間だといって、それに挑戦した。が、結果は大失敗。夏休み後の基準テストで惨憺たる成績で、極度のスランプに落ちた。10月までろくに勉強せず、結局ラジオ講座を1日1題で勉強し始め、それから徐々に復活。最後のテストの数学でなんとナンバー1に輝いた。それのみ、結局、東理大理物、東理大理工物、中央大理工物、早稲田理工物、東工大理学部物の5校を受けたが、東理大理工物理、中央大理工物だけが合格。結局、東理大理工に進学した。

また、大学院は、阪大基礎工、京大理、東北大理の3校応募したが、最初に始まった阪大基礎工がすんなり合格した。京大理では一問符号を間違えてあまりできず、大失敗。不合格。東北大も残っていたが、阪大に行く気になって受験を止めたのであった。

そこで、私は最初卒研で「ブラウン運動理論」を学んだが、阪大の基礎工では、数理系入学で物性系の統計物理学研究室に入った。そこで「ブラウン運動の量子力学」を学びたいと言ったのである。しかし、これが指導教官の中村伝教授の逆鱗に触れ、それ以後私は見捨てられ、研究室内のジプシーと化した。結局、すべてを独学で、物性の場の理論や統計力学を研究したのである。この初期に、私は「ネルソン−保江理論」を勉強したのである。

だから、院生5年目になるまでまったく論文を書けるレベルに達しなかった。5年目にはいくつか論文を書いたが、指導教官の5年目内に論文が掲載されなければ博士はやらんという指令によって、結局日時がすぎて就職に転じたのである。

さて、一方の保江博士は、東北大理天文入学、京大修士、そして名古屋大博士卒とある。そこで、素粒子理論物理学を選んだ。そこで、東北天文から京都大理、名古屋大理と進むに連れて、いい指導者と出会い、「ブラウン運動の量子化理論」「確率場の量子論」の研究を行い、修士博士の時代にすでに8つの良い論文を出した。

このように、お互いにジプシー的にどんどん住処を変えるというので一致している。が、面白いことに、私は関東から関西に来たの対し、保江博士は関西から関東そして名古屋京都まで。だから、もし私が京都や東北に行くことがあれば、その時代に出会ったのかもしれないが、まったく出会うことなく、40年ほど経ったのである。

また、私はいい指導者に出会えなかったこと、すべて自分で学ぶほかなかったことに対し、保江博士の場合は、かなりいい指導者メンターと出会ってかなり早熟の気鋭の理論物理学者に育ったのである。

ここでも、すべてが裏腹である。

(え)留学
私は、阪大では博士号を取ることなく1985年に就職。そして、翌年1986年にアメリカのユタ大学へ留学した。ユタでは4年過ごしたが、欧州へは一度も行ったことがなかった。私は、最初理論の甲元眞人先生、その次がアモルファス実験のクレッグ・テイラー先生、その次がポリアセチレンソリトン実験のヴァーディー二先生、そして、最後に理論のビル・サザーランド先生の指導を受けた。結局、サザーランドの下で「1次元準周期格子理論」でPh. D.になったのである。

一方、保江博士は、名古屋で博士号を取って後、スイスのジュネーブ大理物に留学し、ウォルフガング・パウリの助手だった、お弟子のポール・エンツ教授の助手になった。その時代は「愛の宇宙方程式」以降に詳しい。そしてついに確率場の量子化の「保江方程式」を発見した。

というように、私と保江博士は、これまたジプシーのように海外留学組という共通点はあるが、私が北米に行ったが、保江博士は欧州へ行ったのである。ここでも会う機会がなかった。また、私が物性理論物理でPh. D.を得たの対し、保江博士は、素粒子理論物理で研究した。

というように、出発点ではともにブラウン運動から始まったが、私は物性、保江博士は素粒子だから、研究分野でも出会うことはほとんどなかったのである。


(お)留学後
アメリカ留学後、1990年10月に帰国して私は、故和達三樹博士の紹介で、東芝基礎研と富士通システムラボの見学をした。結局、富士通に入社した。2年後に、大学ではなく、理化学研究所のポスドク、基礎科学特別研究員に合格した。そして、大学に職を得ることなく(臨時の講義は別として)、ずっとフリーの物理学者となった。

一方、保江博士は、帰国後の最初に東芝総合研究所に入所とあり、それから、ノートルダム清心女子大教授となった。その後ずっとそこにいる。

というように、これまたあわやというのが東芝であったが、私は東芝を選ばなかったために、その後、20数年出会う機会を逸したのである。

(か)性格
私はあまり保江博士個人とは、昨年4月28日、29日にヒカルランドで対談するまで、そしてその後の打ち上げでいっしょに飲んだ時の印象以外に知らないのだが、これまた性格もまったく正反対であることは明らかである。

私は、短気で熱しやすく冷めやすい。サッカーブラジル代表監督のドゥンガに対して俺の真似しやがってと思うタイプである。特に、悪いやつには容赦がない。ぶん殴っても従わせるというタイプであった。いまではそうでもないが、もともと激しく、厳しい性格である。いまではローリング・ストーン状態である。

一方、保江博士は、おっとりほのぼの系の優しい性格の持ち主である。愛魂の持ち主の合気道の師範代である。ヒカルランドの人の言い方では、ほんわかした人である。

また、私は、「他人が大嫌い、特に鮮人支那人は大嫌い。特亜はウィルスになって皆殺ししてやる」というタイプだが、保江博士は「他人を見たら神様と思え」というタイプである。私はもちろん無神教だが、保江博士はマリア様を信じている。したがって、保江博士はハトホルの「神降ろし」をできるが、私は妻の「髪下ろし」しかできない。

共通点は、不可知なものの存在をあえて否定しない。科学的真実の外側にももっと広がった世界があるという信念である。同様に、今現在の科学や物理の中身にかなり批判的であるということである。また、私も保江博士も日本物理学会のメンバーではない。だいぶ前から脱落したのである。


とまあ、今現在適当にメモできるのは、こんなところですナ。



おまけ1:
ついでに、保江博士のシリーズに関して、メモしておこう。

保江博士の論文集「It Appears!」を読んだことのない人にはわからないはずだが(私自身昨年初夏に保江博士からこの本をいただくまで読んだことはなかったら知らなかったが)、この論文集の論文は、赤い表紙の本で、1993年に出版され、1976年〜1992年まに公表された保江博士の英論文を集めたものである。

このシリーズ「数理物理学方法序説」は、どうやら、保江博士の研究世界である「確率場の量子化」「保江方程式」の世界への方法序説ということである。保江博士は、いつも言葉にヒントや謎かけを置く。だから、これはそれが解る人にはわかるが、わからない人は表面上だけを読んですぎてしまう。そういうイエスの活人術の名手である。

「方法序説」とあるからには、これは「デカルトの方法序説」からとったものだと感じなければならないが、普通はイントロダクションだと考えて単なる入門書と見る。たとえば、とね日記の人なんかはそうである。そういう人はあまり学問には向かない。

つまり、「数理物理学方法序説」とあるからには、「これから僕は、デカルトの方法序説に匹敵するやり方で数理物理学をやってみせる」という著者の意気込みとメッセージを感じ取れねばならないのである。それほどの意気込みをこの短いタイトルに感じ取る力があるかどうかがその人の才能のあるなしの兆候なのである。

それゆえ、その心的ストレスのために、保江博士は不治の病である末期がんに侵されてしまったのである。
それほどまでに命を削ってお書きなられたものだったのである。

さて、しかしながら、私個人の見解では、やはりこのシリーズはまだ保江博士の世界への入門のにの字のレベルにすぎない。あくまで、「It Appears!」にある1992年頃までの成果を読めるようになるためのものにすぎない。特に、初期の大学院生時代の1970年代のものがほとんどすべてのルーツである。

その後、フランス人のお弟子さんのザンブリー二博士と、ベルンスタイン過程の確率論を量子力学に応用していくのだが、これはこの数理物理学シリーズの2001〜2002年の数年後の2007年に
量子力学と最適制御理論
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湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?
となってまとめられたようである。

さらに、治部真里というお弟子さんと「量子脳理論」に進む。その成果がこれである。
Quantum Brain Dynamics and Consciousness: An Introduction (Advances in Consciousness Research, V. 3)
Quantum Brain Dynamics and Consciousness An Introduction
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この治部真里さんとザンブリー二さんと保江博士のアメリカ国際学会中の珍道中が
物理学者のみたUFO」(Boundary 1997)
エリア51探検記
という連載である。著者名は「竹久おさむ」(ファー・イースト・リサーチセンター研究主幹兼副所長)となっているが、これこそ保江邦夫博士のカミングアウト前のペンネームであった。もう時効とのこと。

というわけで、保江先生の数理物理学シリーズを読めばすぐにでも最先端にいける、なんぞと思った向きも多かったに違いないが、それはまあ保江博士のご好意なのであって、実際にはもう遅すぎる、のである。30年以上前なら良いが、いまではもっと進んでいる。しかし、何事も学問に王道なし。さらに先へ行きたければ、結局はその最初から地道に学んでいく他ない。

俺個人が興味を持っているのは、1993年以降の保江博士の研究分野である。これは、その後の調査では、弟子のザンブリー二博士が行っているようである。いまは、流体理論の乱流理論を集中している。この意味では、別冊の最後の部分が、ちょうどこのザンブリー二流の分野である。

保江博士自身は、美人理論物理学者の治部真里さんと量子脳物理学をモノしてから、愛魂やスピリチュアルの方面に研究分野が変化し、ついにはハトホルやはふりの神事の方向に来たから、私個人のさらにずっと最先端を進んでいる。

というわけで、もはやそこは私の手に負えない世界に近い。しかしながら、私個人は、湯川秀樹博士が臨終直前で「これだ、私がやりたかったことは!」と言ったという、物理の世界、これに非常に関心がある。
湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?
つまり、「時空とはなにか?」「時間とは何か?」という問題である。あるいは、「我々の世界は内部空間なのか?それとも、外部空間なのか?」という問題である。「宇宙は連続なのか?つぶつぶなのか?」という問題である。つまり、「何もない空間を粒が動いて状態が変化するのか?粒つぶの空間を状態変化が動くのか?」という問題である。

数学者は、すべて連続を仮定しているから、いくらひも理論であろうが、お粗末すぎる。これを真面目に考えたのは湯川秀樹のみであった。またそれを促した岡潔であった。

いずれにせよ、我々は革命前夜にいる、のである。


おまけ2:
もう一つ。それは、シリーズ本は読んでいないから分からないが、別冊から推察して、どうやら、保江理論の流体力学にまでは進んだようだが、まだオンサーガー理論の導出まではなかったように見える。本来なら、熱統計物理学の基礎であるオンサーガーの不可逆過程の熱力学が、保江の定式化から見事にかつエレガントに導かれることを本にまとめて欲しかった。そのオンサーガー理論からザンブリー二−保江のベルンシュタイン過程の理論につながったのは明らかだからである。

さらに、そこから、巨視的なシステムや古典力学系をあたかも量子力学のように扱うことができるという、Thermal Mechanicsのことも取り上げるべきだっただろう。これを使うと、プリゴジン流の非平衡系の熱力学は全て多次元量子力学として取り扱うことができるのである。

まあ、保江博士の恩師の1人であった伊藤清博士がノーベル経済学賞を逃したから、その敵を保江博士が果たすというのもありかもナ。いつかノーベル賞をとってもらいたい。きっと、ノーベル賞委員会に愛魂を送って活人術を使えば、いつかその時がくるかもしれない。

そのときには、

It has come!

という本ができるのでは?

ぜひ93歳まで頑張って欲しい。


おまけ3:
蛇足。別冊の中に、保江博士がそもそも「確率場の量子化」問題や「散逸系の量子力学」に進む時に、江沢洋博士と数年に一度会っていたという話があった。昨年調べたところでは、江沢博士が米留学中に学んだ分野が、ネルソンの確率場の問題であったことを知った。そして、その後、量子力学の古典力学的解釈に関するエッセイを書いたとある。数理物理学という分野は、その当時日本にはたった2人しかいなかったと保江博士が書いているが、おそらく一人目が江沢洋博士、もう一人がフォン・ノイマン環の荒木不二洋博士だろう。

私自身、アメリカから帰国後だったか、留学前かどっちは正確には忘れたが、一度、六本木だったの物性研のセミナーの後か何かでお会いしたことがある。私は日本の権威には、阪大大学院の時の指導教官以来、ひどいトラウマとなったために、「ヒトを見たらヒトモドキと思え」という感じの大の人間嫌い(美しい女性は好きだが)だから、あまり江沢博士には好印象を得なかった。その後、帰国後に富士通に入った頃、学習院の数理物理の講演会で一度、私の博士論文を講演したが、その時に会ったことがあったかもしれない。特に印象を得ることはなかった。ましてや江沢博士が、ネルソンの弟子だったとは知らなかった。まあ、その頃の印象は、「奴は物理の解説者にすぎないよ」というものだった。その後、学習院の物理に数理物理学者として入ったのは、私がユタに行った年より少し後にアメリカプリンストンに留学した、田崎晴明博士だった。私が学習院で講演した時にはまだ帰国していなかった。しかしながら、保江博士と江沢博士の友人関係からすれば、むしろ、

江沢博士は、田崎晴明博士ではなく保江邦夫博士を採るべきだったのではないだろうか?

と俺は思う。というわけで、学習院大は非常に損をしたように思う。もっとも首都圏の私大は東大の傘下だから、関西圏の京大名大出身の保江博士は学習院では毛嫌いされたのかもしれないが。私個人的には、田崎流数理物理学より、保江流数理物理学の方が好きなんだがナ。

いずれにせよ、もしそうなっていたら、非常に大きな転換を迎えたはずだったのだろうが、何分、保江博士は岡山に隠遁生活する道を選んだ。

しかしながら、その後のもっと大きな流れ、スピリチュアルな世界の解明に向けてというような、いわゆる教科書的ではない物理世界への斬り込み隊長となるには、メインストリームからはずれたことが良かったので、結果オーライということだったのだろうと思う。

かつて1982年の物性夏の学校で、ビアパーティーの時に私が九大の川崎恭治博士に「先生ほどの業績があれば、東大教授になれるのではないでしょうか?」と聞いたら、「いや〜〜、メインストリームからはずれているからこそできることもあるんですよ」というお返事が返ってきた。私は「ふふ〜〜ん」という感じだったが、おそらくそれが真実であろう。保江博士の場合も岡山の女子大だったからこそ、じっくりのんびりこの数理物理のシリーズに集中できたに違いないからである。それは、私が、密かにオンサーガーの論文を全訳したり、マックスウェルの論文の翻訳に集中できたりということができたのは、田舎に1人でひっそりと過ごしているからだというのと同じことなのである。忙しすぎれば、自分のやりたいことは全くできなくなるのである。今年の年賀状にそんなことを書いてきた人もいた。

おまけ4:
最後に、この状況を見事に表現したのが、19世紀の大数学者、フェリックス・クラインだった。 彼は孤高の天才グラスマンを次のように語っている。
「…われわれ大学人は同僚との激しい競争の中で成長するが、それは森の中の木のようなもので、およそ生存しうるためには細いままで上に延びていくほかない;これに反してグラスマンのように孤立している人は、あらゆる方向に十分枝を延ばすことができ、人格も研究も調和的に発展させ完成させるのである。… 」
---フェリックス・クライン
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この言葉は、フェリックス・クライン「19世紀の数学」(共立出版社、1995年)の177ページにある。




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  by Kikidoblog | 2015-01-10 11:38 | 保江邦夫博士

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