個人メモ:私と保江博士との「裏腹」なところ→人にも双対性はあったのか!?4

ヒトの双対性

保江邦夫博士「一を知ってすぐに十を知るタイプ」
井口和基博士「十を知ってやっと一を知るタイプ」

保江邦夫博士「幸運の女神に見守られた博士」
井口和基博士「幸運の女神に見放された博士」


(つづき)

ちょっと用事から帰ってきたので、忘れないうちに
個人メモ:私と保江博士との「裏腹」なところ→人にも双対性はあったのか!?
個人メモ:私と保江博士との「裏腹」なところ→人にも双対性はあったのか!?2
個人メモ:私と保江博士との「裏腹」なところ→人にも双対性はあったのか!?3
の続きをメモしておこう。

さて、簡単におさらいをしておくと、
保江先生は東北大の入学まではまったく本を読まなかったのに名門東北大学天文学科へ入学を果たし、東北大学の大学生の間にはたった1冊だけしか本を読まなかったにも関わらず、更に名門の京都大学物理学科の大学院に入学。京都大学ではネルソンの本と論文しか読まなかったのに、当時素粒子論の坂田門下生のいた名古屋大学に転入。そこで合気道部を自ら作り出してそれに没頭しながら、たったの2年で8本の名論文を海外の超一流研究誌に掲載決定(実際にはもう一つあったのだが)
ということだった。

さすがに文武両道の天才であったにせよ、ネルソンの本と論文を読んだだけで、いきなり革命的な論文を矢継ぎ早にお書きになられたというのは、同じ理論物理学者としては、あり得ね〜〜ぞ、というのが私の持った素朴な疑問であった。なぜなら名だたる東大の、私の知っていた理論物理学者でもまったくそういう人はいなかったからである。かなりたくさん論文を出したものでも、2つか3つがいいところ、そしてそのために彼らは日夜研究に没頭して、およそ運動などしている暇はなかったというのが普通だったからである。

そんなわけで、この奇跡的偉業、いや、天才的偉業の真髄は何なのだろうか?

というのが、私が知りたいことなのである。
ひょっとして、合気道をすると知的に覚醒できるのか?頭が良くなるのか?知能が増すのか?
なにかこういうことでもなければ、にわかには信じられないことなのである。

さて、保江先生の話に戻ると、保江博士はどうなったか?
 だが、そうはいってもオーバードクターで溢れかえっていた大学院の状況に変わりはなく、将来に対する展開が開けないままで時間だけが過ぎていく。このままでは、そのうちに学問研究すらあきらめなくてはならなくなる!危機感を感じた僕は、日本を脱出することを考え始め、博士号を修得した先輩を見習って一面識もない欧米の著名な教授達に助手として雇ってくれるように手紙で依頼した。むろん、まだ電子メールなどもなく、外国あての手紙といえばエアメールの時代。手紙が届くのに一週間、うまく読んでくれさらに幸運にも返事を書いてくれるのに二週間、そしてその返事が届くのにもう一週間。合わせて一ヶ月も待たなければならない時代だったのだが、たいていの場合は完全に無視されていつまで待っても返事などはこない。
 考えてもみてくれ。研究で忙しい欧米の著名な物理学者や数学者が、どこの馬の骨かわからないような駆け出しの数理物理学者、しかも極東の島国の男が送ってきたエアメールに目をとおすわけもない。先輩の中には百通以上のエアメールを書いたあげく、一通も返事がこなかった人もいたのだ。万が一返事がきたとしても、たいていはお決まりの文面で断ってくる。
 当然ながら、僕も待ちぼうけをくらわされ続けていた。

私がユタ大学に渡った1980年代後半もまだこういう状況が続いたのである。当時はエアメールで応募したのである。大学院に入学するための応募用紙ははがきで依頼したのである。当時はタイプライターで文章を印字した。

私が当時勤めていた企業を辞めて、それから何とかアメリカの大学院生になりたいと思って大学の応募書類を取り寄せた大学は、シカゴ大学、ユタ大学、ペンシルベニア大学、オレゴン大学などの物理学部だった。すべて当時私が興味を持っていた準周期系の理論を研究している博士のいる大学である。その中でも一番行ければいいなあと思っていたのが、甲元真人博士のいたユタ大学であった。

応募書類には2〜3人の参照人(推薦者)が必要だから、1人は学部の時の卒研の教授、もう1人は大学院の時の教授、そしてもう1人は大学院の時の助教授にお頼みした。この時の指導教官だった中村伝教授とは最初に基礎工学部の数理系専攻として大学院の入試の時の面接では感じよく感じたのだが、その後私が内部留学という形で、物性系専攻の中村教授の研究室で、私が「ブラウン運動の量子力学版をしたい」といった瞬間から、このテーマはいまの保江博士のやったテーマだが、私はこの教授から目を付けられてしまい、「そんな研究をやっても意味がないよ」とさんざん嫌味を言われる始末。すっかりお互いの関係が悪くなってしまった。結局、一から全部別の分野を自分で本を買って読みふける。だれも助けはないという感じでいたずらに5年を過ごしたのだった。保江博士が「ファインマンダイヤグラムの計算は〜〜」と言ったまさにそのファインマンダイヤグラムの計算をその研究室では主に研究していたのだった。修士論文は私も似たようなファインマンダイヤグラムの計算ですませた。

だから、シカゴ大学にはたぶん入るのは難しく、もし自分がアメリカに行ける可能性があるとすれば、ユタ大学だけだろうと思っていたから、あまり相性の良くなかった阪大大学院時代の指導教官だった中村伝教授には、ユタ大学以外の3つの大学院にして、ユタ大のもう一つは甲元先生に頼んだのだった。

案の定、結局中村先生からシカゴ大学用の推薦書が来たので、もうシカゴは行かなくてもいいかと、それを破いて中を見たのであった。それを読むと、なんと
「この人物は問題あるからあまり推薦できない」
と書いてあったのだ。
くそ〜〜!この野郎!
と私は思ったが、一応形式上は、せっかく推薦書を書いていただいたのだからお礼を電話で言ったところ、
シカゴには私の知人や友人がいるので、君が行けなくなるようにしておきました
とお答えになったのである。

これがそれまでサッカーの世界だけしか知らなかった私が、一番最初に経験した日本の学者のいやらしさだった。まあ、もうその教授は死んだからどうでもいいがナ。これが私の持つ日本人理論物理学者の第一印象である。まあ、大抵の人も遠からず近からずである。

だから、なおのこと、私は保江博士のケースは非常に信じがたいのである。

保江博士の居られた研究室にもオーバードクターがたくさんいたとのことだが、私がいたそんな中村伝教授の研究室にも二人オーバードクターがいた。1人は私と公私ともに非常に気があった蛯名邦禎博士であった。

こんな私でもそろそろ大学院の5年目に入った最後の冬だっただろうか、直前に輪講で聞いたジャンコビッチという欧州の研究者の2次元平面内の1成分N粒子系プラズマの熱力学の論文の内容と同時に個人的に学んでいたラフリンの2次元分数量子ホール効果の論文の波動関数の類似に気がついたのである。そこで、1成分プラズマの熱力学の分配関数をいじっていると、なんとそれが見事にラフリン波動関数と一致した。しかも、特定の温度で厳密に解けるということが分かり、それがラフリン関数の規格化が1となるということに等価だということがわかったのである。

その日、研究室は石油ストーブが燃える中、蛯名さんにその話をして、私はそれを論文にする間、蛯名さんはその発想を球面上の別のトポロジーを持つ別の系への拡張を考えた。結局、2つの論文ができたのだったが、その後すぐに私が発見した2次元の電子系の3次の線形応答関数が厳密に求まるという論文と計3つの論文を書き上げたのである。そしてそれらを私と蛯名さんの共著のプレプリントとした。

その後、物理学会で私は2つ話し、蛯名さんは自分のを1つ話したのである。それから、オーバードクターだった蛯名さんが我々のプレプリントをアメリカのニューヨーク州立大学バッファロー校の石原明教授のところへ送った。すると、なんと蛯名さんはポスドクとして採用が決まったのである。

それから、当時彼女だった方とすぐに結婚式を行って、伊丹空港からアメリカに渡った。私は初めて結婚式に招待されたのだったが、実になんとも複雑な気持ちでいたものである。(実は、その後の30年で私にはこういうことが頻繁に起こるようになった。私と関わったものが出世しハッピーな人生を過ごせるようになるのである。これはその序章の始まりだった。)

一方、私はまだ大学院5年目の中途であって、これらの論文が公表されていなかったから、「公表できれば博士をやってもいいが、なければ無理」という指導教授の言葉通り、結局私は大学院を出る羽目になったのである。

それから2年ほどして、蛯名博士は帰国し、すぐに近大物理の非常勤講師、そして神戸大学の助手となられた。その後、ずっと神戸大学の助教授、教授と順調にすばらしい経歴を積み重ねたのである。ちなみに、私の3つ目の論文は、その後私がユタ大学留学中に蛯名さんが神戸大学の同僚たちと表面物理に応用した共著の論文として公表することになった。最初は友人の蛯名さんは私の名前も入れたいとユタまで送ってくれたのだったが、私は何も直接は関わっていないから、私の名前は入れなくてもいいですよといって、彼らが公表したのである。

さて、再び 保江博士の話に戻そう。
 ところが、ある日のこと大学院の事務室から電話があり、どうもこの僕宛に外国から電報が届いたとのこと。
 始めて目にする外国からの電報は、しかし特有の省略単語の羅列でしかなく、何度読んでみてもよくわからない。だが、自分に都合よく解釈していくと、どうも招聘する用意があるのすぐに返事をくれと読めてしまう。送り主は、スイスのジュネーブ大学理論物理学科チャールス・エンツ教授とある。確かに、数カ月前にエアメールで職を求めた相手先のひとつではあった。
 ジュネーブ大学といえば湯川秀樹の中間子論や朝永振一郎のくりこみ理論よりも早い時期に同じ理論を完成させていたにもかかわらず、スイス物理学界の大御所だったパウリによって意図的に隠されてしまったためにノーベル賞を逃してしまった孤高の理論物理学者ステュッケルベルク博士のお膝元。しかも、エンツ先生はパウリが死んだときの助手として、パウリが残した膨大な研究資料を世に出し続けていることでもゆうめいだった。おまけに、そのときの僕は湯川先生が晩年精力的に研究していた素領域理論を数学的に見直す論文を書き上げたばかりだったし、緊張しながら湯川先生の前で親しく解説させていただくこともあった。
 つまり、僕にとっても、かなりデリケートな雰囲気がある因縁の場所。しかし、いい意味でもあるいは悪い意味でも、極東の日本にいては得られない貴重な体験ができるはず。そう思った僕は、すぐ様返事を送った。

ここにまた保江博士の幸運の序章が続く。パウリの最後の助手のエンツ博士が、たった1つ応募していただけの保江博士の下に採用通知を電報で送ったのである。

いや〜〜、実に素晴らしい。

方や、私の場合は、指導教官直々に大学院に入れなくなるようにネガティブの推薦書を送りつけたのだ。

さて、保江先生のその後がさらにおもしろい。
 しばらくして、エンツ教授からエアメールが届き、読み進んでいくうちにはたと困ってしまった。何故なら、用意してくれた助手のポジションに就くためには、日本での博士号にあたるPh. D.の学位取得者でなければならないのだ。助手の採用を求めてくるからには、当然ながら僕が学位を持っているのはあたりまえと思ったエンツ先生は、既にジュネーブ大学の中で話を通してあるから後は身ひとつで九月にジュネーブにきてくれるだけでいいとまで書き添えて下さったのだ。九月といえばあと二ヶ月しかない!しかも、しかもだ。僕はまだ博士号をもらってはいなかった!
 思いあまった僕は、すぐにその手紙を高林武彦先生に見ていただいた。ジュネーブ大学といえば、ステュッケルベルク以外にもヤウホなど世界的な数理物理学の権威がいるところ。随分といいところから話がありましたね。こんなチャンスは望んでも得られません。目を細めながらそう伝えてくれた先生は、日頃から大学に出てくることが少なかったにもかかわらず、毎日のように大学院の事務室に顔を出しながら各方面に働きかけて下さった。そのおかげで、たったの二ヶ月で博士号申請から公聴会に至る複雑怪奇な審査委員会を全て終わらせることができ、ジュネーブに到着したときにはできたてホヤホヤの理学博士となっていたのだ。まさに、前代未聞のこと。

なんてラッキーな御仁だ!

私もアメリカの大学院に応募する前には、助手の職に応募した。なぜなら、私は学位こそ持っていなかったが、一応は大学院卒で、企業勤務経験もちょっとばかりあり、普通の大卒とは違うと考えたからだ。しかしながら、そこで問題になったのが、保江博士と同様に、博士号取得者かどうかだった。

すぐさまアメリカから届いた返事は、
当大学の助手のポストはPh. D.取得者用のものだから、あなたの場合は正規に大学院に応募しなさい
というものだった。

ましてや、卒業するから、大学のほうで何とかできるように指導教官が手を打ってくれるどころか、私の場合は、論文も出していない出来の悪い大学院生の烙印を押されてしまっていたから、論文がないんだから無理の一言でキックアウトされたのだった。

その後、アメリカに渡って、なんとか最後のドクター論文にまで辿り着いた1988年頃。私はそれから丸1年かけて当時ユタ大学に出回りはじめていたMacIIのワードを使って論文書きを行ったのである。日本ではまだタイプライター主流の時代、すでに全米ではMacの時代に入っていて、まだあまりパソコンに慣れていなかった私は四苦八苦しながらマイクロソフトワードを使い始めたのだった。

いまではみなさんはマッキントッシュとマイクロソフトは全く別の仲の悪いライバル企業だと思っているだろうが、そもそもソフトメーカーであったマイクロソフトはジョブズとウォズニアックが発明したPCであるマッキントッシュのためのワードやゲームを売る零細企業として始まったのだ。だから、図書館に行けば、そういうソフトの入ったディスクを借りてインストールしては使うという繰り返しだったのである。

いまのマイクロソフトになり始めたのは、IBMがユニックス系のパソコンやブック型のPCを売出して、そのためのOSソフトが必要となったからである。この時期から、マイクロソフトはどんどんIBM系列の方に離れていって、それと同時にマッキントッシュの売上が落ちていったのである。そして、ついにジョブズがマッキントッシュを解任されたのだった。

そんな時代の名機であったMacII。これをアメリカの大学教授たちは皆ほしがった。ユタの物理では、サザーランド教授の研究室に隣の部屋だった甲元真人先生との共同として1台があったのである。

さすがに先生たちの作業機を奪うことが出来ないから、私はずっと先にある生物学部の図書室に備えられていた生物学者用のMacIIを使わせてもらったのである。本当に生物学部PC部門の管理人だった先生(名前を忘れたが)には感謝である。結構お金のかかったペーパー代金もぜんぶ「お前はドクター論文書いているんだろ。だから心配しなくていいよ」と言ってくれたのだ。当時も(たぶん今も)ユタ大の先生たちは非常に親切な人が多い(はず)。

さて、また保江博士の話に戻そう。
 だが、こんな大学始まって以来の特例処置が可能だったのは、むろん恩師高林武彦先生のご厚情があったからなのだが、それに加えて博士課程に編入されてから二年間で八篇の論文が欧米の専門誌に正式に受理されていたという異例の実績も大いに考慮されたと聞く。もしそうであるなら、この僕はやはり木村達雄さんに感謝しなければならない。木村さんに出会い、あの屈託のない笑顔でどこまでも真理探求の世界に引き込んでもらったからこそ、大学入試、学部入学、大学院進学、大学院編入のときに四度までも吹いてくれた神風が、果てることなく今回もまたダメな僕を吹き飛ばしてくれたのだから。
 はるか遠いアルプスの麓までも。。。。
 やはり、合気の達人木村達雄は、既に三十年前の当時から合気の化身となっていたに違いない。本人や僕がまるで気がつかないうちに。

保江博士は、見事にたったの二ヶ月でディフェンスまで行き着いて、無事博士号を得た。それも博士号を得る前にはアルプスの麓のジュネーブ大学の助手の職まで得ていたのである。それを
僕には神風が吹いた
と表現した。

さて、また保江博士に話を戻そう。なんとこの後の保江先生がなぜポストを得たかというその理由がまさに神業であった。
 こうしてジュネーブに流れ着いてわかったことは、僕が採用されたのは完全なる運命のいたずらか神様の思し召しかのどちらかであって、決して研究業績が認められてのことではなかったということ。その年に助手として応募してきた数十名の中から正式採用されていたのは、スイス連邦工科大学を出た優秀なスイス人物理学者だったのだ。ところが、既に学内での選考審査も終わり他の応募者にお断りの連絡をした上で、大学当局に受け入れの手紙を指示した直後、そのスイス人の気が変わりアメリカの大学からの誘いを受けることにしたのだそうだ。
 その時点でエンツ教授が大学当局に伺いを立てたところ、一両日中に代替えの採用予定者を用意すればかまわないが、そうできなければこの助手のポジションは今後しばらく使用できなくなる可能性が大とか。エンツ教授が大慌てしていたそのとき、見知らぬ日本人からの職を求めるエアメールが机の上に届いていた。。。。普通ならあり得ないようなことが続いた結果だったのだ、突然に助手として採用する由の国際電報がまいこんできたのは。スイスから遠くはなれていたところにいた僕は、ちょうどそんなドタバタ劇が演じられていることも知らず、木村達雄さんの指導を受けながら一度はあきらめていた合気道への道を歩みだしていたのだ。
 とても、偶然とは思えない。少なくとも、この僕自身には。
 少し後ろめたかったのか、エンツ教授も遠慮がちに接してくれ、ほとんど何も雑用しないで好きな研究に打ち込ませてもらえた。助手の契約は一年間だが、更新していけば僕のような外国人の場合は最大五年まで雇ってもらえるとのことだったので、最初は随分のんびりと暮らし日本人の垢をとことん洗い落とすことができたと思う。初めての就職先としては、学問的にも経済的にもすこぶる恵まれていたのだ。そのおかげで、ジュネーブ市内の小学生を夕方から借りてスイス人が指導していた合気道の道場にも顔を出す余裕もでき、大学以外での知り合いも徐々に増えていく。

(以下、合気道の話になるので省略。)

今思えば、私にもアメリカでポスドクを得るチャンスがたったの一回だけどあった。1990年のはじめにアメリカ東部の名門のペンシルベニア大学からポール・スタインハート教授が準結晶の話をしにはるばるやってきたのだった。ちょうどその頃、私は私のドクター論文をほぼ1年かけて書き終わりつつあった。だから、講演の後で手渡せるように準備して、講演後に名前を名乗って、「いまこんな論文で博士号を取得したんですが、私はあなたのポスドクになりたいんです」と手渡したのである。すると、私の論文を見て、
「君はビルの弟子?よろしい。OKだよ。ただし、今一人、そのポストに来ると言って来ない予定になっていた研究者の日本人がいる。たぶん、そいつは来ないだろう。もし彼が来なければ、君に連絡するよ。」
そういって、我々は満面の笑みで別れたのだった。

ところが、後でメールが届いた。
大変残念だったが、来ないと言っていた日本人が来ることになってしまったんだ。だから君に与えるはずのポスドクのポストはなくなった。あしからず。
そいつが、東大の堂寺知成博士だった。その当時はこのことは誰にもいわなかったが、こいつの顔だけは見たくなかった。本当に迷惑千万のやつだった。スマップの香取そっくりだったなあ。だから、俺は香取慎吾が大嫌い。早く死んで欲しい。

というわけで、私の疑問の答えは、どうやらこんなところではなかろうか?
合気道をすると、知能が高まる(らしい)。
さらに、合気道をすると幸運までもが付いてくる。
ゆえに、若者よ、合気道をしろ。サッカーはだめだヨ。


それにしても、俺もこれほどついていなかったにもかかわらず、よくぞここまでやってきたもんだとは思う。まあ、パーソナリティーの差、心がけの差、といえばそれまでかもしれないが。

どうだい、つくずく、私と保江博士が裏腹な人生だと感じないか?これはあらゆることがちょうど、地と文字、陰陽、白と黒の関係のように、互いに裏腹になっているから、驚くべきことだと思ったというわけですナ。

その後の話はまた別の本を読みきったらメモすることにしよう。


おまけ:
ここで私と保江博士のテーマである「ブラウン運動の量子力学」に関して誤解があるかもしれないからコメントしておくと、お互いに若かりし日の保江博士と私は「ブラウン運動」に関心を持った。しかし、両者はまったく同じことではなかったのである。これまた裏腹だったのである。保江先生はネルソン流の量子力学の「量子力学を古典粒子のブラウン運動とみる」という立場のものである。これに対して言葉が非常似ていて普通の学者にも普通の人にも分からないかもしれないが、私が大学4年次に関心をもった「ブラウン運動の量子力学」というのは、古典力学のブラウン粒子をそのまま量子に変えたらどうなるかというものである。つまり、古典ブラウン粒子と量子力学の等価性を論じるのが保江博士のテーマとすれば、私のテーマは、系の中を動き回る量子そのものがランダムに動く系、つまり、いまで言うところのランダム媒質中の電子の問題だったのである。これは、かなり前にアンダーソン局在の理論となり、当時すでにアンダーソン博士がノーベル賞をとっていた。



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  by Kikidoblog | 2015-01-30 18:13 | 保江邦夫博士

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