「校庭サッカー」:これこそ、ヨハン・クライフもびっくりの日本版「ストリートサッカー」

旧西ドイツ製アディダスストッッキング(1974年製)
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(いまだに型崩れしない!)


みなさん、こんにちは。

今日は非常にいい天気だったので、保江博士の本
脳と心の量子論
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保江博士はいじめられっ子だった!?:赤ん坊は親から早く離れると暴力的になる!?
の未読の残りを喫茶室で読んでから、図書館に返却しに行った。その帰りに、阿南の本屋によって保江師範の合気道の本がないかと武道とスポーツの棚を探したが、さすがに阿南の本屋にはなかった。

ところが、武道とスポーツの棚を探していると、サッカーの本もたくさんあって、ついそっちの方へ目が止まった。すると、なんと、あのヨハン・クライフの近刊書が存在するのを見つけてしまったのである。伝説、文字通りにレジェンドだったヨハン・クライフのサッカー指南本である。だから、私は保江本ではなく、これを買ってしまったというわけである。以下のものである。
ヨハン・クライフ サッカー論
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まだまったく読んでいないのだが、最初のかなり短い「まえがき」だけを読んでも、まさにヨハン・クライフであった。私がサッカーに全身全霊で打ち込んだあの1970年代のオランダの「トータルサッカー」の真髄が見事に書かれているのである。

もちろん、言うまでもなく、ヨハン・クライフこそ、あの1970年代のトータルサッカーの貴公子。そして当時の西ドイツのベッケンバウワーにも影響を与えた。その後クライフがスペインのバルサの監督になってから、スペインサッカーに革命を起こし、その時の教え子がグラウディオラであった。そのグラウディオラがドイツのバイエルンの監督になって世界王者に返り咲いたのである。また、クライフが監督時代のバルサでコーチを経験したのが、あのモウリーニョである。すべてはクライフに始まりクライフで終わる。それが近代のトータルサッカーである。

アマゾンの表紙写真にはないが、帯には
君だけにサッカーの真実を教えよう
(65年間のサッカー哲学をすべて明かす初の戦術書)
と書かれている。

最初の章は、「ストリート」である。この章は、次の言葉で始まる。
ストリートフットボールがサッカーの原点だ。
サッカーは道端で発見され、このゲームへの愛情もここで生まれる。

まあ、ここから先は、自分で読んでもらうとして、私個人のことを思い出せば、いまから、45、6年前の中学生時代に遡る。

当時私は小学校時代まで球技は野球やソフトボールしかしたことがなかった。サッカーはあくまで体育のサッカーでしかなかった。が、小6になって小学校にもスポーツ少年団ができるということで、かなり遅れて我が小学校にもサッカーチームができ、その代表に選ばれた。

大会初戦でわが校は1−0で負けた。それは、敵がシュートしたボールが、センターバックとしてそれを止めようとした私の足に当たって後ろに転がっていき、さらにそのまた後ろにいた素人の即席GKの又の間をくぐり抜けて、ゴールしてしまったからだった。生涯最初の得点がオウンゴールだった。

だから、サッカーは私にはほろ苦い思い出として出発したのだった。

サッカー自体はすでに多くの子供達が関心を持っていて、小5の頃には休み時間という休み時間はゴム製のサッカーボールでリフティング大会をしていたものである。習慣は力なり。毎日毎日、毎休み時間に中庭で数人が円陣を組み、1人が真ん中でボールリティングをする。その間周りもいっしょにみんなで数を数える。

1、2、3、。。。。、51 、。。。。。、100

こう数えて失敗したら、挑戦者交替。こうやって誰ちゃんが、125回新記録達成したぞという噂がすぐに拡がる。すると、次の休み時間にみんなが三々五々挑戦する。

こうして気が付くと、1年経って小6になった頃には、ほぼ全員が100回を超えるようになっていた。私は153回が最高記録。学年最高記録は200回を超えていた。

まさにストリートサッカーである。

しかし、誰一人、まともにグランドでサッカーをした経験はなかった。あくまで冬場の体育のサッカーで適当にボール蹴りをしただけのことだった。私にとっての本職は野球であって、サッカーは体力づくりの余興でしかなかったのである。その当時は。

そうやって中1になった頃、私は迷わず野球部に入ったのだが、この野球部には小学校で県大会優勝チームがそっくりそのまま入学してきたのである。だから、私はこれなら確実に県大会で優勝できると期待したものだ。さらには、わが校の野球部の監督はあの甲子園に出場したエースだったという噂まであった。

ところが、いつになってもその監督が練習に出てこない。我々の練習を見てくれない。練習は先輩が適当に指図するだけだった。大会の本戦になって、やっと姿を見せるが、先輩たちは不甲斐なく負ける。一回戦ボーイ。

そして練習となったが、我々1年生は、入学してから「大声で名前を校庭の向こう側にいる他の先輩に届かせる練習」ばかり。あるいは、先輩たちがノックしているさなか、我々は校庭の角をずっと走り回るだけ。延々走り続ける。あるいは、うさぎ跳びで延々と周回。あるいは、腹筋の足上げ。全員が一列に並んで足上げする間、1人が校庭の角を一周して帰ってくる。そうすると、次が一周してくるまで足上げ。20人全員が終わるまでずっとこの繰り返し。

とまあ、こんな練習ばかりしていた。

後は、学校の校庭の塀の外でグローブ持って、先輩が打ったへなちょこファールが校外の家の窓ガラスを割る前にキャッチ。あるいは、ホームランボールをキャッチ。中に居るときは、全力で声出しして、毎日

うぉ〜〜、うぉ〜〜、うぉ〜〜、お〜〜ぜっお〜〜〜ぜっおお〜〜〜

というような素っ頓狂な声を大声で張り上げるだけだった。お陰で最高のバリトンだと音楽の先生に褒められるまでの大声の持ち主になっていたのである。

2年になって、ついに我々の新人戦がやってきた。こんな練習ばかりしていたが、腐っても小学校の県大会優勝チームである。一回戦くらいらくらく勝利だと誰もが思っていた。

ところが、実際にやってみたら、むかしそのチームが簡単に打ち負かした相手に簡単に負けてしまったのである。この衝撃は凄まじかった。私は別のもっと弱小小学校チームだったからショックはたいしたことはなかったが、県大会優勝メンバーの同級生たちは見ていられないほどの落ち込みだった。

結果、良い選手。頭もいい勉強もできた選手はみんな野球部をやめてしまった。残ったものは、みんな一気に不良になっていった。部室内でタバコを吸うわ、練習でないわ、女の子と遊ぶわでもう野球どころではなかった。後輩への示しもつかず、どうしようもないチームになってしまったのである。

私は一応は野球の練習はきちんとやっていたが、野球は1人では勝てない。後輩への見本になるように後輩いじめはせず、ただひたすら練習をしていた。そんな感じである。

ところが、3年生が引退し、2年に全権が移り、私が一応主将になった頃、心機一転でユニフォームを作ろうということになりましたと監督に行ってオーケーをもらい、いざお金を集めて監督に持っていった。が、その後一向にユニフォームが出来上がってこない。みんなにどうなったと聞かれて、恐る恐る監督に聞きに行ったら、なんと「そんなことあった?」と。さすがにこれにはブチ切れたが、これをみんなに報告すると、もはややる気消失。意気消沈。

さすがにブチ切れた私ももう野球部はダメだと考えて、ついにサッカー部へ転入をお願いしたのであった。

こうした中、私の最大の楽しみといえば、昼食後に校庭でクラスメートとする校庭サッカーであった。わが校の校庭は非常に狭いのが有名であった。しかし、今と違って、各学年400人を超える生徒がいた。だから、全校で1200人規模のマンモス校だった。その男子生徒達が、昼休みにいっせいにグランドに出て、「何か」をやっていた。

喧嘩するやつもいれば、なわとびする者も、鉄棒するものもいれば、サッカーやバレーボールをするものもいた。とにかく、校庭が、夏場の江ノ島の海岸のように人の山
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となったのである。

我々はそんな芋を洗うような校庭の人垣の中でサッカーをしたのである。

おもいっきり蹴ったボールが女子に当たると危ないから、ゴムのサッカーボールは使わずに古いだれのものともわからないようなバレーボールを蹴っていた。バレーボールは柔らかい。だから、真ん中を蹴らないと真っ直ぐには飛ばない。カーブもシュートもかけることができる。思い切り蹴ってもあまり飛ばない。風に押し戻される。

しかも、校庭はサッカーするチームが無数にある。毎日、1年1組vs1年2組、1年3組vs1年10組、。。。。という感じで、同時並行にたくさんのチームが同じ校庭グランドにひしめき合って試合をしたていたのである。他に女子やら他の学年も同じことをしていた。

だから、パスはよく見ないと、味方につながらない。たいていは横から走ってきた別の試合をしている生徒にブロックされた。お互いに他チームの試合を邪魔しあっていたのである。試合に無関係の人間は「石」と見なす。シュートして入ったと思っても、そこへ他の誰かが邪魔して入らなければ、それで終わり。試合は続く。

ドリブルをすれば、ぼんやりしていれば横から悪いなという感じで、だれかがボールを蹴ってしまう。だから、常に前後左右をよく見ていないと、どこからだれが入り込むかわからない。なにせ便所のウジ虫のように生徒が校庭にうようよ動き回っているのだから。

とまあ、そんな感じの校庭サッカーだった。

校庭サッカーでは、クラス対抗試合が出来ないときはクラスの生徒だけ集まって、1対10をやったものだ。これは今で言う、3オン3のようなもので、ボールを持ったものが、残り全員を抜いてシュート決めるまでやる。途中でボールを取られたら、取ったやつが今度は全員抜きに挑戦する。これをただただ繰り返すというゲームであった。

これを毎日毎日昼休みだけやっていた。放課後は部活のサッカーだったが、ずっと何十年も経っていま、ヨハン・クライフのこの本のように、
俺はどうやってサッカーがうまくなったか?
と問えば、私も100%疑いもなく、この「校庭サッカー」だったというだろう。ヨハン・クライフのいう「ストリートサッカー」である。

人間がひしめき注意深くなければお互いに激突する。そんな危険満載の中でもドリブル突破し、シュートがだれにも当たらないようにカーブをつけて狙う。風でボールがどう動くかを計算したり、カーブやチップキックでどう回転するかを計算するというようなことをこの校庭サッカーで学んだのである。もちろん、グランドは土だ。砂利土だ。転べば制服が真っ白になる。だからみっともなくて簡単には転べない。

こうして気が付くと、私はサッカー部のエースに育っていた。わが校のサッカー部は、年内に5つあった県大会の3つで優勝。2つはPK戦敗退(関東大会予選)とコイントス負け(全国大会予選)だった。

まさにヨハン・クライフがストリートサッカーで学んだように、私自身も校庭サッカーで学んだのである。

校庭サッカーで知らず知らずのうちに学んだサッカーの基礎と、野球部時代のむちゃくちゃな筋トレのお陰で、私が高校に行った時には、すでに1年の時からレギュラーのトップをはれたのである。私は以来ずっと主将として過ごした。


今は昔の物語である。45年前の日本の話である。


おまけ:
ところで、一番上の1970年代製のアディダスのストッキングは、私が高校生の頃、世界最強だったオランダ代表のユニフォーム
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のコピーものである。1974年頃に買って、毎日の練習に使っていたが、いまだに履けるのである。洗っても少しも型くずれしない。穴もまったくあかない。どうしてなのだろうか?昔の西ドイツ製のアディダス製品は実に品質が高かったことの証明だろう。こういうものを再販してほしいものである。とにかく最近のは2、3回使えばすぐにほずれてくる。中国製はだめですナ。

最近、年をとってか、私の足が冷えるので、どうやれば足を冷やさないでいられるかといろいろ試したのだが、例えば、ソックスを二枚履くとか、厚いものを履くとか試してみたわけだ。しかし、どうやらこのサッカーのストッキングを履くと非常に良いということを私は発見したのである。サッカーのストッキングはそもそもなぜ履くかというと、足の防御と、血液が足に溜まってうっ血するのを防ぐためである。1試合で12kmも走るから、足は棒のようになり、うっ血して疲労する。それを防ぐ。もちろん、寒さ対策でもあり、すね当てを入れる道具でもあり、足を蹴りから防ぐ防着でもある。

というわけで、寒さ対策にとサッカーのストッキングを履いてみると、実に調子がいい。おすすめである。



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  by Kikidoblog | 2015-02-18 18:15 | サッカー&スポーツ

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