「物質の原子論」vs「力の原子論」:「物理の若者よ、夏休みに夏目論文を読め!」

ウィリアム・クルックス
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”「物質」と「力」はどちらが最初のものでしょうか?私たちがこの疑問について考えようとするならば、力なしの物質というものも、物質なしの力というもの考えることが不可能だということに気づかねばなりません。神は地球を構成する諸元素を創造なさったときに物質が物質に作用する時に開放されてあらわになるある種の驚くべき諸力を創造なさったのです。”


みなさん、こんにちは。

小中高や一部の私立大はすでに夏休みに入っていると思うが、国立大はまだ試験の最中かもしれない。さて、そんな学生たちは大方長い夏休みをやることが無くて困っているか、あるいは、読むべき本を見いだせずに困っているかもしれない。

そこで、物理学の学徒にだけ向けて、
もし無人島に一冊だけ持って行けるとしたらどの本を持って行くか?
という例のお決まりのやり方に従って、どうしても読むべき本というものをあげてみたい。

この5〜6月の間、天気が良ければ、私はいつも海岸の小屋
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に行ってずっと人知れず集中して読んでいた本(本というよりは学位論文だが)が以下のものである。
夏目賢一博士
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博士論文
ファラデーの電磁気学研究における力・力能・粒子

マイケル・ファラデーの伝説ここに始まる!?:バルサン焚く中で読んだ謎の風景
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」:「バック・トゥ・ザ・19センチュリー(19世紀に戻れ)!」


まあ、結論から言うと、
我々物理学者は18世紀19世紀の学者のレベルからまったく進歩しなかった。むしろ、退化した
ということになる。

マイケル・ファラデーの思想は、おそらくニコラ・テスラが引き継いだと思われるが、ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)やジェームズ・クラーク・マックスウェルはファラデーの残した実験図式は理解して数学に置き換えることはできたが、当のファラデーが残したその思想は完全には理解できなかった。

では、我々物理学者はどういう意味でどういうふうに退化したのか?

というと、まさにその退化の象徴がホーキング博士である。
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私個人はこのホーキングの姿形、筋ジストロフィーに侵されてしゃべることもできず身動きもできず、それでいて頭だけは働くというこの姿と現代物理学の身動き取れずにいる姿がダブって見えるのである。

まあ、象徴的意味において現代の科学や物理学がどういうふうにダメになったか?と聞かれたら、俺は
あのホーキングのようになってしまったのサ。
頭だけ良いがなにもできないでくの坊→これが現代物理学
と答えることにしている。

別の普通の言い方をすれば、要するに現実のこの宇宙を研究するのではなく、1つのドグマをアナロジーとして研究するだけのものに劣化したということである。

なぜ上述のファラデーの論文を研究した夏目先生の学位論文を読むべきか?

というと、まさにこの点が18世紀から19世紀の物理学がまだ存在しなかった頃に世界中(といっても当時の欧州世界のことだが)でこの点を哲学者や科学者たちが必至で研究考察したらしいからである。

ちなみに、当時は科学は、力学と化学しか確立されていなかった。両者の中間領域の未知の分野を研究する学問を「物理学」と呼んでいた。未踏の広野を研究する学問が物理学だったのである。

ファラデーが自身で発見しておきながら、その思想的文学的表現でしか表現しきれなかったために、理解されずに頓挫した物理学概念というものがいくつか存在した。もちろん、我々が20世紀に勉強させられたどの教科書にもどの科学書にもそんなものは載っていない。しかし、ファラデーは自分が生み出した力線や場の概念よりもずっと根本的なものだと終世信じ続けたものがあった。

それが「力能(=power)」という概念である。

これは英語や日本語等の文字にすると、馬力や仕事率という時のパワー、電力パワーという時のパワーという単語を連想して一緒くたになってしまうが、まったく別の概念である。この思想はイギリスの哲学者ジョン・ロックにまで遡るという。

ロックはこんなふうに考えた。
大陽の光が地球の植物に当たれば、その植物を育て、花が咲く。これは大陽には植物に花を咲かせる力=パワーがある。


つまり、ロックに溯り、ファラデーで完結した「力能」という概念とは、何かによって別の何かを変化させることのできる何かの力のようなもののことである。これを力に極めて似ているが、力学的力とは別物であるはずだから、そういう力を「力能=パワー」と定義したのである。

はたしてこの「力能=パワー」が、いま現在我々が「電力パワー」と呼ぶ時のパワーと同じものなのか違うものなのか、それを知ることがこの5〜6月の間の俺の興味であった。

数学的に言い換えれば、

加える力をF、力を加えられる物体の速度をvとしたとすると、そして仮にファラデーの力能をPとすれば、力能とはP=Fvのことか?を読み取ろうとしたわけである。

通常の力学系では、もしファラデーのいう力能がP=Fvであれば、我々のいう仕事率のパワー=電力のパワーと一致する。だからこの場合には我々には自明である。マイケル・ファラデーは、力やエネルギーの他に実は電力(=パワー)こそ一番大事だと言ったのだと理解できるからである。

しかしながら、実際に夏目論文を読んで行くと、どうもファラデーの言わんとした力能は我々の言うエネルギー/時間としてのパワーではなかった。つまり、「力能≠エネルギー/時間」であった。もっと根源的なもののようである。

つまり、空間というか、この宇宙そのものが生み出すことのできる力。こういうものが力能であって、その一部の射影であるはずの重力とか電気力とか磁気力というようなものは、何かこの宇宙の内部にある「何か」が変化した結果現れた現象にすぎない。その物理的力を生み出す根源に込められた力の源泉のことを「力能」と呼んだらしいのである。

私が知る限りでは、どうやらこれに一番近いのは、最近ではナッシム・ハラメイン(フランス語読みではアラメイン)博士、20世紀内ではかのリチャード・バックミンスター・フラーが研究した「動的平衡」のモデルである「ベクトル平衡体」というものである。
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これは、ベクトルである力がたくさん集まってある種の構造を作るとお互いに安定した構造体を作る。通常はお互いに完全に釣り合っているから、実にフレキシブルな構造をとる。

どうやらファラデーは宇宙のミクロの根源(ファラデーの時代にはまだミクロ=微視的という言葉は無かった。代わりに、「不可視」という言葉が使われた)において、なにかこういった動的平衡にある原子のような存在があり、それが外部の作用によって変化した時、その都度、磁力になったり、電気力になったり、さらには重力になったりする。そういう能力がこの宇宙には備わっているのだと考えたのである。

つまり、単純に言い換えると、電子と陽子というように、「物質が集まってできる原子」ではなく、「力が集まってできる原子」が存在するはずだとファラデーは考えたのである。

もちろん、「物質が集まってできる原子」は「ドルトンの原子論」である。これが20世紀初頭から我々物理学者が前提条件にしてきた原子論である。

ところが、ファラデーだけが、「力が集まってできる原子」が存在するはずだと考えたのである。もちろん、これは普通の教科書にはない。教科書のどこにも「ファラデーの原子論」というような言葉は存在しない。

しかしながら、驚くべきことは、こういう「力の原子論」というものは、ヨーロッパの自然哲学においては実に古くから存在したらしいのである。これが「ボスコビッチの原子論」というものである。これはパヴィア大学の数学教授だったイタリア人のボスコビッチが1758年に公表したアイデアであった。

まあ、今風に言えば、ベクトル平衡体を「ベクトル原子論」と見なすということである。

この考え方の何が面白いかというと、例えば、現代の原子物理学の基本中の基本は、原子の最外殻電子の数が8の時に原子は安定構造をとる。だから、2、10=2+8、18=2+8+8、36=2+8+18+8、、、が安定な電子配置となる。だから、希ガスのヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、、、、のように最外殻に8個の電子が入る時にかぎって安定構造になる。

この理由が、電子が8個の場合は2つの正四面体構造が逆さまに重なった構造
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として幾何学的に理解できるからである。この幾何学を持てば、8個の電子がちょうどベクトル平衡体構造を持ち、お互いの電気反発力が拮抗してバランスする。非常に強く安定な構造体を作る。こんなふうに理解可能となるだろう。

さて、私個人の興味は、これらの、いわゆる「デモクリトス−ドルトンの原子論」と「ボスコヴィッチ−ファラデーの原子論」、すなわち、「物質の原子論」と「力の原子論」とは双対的なもの、一つのものの表裏の関係性があるのではなかろうか?というものである。

マイケル・ファラデーはこういった。
1。自然界の諸力は共通する起源を持つ。その形式の違いで区別できる。
2。力は創造も破壊もされない。
3。力は力能として物質に備わっている。
4。力は緊張状態であり、線として働く。


いずれにせよ、ファラデー研究に関しては金沢工大の夏目賢一博士の右に出るものはいない。

このファラデーの時代においては、人間が現象そのものの実体を知ることとそれを数式化することはまったく意味が異なることだという認識があった。数式化したものは、現象の幾何学的側面を数式で定義しただけにすぎないのだとファラデーも皆もそう考えたのである。

ところが、最初にフランスのフーリエ、後にイギリスのケルビン卿、そしてマックスウェル、さらにアメリカのギプス、イギリスのヘヴィサイドの時代を経て、徐々にアナロジーの手法が取り込まれるようになった。

アナロジーの手法とは、ある現象を理解するにあたって、別のよくわかっている物理現象の数式化を利用するという方法のことである。

これが最大になったのが、リチャード・ファインマンであり、ファインマンはこう言った。
方程式が同じなら物理が同じ。


実は、それは本末転倒であって、数式が同じであっても、物理は違うというのが本当のところだったのである。そういうことをファラデーの時代の物理学者は明確に認識していたのである。

ファインマン流の軽率な物理観がその後世界中に伝播し、その最たるものがホーキングのような高エネルギー物理学者の世界で隆盛を誇る。それが現代の素粒子論である。法則の数式化、法則の幾何学化、こうなると表象を理解しているのか、自然を理解しているのかさっぱり誰にも分からないという世界になる。

そうやって、現代物理学は、現実の現象に対して、見ざる言わざる聞かざるとなって、ホーキングのように身動きも話すこともできなくなったのである。

とまあ、俺はそういうふうな認識をしてるというわけですナ。

やはり、18世紀19世紀の物理学者は偉かった。昔は良かったのである。

いやはや、世も末ですナ。



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  by Kikidoblog | 2015-07-22 13:23 | アイデア・雑多

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