ちょっと昔話を1つ:私がマンガを見なくなったわけ

みなさん、こんにちは。

昔話しになるが、こういう我々50台後半の昭和30年代生まれの日本人もいわゆる「マンガ世代」である。また昭和30年代前半生まれの我々の世代は、そのちょっと前の20年代中頃生まれの「全共闘世代」「学園紛争」世代とは異なり、「しらけ世代」と呼ばれた世代でもあった。だから、私も例に漏れず大学院時代までは結構マンガを読んでいた。

ところが、米国留学して全過程終了し帰国前の1990年の真夏にアメリカユタのアパートで拙著「三セクター分立の概念」の基になる原稿を書き上げて以来、帰国後からまったくマンガが読めなくなったのである。

多分これは、何らかのルートで月や火星に行った後に地球に戻ってきたら、その地球に住む人たちの宇宙観と実際に自分が見てきたものとの違いに歴然とするためにもはや地球人の価値観で書かれた書物を二度と読めなくなるというようなものに近い。

その最初に書いた原稿は、1990年9月の当初にはそこから直接日本の文藝春秋社に送ったが、陽の目をみなかった。しかし帰国後に企業に拾ってもらった1991年に物理学会の有志の運営する機関紙から公表された。
井口和基、「日本社会の構造的問題とその解決の方向:3セクター分立の概念」、 「物理学者の社会的責任」サーキュラー、科学.社会.人間、第37号、10(1991)。
別刷り50部だったか100部だったか私は持っていた。

これは後に私が理化学研究所のできてまだ2、3年目の基礎科学特別研究員だった頃の1995年に近代文芸社から500部を自費出版。そしてさらにここ阿南に来て数年後の2001年に太陽書房からオンデマンド自費出版したのである。

実はあまり今では知っている人はいないし、大半は歴史を忘れただろうし、また語られるほどの知名人ではないから無視されただろうが、この論文は物理学会の中のかなりのメンバーに衝撃を与えたのである。このままでは
日本のアカデミズムは滅ぶ。特に、このままでは日本の物理が終わりだ
という危機感が生まれたのだ。

というのは、今のようにインターネットやメールで配信するということができる一歩も二歩も前だったため、最初の別刷りをことごとく、手紙付きで日本の知的リーダーと目された人たちに送りつけたのである。それが無くなってしまった頃には、今度は自費出版本500部もまた当時の知的リーダーや国公立大学図書館、マスコミの教育関係者に送りつけたのである。

このことを証明する事実がある。その1つは、当時毎日新聞社の社会および教育関係の記者であった中村龍兵さんの
挑戦する立命館:大学改革とは何か
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という本である。1997年刊行。

この本は当時関西の私立大学の雄、立命館大学がひどく停滞していてそれをどうにかこうにか改革しなければならないという状況にあった。そこに改革派の大学学長が登場し、立命館大学を改革すると名言したために、それならその改革は井口和基氏が提唱したような
「アカデミズム・セクターの一員として確固たる独立した存在になる」
ような改革であるべきだと中村龍兵氏が本にまとめたのであった。

事実、この本の169ページの最後から二番めの節に「アカデミズム・セクターの独立を」とあり、そこで私の思想への賛同とそれに応じた立命館大学の大学改革を提言されたのである。

そして関西発の大学改革の模範例として立命館大学は再出発したのである。それどころか実際には立命館大学の改革はその後の日本の大学の特に私立有名大学のモデルケースとなったのである。

私は直に中村龍兵さんからお手紙をもらい、一度大阪でご一緒に中華料理を食べながら歓談したものである。いまやいい思い出の1つである。

この「アカデミズム・セクター」という概念こそ実は私がこの日本に流行らせたものである。
私はたまに22年前を回顧する:「3セクター分立の概念」の時代を!
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自画自賛(だれもほめてくれないからお許しを。)
まあ、「信じる信じないは貴方次第です」というやつだがナ。

この私の拙い1つの考察論文に端を発して、社会教育学者のグループも研究し始め、かの膨大なるレポートサーベイが作られたのである。(ちょっと本の著者とタイトルをど忘れ)

自費出版本は、当時理研の理事長になったばかりの有馬朗人博士にも理研の理事長室の入口付近で直に手渡した。たぶんしっかり読んでくれたと思う。

なぜなら、私が理研を離れ、ここ阿南に来て、今後は三菱財団の研究助成を受けた授与式で文部科学省大臣となられていた有馬博士が帰り際に私の肩を後ろから叩き、「頑張れよ」と言って微笑んだからだった。ちゃんと私の名と顔をご存知と見えた。それまでは文部省と科学技術庁は別の省庁であり、大学は文部省、理研は科学技術庁の管轄の組織だったが、それらが有馬博士の時代に統合されて文科省となったからである。これが現在までの形態である。

この文部省と科学技術庁の統合、および大学の独立行政化(大学法人化)への動きはこの頃(1995年〜1996年)から活性化し、どんどん独立行政法人化が進んだのである。「ポスドク1万人計画」「大学院拡充」がその象徴となった。

独立行政法人は1995年に端を発したが、それと同時に「科学技術基本法」が制定された。これにより、それまで田中角栄時代の「日本列島改造論」の土建業の時代を象徴する地方公共事業の地方交付金から「日本列島大学改造論」の時代を象徴する大学交付金の時代へと大転換が起こったのである。

これにより、それまで(1995年前)までには地方の公共事業に使われた年5兆円の税金が、全部そっくりそのまま日本の国公立私立大学や国公立の研究所に回ったのである。

だから、これ以後、年5兆円が科学技術分野の再構築のために使われるようになったのだ。知っていたかい?

逆に言えば、毎年黙っていても地方の公共事業に投資されていた5兆円が全部大都市近郊にしかない大学施設内の公共事業へと流されたために、日本の大学は刷新し、幾多の新しい学部、建物、施設、寮、研究所などがどんどん誕生したのである。

極めつけは、ポスドクが異常に増えたことと、大学法人化により、大学関係者が自らの給料を査定して決めることができるようになったことである。つまり、それまでは国家公務員一律の給料だったのだが、それが大学自ら自分の給料を決めることができるようになった。

だから、大学教授がそれまではしがない国家公務員にすぎなかったものが、電通によって「A層」にランクされるまでになったのである。だから、私が大学院生のころには大学教授の誰一人大学に自家用車で通うものはなく皆徒歩通勤だったが、いまでは教授、助教授、助教のみなポルシェ、BMW、VWなどの外車で通う昨今となったのである。
1983年物性若手夏の学校
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中央のメガネが当時校長の私。その左が私が参加依頼した江崎玲於奈博士。その周りに当時の阪大東北大の物性の若手たち。この中の大半がいまや理研のリーダーとなったようだ。


この野郎、おい、俺に感謝しているか!(おっと失礼)→阿南に足向けて寝るなよナ!

ちなみに、そういう社会改革の一番最初の突端となったこの俺様は何のメリットも受けなかったというこの日本。バチが当たるぞ。

いやはや、世も末ですナ!


というわけで、俺はマンガがまったく読めなくなったのだった!



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  by Kikidoblog | 2015-12-05 12:10 | アイデア・雑多

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