2012年 05月 12日 ( 1 )

 

トケイヤーの「ユダヤ製国家日本」2:いま蘇る鉄砲伝来の真実!

みなさん、こんにちは。

いやー、マーヴィン・トケイヤーの「ユダヤ製国家日本」は、非常に面白かった。一応全部読んでみたが、後半最初に日本の種子島の鉄砲伝来物語について詳しく書かれている。なぜなら、日本史に「ポルトガル商人」によって持ち込まれたとある、そのポルトガル人は猶太人であったからである。それゆえ、猶太人社会では、日本に鉄砲を伝えたのが猶太人であったとしても、当時は表立って猶太人とは名乗れなかったため、キリスト教徒の振りをしなければならなかったという。こういう隠れ猶太人クリスチャンをマラーノというが、そのポルトガル人こそ、マラーノのフェルナン・メンデス・ピント

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だったというのである。面白いので、今回はこれについてメモしておこう。

私が持っている、家長三郎博士の「新講日本史」には、この種子島の鉄砲伝来物語はこうある。(1986年アメリカユタ大留学時代に留学中に読もうと思って買ったものである。)
1543年(天文12年)、おそらくは南方の一港からニンポウに向う途中ででもあったろうか、1隻の中国大船(ジャンク)が暴風雨にあって遭難し、南西諸島の一島である種子島(鹿児島県)に漂着した。このジャンクは、倭冦の巨頭であった中国人・王直の経営する船であり、同乗の人びとのうちの2〜3名のポルトガル人貿易商がいて、日本の浜をふんだのであった。このできごとこそ、今日までのところ、詳しい事情のわかっている最初のヨーロッパ人来日であったとみられている。
 こうして、ヨーロッパ世界のさしだしてきた強大な「白い手」は、なかば偶然のきっかけから、しかし本質的には偶然ではなく、この東海の一小国を捕らえたのである。
 このとき、ポルトガル人貿易商は、日本との貿易を本気で意図していたのではなかったから、この漂着事件そのものが直ちに全面的なポルトガルの対日貿易のはじめとはならなかった。だから、この漂着の最大の影響は、あらためていうまでもなく、そのポルトガル人貿易商から島の戦国大名・種子島時尭(ときたか)にもたらされた2挺の鉄砲(種子島銃)の演じた歴史的な役割に求められるべきであろう。

そして注釈として次のものが書かれている。
【種子島銃】 中国製銅銃の輸入は、すでに16世紀初頭にみられるが、ヨーロッパ製鉄銃の輸入は、やはり、種子島銃をはじめとするとみていいだろう。その破壊力は、強力であり、はじめてこの銃の威力を見聞したときの日本人の記録である『鉄炮記』には、「この物一発、銀山をくだくべく、鉄壁をうがつべし。」とある。
 このとき伝来された種子島銃は、2挺だったが、そのうち1挺は、多数の僧兵をかかえていた荘園領主である紀伊国(和歌山県)・根来寺(ねごろじ)に伝えられ、中心的には境の鍛治師たちによって模造品の作製が成功した。やがて、境は、天下統一をねらう戦国大名たちに大量の種子島銃を販売する「死の商人」「死の職人」のまちとなった。もう1挺は、おそらく種子島時尭の財産となっただろうが、やがて、その私蔵品のうち幾挺かは、将軍・足利義晴と管領・細川氏を通じて、近江国(滋賀県)・国友村の鍛治師たちに伝えられて、織田氏・豊臣氏・徳川氏の兵器工場である国友鉄炮の起源をつくった。
 こうして国産化された鉄炮は、すでに16世紀中葉には、「鉄炮の用心」(『万松院殿穴太記』)のための石詰め・二重壁の築城法を生み、出雲自鹿城における毛利氏対尼子氏の合戦において矢傷5:鉄炮傷33という死傷者率を結果し、豊後国(大分県)の大友氏は全軍1万5千のうち1200名の鉄砲隊を動員している(『大友記』)。

こういった記述が、日本史の教科書の普通の記述である。これに対して、実はメンゼス・ピントの手記が当時(ピント死後33年後に)旅行記として出版されたという。これは、西洋世界では、14世紀のマルコポーロの「東方見聞録」以来の著作だったという。その旅行記が「東洋遍歴記

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である。(この本ではピントは猶太人ではなかったと注釈されているが、今では猶太人だったことが定説のようである。)もちろん、猶太人のトケイヤーは英語の本(「メンデス・ピントの旅」)を読んでいる。

さて、ピントはそのときの様子を次のように書いているという。
6人を乗せた、2隻の舟(カヌー)が、岸から漕ぎ寄せた。舷側まで来て、彼ら流に挨拶を交わしたうえで、私たちが乗ったジャンクが、どこから来たのか、たずねた。
 われわれは中国から来たと答え、もし、上陸させてくれるのなら、交易をもとめているといった。6人のうちの1人が、われわれの目の前に広がっている島がタネガシマといい、もし、日本で定められている税金を払うのなら、島主のナウトキンがすぐに許可を与えるといった。

この時の島主ナウトキンというのは、どうやら上の日本史の記述と比べると種子島時尭(ときたか)こと、直時のことらしい。

猶太人メンゼス・ピントは比較的理知的な人物だったが、他の2人の1人のポルトガル人は当時の日本人が「南蛮人」と呼んでいたそのものズバリの人物で、鳥がたくさん生息する場所へ行っては狩猟をして遊んでいたらしい。その1人がディオゴ・ゼイモトというポルトガル人であった。ピントは、こう書いている。
「3人のうちで、ディオゴ・ゼイモトという名の男は、射撃を好み、時々、火縄銃

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を抱えて、出かけた。彼は銃の扱いに長じていた。ある日、彼は多くの種類と、おびただしい数の鳥が生息する沼地を発見して、26羽あまりの野鳥を撃ち落とした。
 日本人は銃というものを、それまで一度も見たことがなかったので、ただちにナウトキンへ報じた。彼はこの報告を聞いて驚き、ゼイモトを招いた。ゼイモトは狩猟をしていた沼地から、すぐにやってきた。」

「私たちは彼が火縄銃を肩からぶら下げて、ナウトキンの前まで進んでくるのを見守った。2人の中国人助手たちが、面前で獲物を降ろして、並べた。
 ナウトキンは昂奮していることを、隠せなかった。その反応を見ていると、日本では銃が的へ向けて発射されるのを、誰も見たことがなかったことが分かった。だから、彼は喜びに浸っていた。そこにいた者は火薬の秘密をだれも知らなかったから、魔法の働きだと思ったことだろう。
 ゼイモトはそこにいた全員が驚嘆して、彼を見つめ、とくにナウトキンが大喜びした。もうこれ以上、詳細に書くことをやめたい。だが、まったく信じられないような出来事だった。
 島主はゼイモトを厚遇して、屋敷に招いて、泊めた。われわれが島を去る時に、ゼイモトは厚遇に感謝するために、火縄銃を島主へ贈った。」

「島主は銃を全中国の富よりも、もっとも高価な、値もつけられないような贈物を貰ったようにして、受け取った。そして、彼に銀で1千ティールを贈った。そのうえで、火薬をどうしたら調合できるのか、教えてくれるように乞うた。というのは、火薬がなければ鉄のスクラップにすぎないことを、知っていたからだった。」

これを見ても分かるように、西洋白人の行動様式は今も昔もほとんど変わっていないということがわかるだろう。スポーツのようにしてどんどん野鳥を殺す。何のためらいもない。それを奴隷状態の中国人を使って手伝わせる。また、相手の素性などおかまいなしだから、相手が大喜びしたり、いろいろ聞くと、相手は何も知らないと勝手に信じ込んで、相手はこれまで銃というものを知らず、はじめて銃をみたというふうに錯覚してしまう。

しかしながら、火縄式鉄炮ははじめてだっただろうが、日本史にあるように、それより先にすでに日本には銅製鉄炮が中国より伝わっている。それより先には、
蒙古襲来(元寇)時代

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にモンゴル人が鉄炮や大砲の祖先にあたる飛び道具を使って九州に攻撃した歴史があったわけだから、日本の武士たちがそういう飛び道具についてまったく無知であったはずがないのである。むしろ、そういう知識があったからこそ、最新式の火縄銃に興味を持ったともいえるのである。

さて、その後のやりとりはこんなものであったようだ。
ゼイモトは承知して、教えた。それからというもの、ナウトキンの楽しみといえば、火縄銃を撃つことだった。島民は島主があまりにも喜んでいるのを見て、早速、その火縄銃を手本にして、同じ銃を製造した。
 その結果、島民の火縄銃に対する飽くことのない好奇心と、銃の需要によって、私たちが5ヶ月半後に島を去るまでに、600挺以上の火縄銃が、島で造られた。
 その後、私が日本を最後に1556年に訪れて、ブンゴ(豊後)王国の首都であるフチュオに滞留した時に、3万挺以上の銃があると、教えられた。私がそんなに短時間で、それほど大量の銃を生産できることに驚くと、商人たち−−高貴で、尊厳に値する人々が、日本列島中に30万挺の火縄銃があり、彼らだけでも琉球を6回往復し、2万5千挺の銃を売った、といった。

これを見ると、一般の日本史では、ポルトガル人が持っていた2挺のうちの1挺が、和歌山から境へいって境の鍛治師たちで模造品が造られ、もう1挺は、のちのち足利義晴や細川氏を通じて、近江につたわり国友村の鍛治師たちによって再現されたことになっているが、どうやらそれはそうではなかった可能性が高い。種子島の島民が、ピントたちが滞在している約半年の間に、オリジナルを真似て600挺以上を造り、日本全国や琉球に売りさばいたというのが真実のようである。

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これからも、当時の日本人が銃についてまったくの無知だったとしたら、そんなことはできないわけであるということが分かる。古来から火薬についてや、鍛治師が鉄の扱いなどを十分に知っていたからこそ、火縄銃という面白い武器が来たことに対して、異常なまでの好奇心の目で見たということだろうと思う。そして、この時に日本で複製され、改造され、さらには、当時のヨーロッパ全土の銃の数より多くの鉄炮が日本国内に存在するようになったのである。
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(「火縄銃  短筒 藍屋与三衛門作」より)

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(「堺鉄砲 火縄銃 摂州住榎並伊兵衛作 山本刃剣蔵」より)

慶長大火縄銃(3m)
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徳川家康の大砲
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(「大仙公園」より)

これが結局、将来の日本の近代化、明治維新につながって行くのだが、一般には、日本人が明治維新を起せた原動力は、識字率の高さ、寺子屋制度、武士制度、天下太平の江戸時代の文化、などがその原因とされている。しかしながら、私個人の印象では、日本には、古来から日本刀に代表される鉄の技術があったこと、そしてそれがポルトガル人ピントによる鉄炮伝来による鉄炮技術ができたこと、こういう鉄炮と刀の技術が、日本の近代化を実現する原動力となったことはまずまちがいないだろうと見る。今でいう科学技術の力が、江戸時代までに日本には潜在的に備わっていたのである。

そしてそれが、西洋近代化の時代に、いわゆる「和魂洋才」として、日本刀と鉄炮からさらに、商船、戦艦、軍艦、零戦、そして戦艦大和などにつながって行ったのである。

さて、再びピントに戻ると、ピントの商売の仕方は、いまもって猶太人商人の典型を物語っているようにみえる。ロイヤル・ダッチ・シェルのサミュエル、現在のジョージ・ソロスなどのユダヤ人商売人、ユダヤ人富豪のやり方である。まあ、簡単にいえば、人の土地に出向いて行って、その地にいるひとのことなどまったく構わず、どんどん自分のものにして、儲けてしまう。そうやっても何とも思わないという、奇妙な精神である。

長くなったので、こういったことについては、またいずれ。
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  by Kikidoblog | 2012-05-12 13:44 | 真の歴史

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