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カテゴリ:ファミリービジネス( 9 )

 

ファミリービジネス9:「クォーツ時計誕生秘話」、水晶の切り方を古賀逸策博士に教えた祖父!

(つづき)

いよいよ私が知る我が家のファミリービジネスの最後の話となった。これはかなり昔には知っている人もいたのかもしれないが、いまではだれも知るものはいない。すでにその時代から2、3世代過ぎ去ってしまったからである。

古賀逸策(こがいっさく)という人をご存じだろうか?
おそらくいまでは普通の人は誰も知らないはずである。

最後として、この古賀博士と我が家にまつわる秘史をメモしておこう。これはいまでは私と私の父親しか知らない話である。



(く)クォーツ時計誕生秘話

まず日本はクォーツ腕時計の誕生の地である。実現したのはセイコーであった。

たとえば、セイコーのこんなHPがある。
クォーツ開発物語

クオーツ(水晶)式の時計とは、水晶の「圧電効果」を時間の標準源として利用した時計のことです。水晶の切片に電気を加えると、目にもとまらぬ速さで規則的に振動します。これを「圧電効果」と呼びます。この振動をもとに正確な1秒を導き出して時を刻むのが、クオーツ式時計です。1880年頃にピエール・キュリーによって発見されたこの「圧電効果」は、第一次世界大戦中に超音波通信などに応用された後、1927年、アメリカのA.W.マリソンによって時計への応用が試みられましたが、当時はとても巨大なものとなり、実用には不向きなものでした。

その後、セイコーが開発した最初のクオーツ時計が、1959年に日本の放送局に納められましたが、それも真空管式の大きなもので、高さ2.1m、幅1.3mと、大きなタンスのようなものでした。

その後1962年に、船体の位置を測定するために正確な時計を求めていた日本の海運会社に向けて、セイコーの船舶用クオーツ時計が開発されました。これは約45cm角の大きさ、重量約30kgとなり、飛躍的に小型軽量化が図られました。

クオーツ時計の小型化に向けて拍車がかかったのは、1964年に東京で開催される国際的な競技大会の公式計時をセイコーが担当することが決まってからでした。「それまでの海外メーカーの競技計時装置よりも一歩進んだものを作ろう。」をスローガンに掲げ、セイコーは、長距離レースの計時用に持ち運びが出来るクオーツ時計の開発を進め、1963年に、「クリスタルクロノメーターQC-951」を開発しました。そのサイズは、縦20cm×横16cm、厚さ7cm、運搬用のケースを含めた総重量がわずか3kgと、容易に持ち運びできるものでした。この時計は、当時12万円5000円という価格で市販もされましたが、高価であるにもかかわらず、とてもよく売れました。

一方で1950年代以降、欧米の複数の時計メーカーが腕時計の高精度化を追求して、従来の機械式腕時計に電子技術を応用した「てんぷ式電子腕時計」、「音叉式電子腕時計」などを発表していました。セイコーもそれらを研究しましたが、いずれも衝撃に弱く、身につける腕時計にはとても適していないという結論に至りました。

そこでセイコーが選択した道は、それらよりも衝撃に強く、数倍も高精度な「クオーツ式」の電子腕時計だったのです。それは、上記の「クリスタルクロノメーター」をさらに腕時計のサイズに収めようという研究であり、おそらくどのメーカーも研究を躊躇したほどの困難なものでした。
小型化への研究を重ね、951(写真上)の改良型「952(写真下)」は、縦・横・厚み共に半分の大きさまで小型になりました。しかし、クオーツ時計の心臓部である「水晶振動子」の小型化と、他の方式よりも要求される「省電力化」が難しい課題でした。セイコーは、この二つの課題を解決するため、最終的には、水晶振動子を自社で開発することによって小型化に成功するとともに、独自の間欠運針型のステップモータを採用することによって省電力化を実現しました。クオーツ時計の特徴である「一秒ずつ動く秒針」は、消費電力を抑えるためのアイデアだったのです。このようにセイコーは様々な課題を乗り越えて、クオーツ腕時計の完成に至ったのでした。

この世界初のクオーツ腕時計は、「クオーツ アストロン」と名付けられ、1969年12月25日、当時の価格で45万円という中型車並みの価格で発売されました。
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すでにスイスの時計メーカーが翌年中にクオーツ腕時計を発売することを予告している中で、この「クオーツ アストロン」の突然の発売は驚きをもって迎えられ、翌日の新聞が大々的に報じるとともに、通信社を通じて世界中にそのニュースが発信されました。

なお、このクオーツ腕時計の開発のために特許権利化した技術を、セイコーが惜しみなく公開したことによって、多くの時計メーカーがセイコーの方式にならってクオーツ腕時計を商品化し、クオーツ腕時計は世界中に普及していきました。


このセイコーのクォーツ(Quartz)というのは、石英の結晶のことである。

それを振動子となるように切開し、それを
音叉
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の代わりにするのである。

時計が小型になればなるほど石英の音叉、すなわち、石英のクォーツ振動子は小型にならなくてならない。

そんな加工技術がセイコーや東大の学者にあっただろうか?
もちろん、そんな技量は電気技術者や大学の学者にあろうはずがない。

当時、セイコーにこの科学技術を伝授したのは、東工大の助教授であった、古賀逸策(こがいっさく)博士だった。この人である。
古賀逸策と水晶振動子

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私達の周りにある多くの電子機器には、水晶振動子と呼ばれる小さな部品が使われています。その実用化に大きく貢献した人が古賀逸策です。古賀は東京帝国大学電気工学科を卒業後、東京市電気研究所の技師を経て、1929 年(昭和 4 年)に東京工業大学の助教授、1939 年(昭和 14 年)に教授となり水晶振動子の研究を続けました。

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 水晶を板状に切り出して交流の電圧を加えると、その寸法に固有の周波数で効率よく電気的な共振が起きて、発振回路に応用することができます。③の青印のように結晶軸に合わせて切り出したXカット、Yカットと呼ばれる切り出し法は当時すでに知られていましたが、温度変化による周波数の変動が大きく、安定した発信器として使用するには、温 度を一定に保つ恒温槽が必要で使い勝手の悪いものでした。温度による周波数の変動は、振動板の切り出し角度によって大きく変わることから、古賀は種々の角度の振動板を多数製作し、また、厚み振動の理論的解析を行うなど研究を進めました。そして 1932 年に③の赤印のような角度、形状で水晶を切り出すRカットと名付けた切り出し法を発明し、温度による周波数の変動が 10-7/℃と、従来のものに比べて二桁も小さい水晶振動子を実現しました。

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また古賀はこの安定な水晶振動子を用いて水晶時計の研究を進め、標準時計の開発も行いました。現在では、水晶振動子は時計(クォーツ時計)のみならずテレビ、携帯電話、通信装置やコンピュータなど多くの電子機器に使われていて、古賀の成果は現代社会を支える技術の一つとなっています。

なんでもそうだが、古事記や日本書紀や新唐記や旧唐記などもそうだろうが、歴史というものは、後の人が昔のことを「適当に」自分に都合よく、自分が知っていることだけにもとづいて書き連ねたものにすぎない。

だから、上の解説を見れば、あたかも古賀逸策博士が自らさまざまな切り出しに成功したかのように読めるだろう。

結果からすれば、それは間違いではなかったのだが、あくまで結果であって原因ではない。
というのは、始めは古賀博士は研磨や切断の方法すら知らなかったからである。

実は私が中高生の頃には、まだ祖母が生きていた。私は小遣い欲しさに年始には毎年通って「あけましておめでとうございます」と婆さんの部屋に通ったのである。そして、婆さんの趣味である囲碁を一局して、「お年玉」(一万円ほど)をくれるのを待って、もらってかえったのである。当時の一万円は大金だった。だから、私は初めて一万円札を見た時にはどぎもを抜かれたものである。だれかに盗まれたり落とさないようにずっとズボンのポケットを抑えて帰ったものだった。

その婆さんが我が家の伝説のように話した話が、この古賀逸策先生の話だった。私も聞いたことがある。のちに私の母親からも何度も自慢話のように又聞きしたものである。現在はもはや半分墓に入った状態である。

その伝説とはこんなものだった。

ある時、この古賀先生が弟子を連れて爺さん婆さんの水晶加工業の会社にやってきた。そして水晶の加工法を学ばせてくれといって、何ヶ月か我が家の爺さんの会社に弟子入りしたのである。

当時も(今も)山梨県甲府の宝石貴金属研磨技術は世界でももっとも進んだ加工技術をもっていた。そこで、そういう話を頼りに、古賀先生は山梨県甲府の宝石貴金属研磨技術を訪ねて回ったらしい。しかしながら、大半の会社からは門前払いを食らったが、元来研究熱心な私の祖父は、いっしょになんとかしましょうということで、古賀博士と一緒になって水晶の微細加工技術を研究したらしい。実際、この爺さまは非常に心根の優しい人だった。

何ヶ月か弟子入りしてついに博士が必要な技術を習得したらしい。そして、大学に戻っていった。
我が家ではそれっきりで元の生活に戻っていた。

それから何十年かして、その古賀先生がテレビのとある番組に出たのである。それは人探しの番組だったようである。そこで、古賀先生は「水晶振動子を切る時に世話になった宝石加工会社の人にお礼を言いたい」というような話をしたらしい。

しかし、当時は祖父はすでに亡くなっていたらしく、代わりに祖母が行けと言われたのだが、自分は恥ずかしくて行けなかった。


とまあ、そんな話である。

これが我が家の秘史、伝説となっている。

そう、日本のクォーツ技術を生み出したものこそ、山梨県甲府の宝石研磨加工の職人技術だったのである。我が家の爺さん井口章だったのである。

知らね〜〜だろ? そんな歴史はネ。しかしこれは事実である。



(了)



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  by kikidoblog | 2013-11-06 17:34 | ファミリービジネス

ファミリービジネス8:「引き割り技術」と「ダイヤモンドカッター」

(つづき)

さらに話は遡る。


(き)原石の「引き割り技術」の確立

さて、水晶の原石やめのうの原石が恐竜の卵のような大きな岩石であることは理解できただろう。こんなものである。
めのう原石
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この写真の原石は半分に真っ二つに割れて、その表面が綺麗に磨かれている。

そもそも、固い岩石をどうやって割るのか?

石を投げて落とし、かち割るのだろうか?

もしそんなふうにして割れば、岩石はバラバラになり、売り物にはならない。売り物になるには、綺麗に真っ二つに割れていなければならないのである。

そこで甲州の宝石加工業者が考えだしたものが、「引き割り」という方法である。

これは、大きな固い鋼鉄製ののこぎりを両側から二人で引きながら、そこに水を流し込み、磨き粉となる砂といっしょにギーコギーコとやって、徐々に切っていったのである。

しかしながら、私の記憶では、材木を二人で切るという時
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のようなノコギリではなく、もっと糸ノコギリ
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の大型のようなものだったと思う。この両側にハンドルがあって、両側から引っ張ることができるもの。そして、歯はノコギリの歯のようなギザギザのあるものではなく、平たい鋼鉄製のものだったと思う。

樹木であれば、ノコギリの歯のようなギザギザのあるものでもいいが、固い岩石相手では、そういうものは不可能。だから、平板状の鋼鉄製の金属歯であった。我が家のどこかにそういうものが残っていたのを見せられた記憶がある。

昔の甲府の宝石加工業者はそういう道具を使って、原石を引き割りしていたのである。

昔はダイヤモンドカッターなど存在しなかった。だから、鋼鉄製の金属の歯で、研磨剤と水と一緒にこすりつけて往復運動をしながら、せっせと石を切ったのである。そして、その歯の上に重しをおいて圧力を増したのである。
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しかし、この方法では、岩石を半分に切るのにはいいが、それをさらに狭い円柱状に何枚も切断するには不便である。時間がかかりすぎる。しかし、大昔の人はそうやってせっせと切断していたらしい。

私の祖父の時代にこれを自動化して、一気に何枚にも切る方法の開発が進められたのである。そして、ついに「引き割りの自動化」が実現した。これによって、めのうの原石を何十枚も一気に切断できるようになったのである。

それが、甲府の宝石加工業者のいうところの「引き割り技術」というものであった。

つまり、糸ノコギリのような構造のものを何枚も平行に並べたものを作り、その柄の部分をモーターの回転部につなぐと、モーターが回転するたびに、ノコギリ部分が往復運動する。そういうものを岩石を固定してその上から引き割るのである。その時に水と研磨剤を常に流しこむ。

この現物は私が子供の頃に見たことがあったが、いまもどこかで使われているかどうかは知らない。

いずれにせよ、この我が家の祖父の時代に誕生した引き割りの技術は当時の世界最先端を行ったものである。これは、人工ダイヤを使った「ダイヤモンドカッター」
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が出てくるまで使われていたのである。

その後はダイヤモンドカッターで引き割りをする時代へと変化したのである。雰囲気を伝えるものとしては、たとえば、こんなものである。
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富士山溶岩ボールができるまでより

我が家に初めてダイヤモンドカッターが来た日のことはちょっと覚えている。こんな感じの小型のものだった。
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しかしながら、これで実際に原石が簡単に切れるのを見てみんな興奮したものである。

さて、このダイヤモンドカッターの歯についているダイヤモンドはいわゆる「人工ダイヤ」のさざれ石である。そういうものを歯の表面に接着して、それでこすって相手を切断する。ダイヤを切る場合もやはりダイヤである。

私が阪大の基礎工学部に入学した頃、阪大基礎工には超高圧研究室というものがあった。そこには、
「ダイヤモンドアンビル」
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http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2009/091210/
という装置を持つ巨大な超高圧実験装置が存在した。

これは
万力
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の二枚の歯の代わりにブリリアンカットのダイヤモンドを使って、それを両側からプレスしてダイヤモンドの間に物質を挟んで一気に押し潰すという、超巨大万力のような装置である。

当時の阪大には世界最大級のこの高圧実験装置があり、人工ダイヤを作りつつあった。間に黒鉛を入れてダイヤモンドアンビルで潰すと、無色透明なダイヤモンドがたくさんできる。こうやって初めて人工ダイヤが誕生したのである。

これをどんどん使える時代になってはじめて、それを使ったダイヤモンドカッターが誕生したのである。


(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-06 16:35 | ファミリービジネス

ファミリービジネス7:「瑪瑙(めのう)」に色をつけてカラフルにする

(つづき)

さらに古くなる。昨日こっちを書いている最中にサファリが死んだ。そこで後先になってしまったが、もう一度メモし直すことにする。即興でメモしているので、最初のものとは似ても似つかぬ別物になった。


(き)めのうの色

我が家が甲府市の高畑町に住んでいた頃(つまり、1960年代)我が家の庭先には金魚の池があった。だいたい3〜4mほどの直径のものだっただろう。

はたして何のためだったか?

というと、当時は化学者用のシャワー施設のようなものはまだできるずっと前の時代だったために、危険物を顔や体にかぶった時に水洗いできるようにという目的であった。もちろん、私がずっと大きくなって後で知ったことである。

さて、山梨県甲府の伝統的地場産業である宝石加工業者や研磨業者が扱うのは瑪瑙(めのう)という石である。その原石は見かけは単なる大きな石である。あまり原石を見たことはないだろう。巨大な恐竜の卵のようなものである。それを、山の洞窟の中から掘り起こす。

山梨では古来、そうやって山に穴を掘ってこうした原石が出てきたのである。しかし、採掘しつくして私が子供の頃にはすでにブラジルから輸入していたのである。私が小中学生の頃、こういう原石が木箱にぎっしり詰まった箱がブラジルから送られてきたのである。

だいたいこんなものである。
めのう原石
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めのうは大半は乳白色のものである。むかしは、この石を切断して、その面を磨いて、そこに現れる奇妙な縞網様をみて、楽しんだのである。だからそういうものを「置物」として売っていた。我が家の先々代の時代には大半の甲府の宝石加工業者はそういうものを販売したのである。

そういう原石に時に赤や緑や青などの色が付いたものがある。そうなると、当然、そういった自然に出来た色つきのめのうはとても珍重されたのである。こんな感じのものである。
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ところで、無色透明の水晶になる部分は、原石の中央の空洞の部分に結晶成長する。だから、手のひらサイズの水晶が存在するような原石は稀にしか存在しない。非常に大きなものになる。この原石が人間より巨大なものにならなければ、言い換えれば、原石の中央の穴が洞窟のように大きなものにならないと、巨大結晶
水晶原石(ブラジル・コリント産の逸品)
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は手に入らないのである。だから、貴重なものとなる。

このように、色のついた瑪瑙は非常にめずらしいものである。手に入れにくい。だからこそ、人々が欲しがるのである。

そこで、仮に瑪瑙に色を自由自在につけることができたらどうか? 石を染めることが出来れば、いいのではないか?

甲府の宝石加工業者はそういうことを考えた。それが私の祖父の井口章(故人)であった。爺さんは聞くところでは非常に研究熱心で、日夜研究所で実験をした。私の叔父さんの美一(故人)がその研究熱心さを受け継いだ。

この二人で研究して、ついに白い瑪瑙に色を染める方法を編み出したらしい。それが、「めのうを酸で煮沸する」という方法だった。

赤瑪瑙を作るためには、瑪瑙を塩酸で煮沸する。ぐつぐつ煮るのである。
蒼瑪瑙(緑のめのう)を作るためには、瑪瑙を硫酸で煮沸するのである。
それも何日もかけて煮続ける。実に危険極まりない作業である。
素人さんは絶対に真似をしないようにお願いしますヨ。

しかし、甲府の宝石加工業者はこの方法で色をつけることができるようになったのである。人工的に瑪瑙に色をつけることができるという方法を発見したのである。

私が小学生の頃、工場と工場の間の空間に大きなビンがあったのをよく覚えている。近づいてみると、「硫酸」とか「塩酸」とか書かれていた。純度100%の濃硫酸や濃塩酸である。そのビンをさわってみると、熱かった。水面は波打っていまにも飛び出しそうであった。

こういう危険物を大きなフラスコに入れてバーナーで煮ていたのである。作業は危険きわまりない。手順を間違えば、爆発する。先に宝石を入れ、濃硫酸を入れるか、その逆かで爆破するかしないか決まるのである。

時に煮沸した最中に中の石の色具合を見なければならない。煮沸するわけだから、とうぜんガラスのフラスコの横は曇って見えない。しかたなく、ゴム栓を慎重に外して、中を覗きこむ。そんな時に、上から何かの水のしずくや雨水が一滴たれたらどうなるか?もちろん大爆発を起こす。

非常に稀だが、私の父や母が「やられた〜〜」と大きな声で叫びながら、走ってきて、庭先の池に飛び込む。そんな場面を目撃したことがあったのである。まずは池に入って全身の酸を洗い落とし、池の水道の蛇口で顔を洗い流す。

我が家の池はそういうために作られたのであった。

宝石に色を染める。

これもまた山梨の甲府で生まれた技術、我が家の先祖が発見した方法だったのである。

こういう痛ましい努力の結果、みなさんが身に付ける瑪瑙には赤青緑などさまざまな色がついているのである。


私が阪大の大学院で物性物理を学ぶと、私はこういう方法の原理を理解できるようになった。これは物性物理学者が「色中心」と呼ぶ現象である。結晶内に別の原子の不純物を入れると、そこに内部の電子がトラップされて色がつく。そういう現象である。

赤瑪瑙をつくるために塩酸で煮るというのは、石英の内部に塩化物イオン(Cl^-)を混入することに対応するだろう。緑の瑪瑙をつくるために硫酸で煮るというのは、石英の内部に硫化物イオン(SO_4^2-)を混入拡散することに対応するだろう。こういった不純物イオンが色中心を作り、あたかも乳白色の瑪瑙に色がついて見えるというわけである。

今では青色(ブルー)の瑪瑙もあることから、これも何かの酸で似たのだろうか?おそらく、リン酸あたりで煮るのかもしれない。内部にリン酸化物イオン(PO_4^3-)あたりが入ったのだろう。

我が家の爺さんが発明したこの方法によって、我が家もまたさまざまな色のついた瑪瑙を供給できるようになったのである。




(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-06 14:41 | ファミリービジネス

ファミリービジネス6:「貴石画」と「宝石画」の誕生

みなさん、こんにちは。

今日も昨日のつづきである。山梨県甲府市の宝石研磨業や宝石貴金属店の話である。だから、他の県の人たちにはあまり価値のある話ではないだろう。適当にパスして欲しい。


(つづき)


(か)貴石画と宝石画の誕生

原石を切り刻み、欲しい部分を抜き取ると、その周辺や端っこに大小様々なさざれ石ができる。切った残りカスのようなものだから、尖っていて、危ないものである。窓ガラスを切った後に残るはし切れを思い出せばいいだろう。

インターネット上にはすでに磨かれたものしかないが、雰囲気としてはこんなもの。
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そういうものが無数に誕生するのである。我が家もそういうさざれ石を庭先に捨てていた。

だから、我々当時の子どもたちが庭先でサンダルで遊んだりしていると、たまにそういうさざれ石でざっくりと足裏を切ったものである。それほど鋭利な切れ端だったのである。なにぜ水晶のさざれ石である。

しかしながら、「バレル研磨機」の登場により一気にさざれ石を磨くことができるようになった。そうなると、これまで石のゴミにすぎなかったさざれ石が、今度は売り物になってくる。財産や資源に変わったのである。

今では、インターネット上でパワーストーンだとか、さざれ石だとかいって売り物になっているようだが、そういうものはみなこの「バレル研磨」されたものである。たとえば、こんなものである。
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我が家にもこういうものが無数にそれも自由自在に作れるようになった。それが、私が小学生の時代の1960年代中頃から後半であった。

そうなると、大中小さまざまの大きさのさざれ石、カラフルなさざれ石ができるようになった。たとえば、こんな感じのもの。
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(これらはあくまで今現在のインターネット上で見つけたものである。しかし、私の記憶にあるものとほとんど同じである。)

こうなると、色の三原色(=赤、黄、青)に近い色のさざれ石が得られたことになる。したがって、色のついた石やさざれ石を使って「絵を描く」こともできるはずである。

こういうごく自然な発想で作られるようになったものが「宝石画」あるいは「貴石画」と呼ばれたものである。こんなものである。
☆……宝石画(貴石画)……☆

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我が家ではまさにこういうものを作っていたのである。我が家のものは父の名の実からとって「実宝(じつほう)」のブランド名で取引されたものである。この朱印が入ったものが我が家の製品であった。ところが、のちのちライター屋が我が家の名前と同じものを名乗り始めた。そのZIPPOと命名が重なり、裁判したが、相手を取り下げることが出来なかったという話を覚えている。その当時のジッポーなんていうのはそれほど大きな会社ではなかった。

まだ始めの頃は、細かいさざれ石部分は、磨くことが出来ず、細粉上に砕いた石を使っていた。だから、基本のパーツは比較的大きな石を使っていたのである。それゆえ始めは「貴石画」と呼んでいた。

ちなみに、この貴石画のアイデアは我が家から誕生したものではない。確か私の記憶では、大森さんだったかな(?)、ど忘れしてしまったが、別の会社の業界仲間の老舗が発明したものである。

が、しかし、「バレル研磨」でさざれ石が研磨できるようになると、細粉の代わりにさざれ石を使えるようになった。そうなると、もっと巧妙なことができるようになってきた。

それが、貴石画のモザイク画である。最初にやったのは、我が家の従業員の人だった。名前を忘れてしまったが、県の最優秀賞を取ったものである。こういうレベルになると、今度は「宝石画」とより一般化した名前がつくようになったのである。

たとえば、最近の映像でみれば、こんなものである。
宝石で描いた 名画

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いまではこんなものまであるようだ。
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http://item.rakuten.co.jp/alljewelry/999-gingac-3/

タイでも作られているらしい。
タイの宝石画
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ちなみに、我が家の最大級の宝石画は「富士山」の非常に大きなものだった。普通の富士山と赤富士の二種類があった。たとえば、こんな感じのもの。
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(これらは我が家のものではないが、最初にこういうふうな宝石画を作り出したのである。)


というように、1960年代〜70年代の山梨県甲府の宝石貴金属加工業者や宝石研磨業者の技術が、その後全世界に波及していったのである。その大本が「バレル研磨」技術だったのである。これは日本の山梨県から生まれた技術だったのである。

私が小学生時代には、毎日母親がこの貴石画を作っていた。化学ボンド剤を貴石につけて、額縁の板に貼り付けるのである。そうやって絵を描いていた。父親は、スカラベを磨いていたのである。そんな時代に私は野球に夢中になっていたものである。

これが高度成長時代の山梨県甲府の宝石加工業者の姿だったのである。


おまけ:
「宝石画手づくりセット」
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いまでは、こんなものまである。


(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-06 13:31 | ファミリービジネス

ファミリービジネス5:「回転ろくろ式研磨機」と「スカラベ」

(つづき)

さらに古くなる。

(お)回転ろくろ式研磨機

私が生まれた昭和32年頃、当時の甲府市の宝石研磨業者は「回転ろくろ式研磨機」を使っていたようである。これは、いわゆる瀬戸物などを作るロクロから応用されたもので、そのロクロの鋼鉄製の円盤に直接宝石を擦りつけて研磨するというものである。

普通の陶芸用のロクロというものは、こんなものである。
http://www.tabitabi-taipei.com/topics/20100120/taiken.php
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こういうロクロの上に粘土を置いて、ロクロを回して回転体を作っていく。
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しかし甲府の研磨業者はこんなふうには使わなかった。この回転部の金属に磨き粉(研磨剤)と水を流し込んで(垂らして)、そこに宝石を突っ込んで回転金属で磨くのである。
職人技紹介
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私が高畑町に住んでいた頃、我が家の工場にはそんなロクロが何台もあり、そのそれぞれに職人さんが張り付いて、ロクロの上で宝石を磨いていたのである。

これは「バレル研磨」法が実現されるまで続いたのである。

金属の棒ににかわのような接着剤で磨きたい面を上にしてたくさんの水晶のさざれを貼り付ける。それを右手に持って、左手で研磨剤の緑色の粘土を握って、それをロクロにすこしずつつけながらその上の緑の場所に研磨する宝石をこすりつける。まさに研磨である。

こういうのが当時の職人技であった。

私が生まれた時には、私が眠っている隣の部屋が工場で、そこで親父たちが日夜研磨していたそうである。

そのためにみんな右手が削れと圧力で変形する。それが職人の勲章であった。

そんな時代に革命をもたらしたのが「バレル研磨機」であったというわけである。
おそらくいまではほとんど目にしなくなったのではないだろうか?


当時1960年代はアフリカがすこし近代化し始めたころである。特にアラブの国々が石油で大分潤ってきた。アフリカ人はイスラム教を信仰する。特にアラブ人にとって、スカラベ(フンコロガシ)は神の使いである。

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http://coquette77.exblog.jp/2489533

日本人の縁起物というものである。だから、スカラベの入ったネックレスや指輪を必需品とする。
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ある時、ユダヤの商人が甲府にやってきた。そして、スカラベを掘った水晶
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(私の記憶にあるもので一番近いのはこんなもの。)
が欲しいと言ってきた。そこで、何社かが集まって商談した。そこで目にしたものはまさにユダヤ商法だったらしい。

がとにかく、そういうスカラベの形をした石をこの回転式ロクロ研磨機で擦っていたのである。これは結構長く続いた商品であったらしい。おかげで我が家はさらに大きく発展していくきっかけを作れたのである。

ところで、上のスカラベの形は何を使って掘ったかというと、これが歯医者さんが使う装置とまったく同じ研磨機であった。歯科医にいくと、ギュイーーーーンという音の出る先が回転する研磨機で歯を削る。あれである。こんなもの。

先に
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ものがついた回転研磨機である。当時我が家にも何台もこういうものがあった。それを使って、歯医者さんが歯を削るようにして、一個一個の宝石の表面にスカラベの絵を描いたのである。



(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-05 15:19 | ファミリービジネス

ファミリービジネス4:「バレル研磨」の誕生、研磨業を変えた革命技術

(つづき)

昔のことを思い出せるうちにどんどんメモしておこう。というのも、私の父もいまでは86歳をすぎ、いつ逝ってしまっても不思議ではないという年齢に入ったからである。私自身、昔脳梗塞を起こした父の年齢に入っているからでもある。生きている以上、人間だれしも死は避けられないからである。生きているか死んでいるかのいずれかしか存在しないのである。

(え)「バレル研磨」

さて、話はますます昔に遡る。今度は、山梨県の宝石研磨業者がどのようにして水晶や宝石を研磨したかという話である。

一般に「バレル研磨」というものがいまでは一般的である。いまインターネットですぐに見つかるものとしてはこんなものがある。
回転式バレル研磨機
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バレル研磨は当社にお任せください!!
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(これらのメーカーが発明したわけではない!)

原理は非常に単純である。ローリング・ストーンである。川の石は転がって丸くなる。これである。
バレル研磨

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バレル容器に工作物、メディア、コンパウンド、水を入れ、バレルに回転運動や振動を与えて研磨する加工法。回転形バレル、振動形バレル、遠心流動形バレルなどがある。

川の石は上流ではトゲトゲ、ごつごつしている。原石というものはそういうものである。それが下流の石は見事にエッジがとれて丸くなっている。

はたしてこれはどうしてか?

ということで、山梨県の研磨業者たちが目をつけた。山梨県には笛吹川や荒川という大きな川がある。そういう川の石をみて気がついたと言われている。川の石がどのようにして磨かれるのかを真似たのである。

要するに、川の水には大中小さまざまな砂利がある。そうしたものが水に混じっている。こういうものが研磨剤になって、大きな石の表面を削り取る。また上から下に転がり落ちるたびに丸くなる。

工場では川を作れないから、川の代わりが必要である。

そこで考え出されたのが、樽(たる、バレル)である。樽の中に研磨剤と水と磨きたい石の原石を入れる。それをコンベアーの上で回転させる。すると、だんだん中の原石の表面がピカピカに磨かれていく。

こういう原理である。

実は、この方法もまた我が家が宝石研磨業をやっていたころ、県の工業技術試験所のスタッフと共同研究して誕生したものである。したがって、公には山梨県の工業技術研究所で誕生したということになっている。(だから、井口家で特許を取れなかった。そのおかげで、この技術が県外や海外に流出しても賠償を取れなかったのである。山梨県県庁関係者というのは産業を育成するというよりは産業を衰退させることばかりしてきたのである。)

これが1960年代のことである。この研磨剤に前述の六価クロムを使っていたのである。

磨きたいもの(宝石)の大きさや形状に合わせて、研磨剤となる粒子や粉を組み合わせる。この方法によって、それまでは凸凹のある表面をもつ宝石の表面を研磨することは不可能だったのだが、それが自動的にできるようになった。

その結果、甲府の宝石商はながらく産業廃棄物としてしか使い道のなかった、さざれ石(端っこや切れ端のこと、パンの耳にあたる、不要なもの)を捨てていたのが、そういうものを全部根こそぎ研磨することができるようになったのである。
水晶のさざれ
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(昔はさざれをこういうふうにピカピカに磨くことができなかったのである。最初は一個一個を丁寧に手で磨いたのである。それがバレル研磨で一気に全部磨けるようになったのである。山梨県宝飾研磨業者や技術試験所職員の先人に感謝しよう。)


まさに宝石研磨業の革命を担ったものが、この「バレル研磨」という手法だったのである。

私がちょうど小学生の頃、だから、1967年頃にこれが甲府市内の研磨業者に普及しだしたのである。そして、私の祖父や叔父たちが、これをブラジルや韓国など世界に流布していったのである。

こうして、いまでは「バレル研磨」という立派でご大層な名前まで付き、解説サイトまでできているという時代になったというわけである。

これまた「読み人知らずの詩」のようなものである。

我が家はこのバレル研磨機が数十台並んだ工場を持っていた。ちょうど我が家が青葉町に引っ越した頃のことである。このバレル研磨機は最初は丸いバレル(=円柱バレル)を使っていたが、大きなものになると、それが六角柱のバレルになった。

ある時、工場の隣にあった我が家のテラスで野球をしているとたまにボールが工場の屋根に乗る。そこで、梯子を橋のようにして、忍者のように向こう側に飛び移る。そして、ボールを拾ってからまた梯子の橋を渡って戻り、梯子をはずす。そんなことをしたものである。

そんなある日、私の弟が私の真似をして工場の屋根に乗ったのはいいが、屋根を突き破って落っこちた。そして、下でガンガン回っているバレル研磨機の上に落ちたのである。幸い、指を裂傷しただけですんだようだが、命を落とすところだった。

それほど回転中のバレル研磨機は危険なものでもある。

それが1970年代の中頃のことである。




(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-05 14:29 | ファミリービジネス

ファミリービジネス3:宝石企業団地とレストラン・ダイヤモンド

(つづく)


(う)宝石企業団地の設立

我が家が甲府市の高畑町という場所に引っ越した頃、私は当時の国母小学校に通っていた。

そんな1960年代の甲府の研磨業者は、研磨剤(=磨き粉)として六価クロムの主成分の粉を使っていた。

私の記憶では、いまのセメントの袋
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のようなものに、ぎっしりと緑色の粉が詰まっていた。それに小さい穴をあけて、すこしずつ取り出して、それをビンや箱に入れて、研磨機の横においておく。それを手ですくっては水を流して加えて粘土の状態にする。それを研磨するべき水晶にふりかけてろくろを回して研磨したのである。

今はこんな感じ。
女子の1人暮らしの賃貸ワンルームで彫金アトリエをDIY!【2・完成】
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だから、この研磨剤は甲府の宝石研磨業者にとっては必需品であった。

したがって、研磨剤が溶けた水、すなわち、排水はそのまま近くの川や溝に流していた。

ところが、この研磨剤には六価クロムが入っていることがのちのち分かってきて、それが公害になるという話が持ち上がったのである。つまり、六価クロムの有害性が問題になったのである。だから、これまでのように廃液を川や溝に垂れ流すのはよろしくないのではないかという問題が持ち上がったのである。

しかしながら、これまで通り流し続けても特に苦情もなく、問題もなく、最初はそのままにしていた。業界全体でもこれまでどおりにしていたのである。

ところが他の地方で六価クロム公害というものが騒がれ始め、これはまずいぞということになって、甲府市の研磨業界も何かの策を打たなければならないということになったのである。しかし、どの零細中小企業もそんな最先端の浄化槽を設置する余裕はない。そんな金も土地もないからである。もちろんそんな事の出来る人材もいない。

そこで、私の父がみんなの反対を押し切って、「宝石企業団地」というものを構想した。同じ場所に研磨剤をたくさん使う研磨業社が集まり、その場所に共同の公害設備=浄化槽を作り、そこに廃液を流し浄化された水を川に流す。こういう施設を県の協力を得て実現したのである。そして、ついでにそこに観光客をバスであつめ、即日販売する。

これは比較的県も乗り気で意外にもすんなりと出来上がったように見えた。だがしかし、出来上がると、それまでの立地条件と設立後の立地条件が変わってしまったのである。公務員のご都合主義のために、即日販売もできるよということで誕生した企業団地が、設立後では、企業団地内での販売営業は禁止になったのである。

どうも山梨県というのは歴代こういうことをやる伝統があるようで、今回山梨に帰ったら、甲府駅前の再開発でもまったく同じようなドタキャン騒ぎを引き起こしたそうですナ。よほどのバカが上にいるのだろう。

約束は口約束でも約束。後になってそれはなかったということはあり得ない。ましてや構想段階で契約書に書かれたことを後になって書き換えることは不可能なのである。これができるのは、韓国人くらいのものである。

しかし、そういうふうなことを山梨県の県庁の公務員は頻繁にやっているようである。

というわけで、結局、県の産業の無公害化に成功した「宝石企業団地」という施設ができたにもかかわらず、そこで営業ができない。つまり、そこで実演販売できないというわけである。

こうして、せっかく無公害の工場施設で研磨された水晶宝石ができているのに、そこで営業できないという矛盾に苛まされ、結局ここも衰退していったというわけである。苦肉の策で考えたものが、そうやってみんなが研磨した水晶を販売する場所である。それが、最初の「レストラン・ダイヤモンド」
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だったのである。



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  by kikidoblog | 2013-11-05 13:18 | ファミリービジネス

ファミリービジネス2:昇仙峡「宝石園」「かつては東洋一の水晶宝石博物館」

(つづき)

(い)昇仙峡「宝石園」設立

その昔の山梨県の
昇仙峡
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に行ったことがあれば知っているはずである。そこにはとある「宝石博物館」があっただろう。

洞窟から入り、中に入ると、たくさんの宝石がある。そこには宝石細工する製作者の姿もあった。これが、「宝石博物館」であり、その後「宝石園」と変わり、ついに2007年に閉鎖した場所である。偶然これを紹介するサイトを見つけたので、それもメモしておこう。
(閉鎖)典型的なレトロ珍スポ「昇仙峡 宝石園」【山梨】

【※お知らせ】現在閉鎖している施設です。ご注意ください。大変残念です。楽しい想い出をありがとうございました。

珍スポットの全要素を満たす昇仙峡 宝石園
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かつては東洋一の水晶宝石博物館
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実は、これを設計し、設立したのもまた私の父實であった。宝石研磨業の紹介、制作現場を観光客に見てもらい、現場で即日販売するというアイデアである。これを実現するために、業界のトップとして、私の父親がここを作り出した。それが「宝石園」であった。(おそらく、この経験がのちのちの宝石学校の設立に繋がったのだろう。)

古来、昇仙峡という場所では、かならず水晶や宝石を売っている。この伝統はかなり前から存在した。昇仙峡を見に来て、県産物である水晶を観光客に売る。県の伝統産業である。山梨県の宝石貴金属メーカーにとっては、昇仙峡は非常に大事な場所だったのである。この伝統に即し、さらなる発展を考慮して、宝石博物館を作ったというわけである。

何事も、どんな世界でも、盛者必衰。たけき者も遂にはほろびぬ、である。
バブル崩壊の90年代を経て、やはり不況の波は後継者不足を生み、結局はここも閉鎖になってしまったようである。

「かつては東洋一の水晶宝石博物館」とあるように、ここは非常に人気スポットであった。大きなアンモナイトの化石もここにはあった。それも父が探してきたものである。

しかしながら、この博物館もまた我が家の事業の衰退とともに衰退していったのである。というのも、私が大阪大学の大学院にいた頃、私の父がちょうど今の私の年齢に差し掛かった頃に脳梗塞で倒れ、我が家の事業そのものが存続の危機に瀕死してしまったからである。


(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-05 12:35 | ファミリービジネス

ファミリービジネス1:山梨県立宝石美術専門学校設立

みなさん、こんにちは。

以下は、山梨県甲府市に特化した話題である。他の地方の人たちにはあまりおもしろい話でもないからパスをお願いしたい。


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今回久しぶりに山梨に私用で行って来た。56年の人生で初めて同窓会なるものに参加したのである。大学、高校、中学、小学校もふくめて人生で初参加。その目的はお別れするためであった。というより、そう簡単に徳島から山梨までその都度参加できるということはないから、40年ぶりで会うためであった、つまり、ひょっとしたらこれが会うのが最後になるかもなというご挨拶をしたいというためであった。

もうすぐここ阿南の生活が私が山梨県の甲府に生まれてから生後過ごした18年を超える。実質的にこちらのほうが故郷になりつつあるのである。

しかしながら、さすがに幼少期の記憶というものは、いっけん記憶の彼方に忘れていたと思っていたことであったとしても、その場所やその人物を見たりするとしばらくしていろいろと昔のことが思い出してきたから面白い。40年ぶりで会うと、40年前の子供時代の姿形しか知らず、今あった56歳の中年の姿形とはまったく違ってしまっているためにまったく最初はだれがだれだったかわからなかった。にもかかわず、しばらくしていると、突然に昔のあいつかというような感じで、ふと今のイメージと昔のイメージが重なりあって、二重になってみえるような感じで徐々になんとなく面影がわかってくる。

これは実に面白い経験であった。

非常に変わったこともあれば、まったく変わらずに残っているものもある。

特に、面白かったのは、見た目のというハード(物体的)のことばかりではなく、行動やその行動する様のような、動きや反応のしかた、こういうものにその人の昔の面影を見ることが出来たということである。要するに、その人物の癖は相変わらずだったということである。ほとんど変わっていなかった。

それを見るにつけ、やっぱりあいつかという感じでますます昔を思い出す。返事の仕方、ボケのかましかた、反応のしかたなど昔のままだったのである。

いまではみんな白髪、ハゲ、デブなど、いいおやじさんたちいいおばさん、いい爺さん婆さんになっている。ちょっと目では昔とは似ても似つかぬ姿に変わり果てていた。が、基本的には昔のままの部分が残っていたというわけですナ。

さて、そんな感じで山梨のことを思い出したついでに、我が家のファミリーヒストリーに関係する、山梨県甲府市の宝飾産業の歴史をちょっとメモしておこう。我が家の仕事の話である。(注:ちなみに我が家の仕事は私も兄弟のだれも継ぐこと無く、すでにだいぶ前に廃業してしまったのである。)

というのも、今回40年ぶりで甲府の人たちと話てみても、山梨県甲府の人達自体があまり地元の本当の歴史を知らないようだったからである。山梨県の人たち、特に宝飾産業で生きている人たちは常識として知っておくほうがいいのかもしれない。関心を持った人は自分で調査研究することをお勧めする。

時系列的には、普通の記述と正反対に徐々に古い話になっていく。私の遠い記憶をまとめているので、間違いがあれば、適当にご自分で修正しながら読んでもらいたい。

(あ)山梨県立宝石美術専門学校の設立
以前
古代朝鮮半島地域の「建国神話」の数々:建国神話なんていうものは大方嘘だろうヨ。
の最後にちょっと付け加えておいたことだが、山梨県には
山梨県立宝石美術専門学校山梨県立宝石美術専門学校
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山梨県立宝石美術専門学校(やまなしけんりつ ほうせきびじゅつせんもんがっこう)は、山梨県甲府市の専修学校。設置者は山梨県であり、日本で唯一の装身具(ジュエリー)を取扱う公立系専修学校である。
山梨県の地場産業である宝石装飾の人材育成のために作られた学校であり、卒業生はその後数年の産業経験、ジュエリーマスター認定制度の認定を経て装飾品職人になる。

というものがある。このウィキの説明にあるように、県立である。つまり、県がお金を出している。

こういうと、あたかも「山梨県の県庁の地方公務員がこういう学校の構想を練ってこの学校を設立した」と読めるだろう。しかしこれは事実ではない。真っ赤なウソである。

この学校の設立を提案し、それを実現したのが、我が家のご先祖、つまり、私の祖父と叔父と父親である。特に、実質的に事務処理を全部行ったのは、私の父、井口實(みのる)であった。当時、株式会社井口製作所社長、県宝石組合長、宝石画業者会長などいくつかの企業組合の代表を務めていた。

私の父は井口家の次男、長男が美馬貴石(みうまきせき)の社長井口美一(故人)、三男が井口章三(故人)。私の祖父の井口章(あきら)(故人)の会社をこの長男が継ぎ、三男が実家を継ぎ、いっしょに美馬貴石で働いていた。すでにみな故人となり、現存しているのは我が父のみである。

私の父は戦時中に学徒動員で戦地へ赴く準備をしていたが、終戦後実家に戻ったのはいいが、次男のために独立せざるを得なかった。そこで戦後の不況期に、最初は実家の下請けをしながら1人で工場を構えて生活をした。そんな貧しい時代の昭和32年に4畳半一部屋の家で私が生まれた。(正確に言えば、出産の時だけ他人の家の部屋を借りて産婆さんの手によって生まれた。)

1950年代の不況から1960年代に入り高度成長時代に入って、我が家も徐々に大きくなり、最初は甲府青沼あたりの4畳半、そこから高畑町に引っ越し、幼稚園2年と小学校6年の8年間そこに住んだ。そして中学に入る頃に青葉町に引っ越した。そして今回の同窓会の南中に入学したのである。その頃には、我が家は井口製作所という看板を立てられるほどに結構大きな会社に育っていた。本家をそろそろ追い抜き始めたほどであった。当時従業員は何十人かいたからである。二回には大きなテラスがある鉄筋コンクリート建ての家であった。部屋数は20ほどあった。一回にはロビーとダンスホールがあったほどである。(どういうわけか、おそらくこういう大きな家で育ったために、私には大きな家に住みたいという感覚がない。またアメリカに住んだ時もあんまり大したことないなあという印象しかなかったものである。そういう意味の衝撃を受けたことがない。)

そんな1970年代になり、宝石業界では後継者不足を心配する声が出てきたのである。

その一方で山梨県のもう一つの重要な地場産業であるぶどう栽培はさらなる発展を期待して、山梨大学にワインや科学醸造専門のワイン学科が設立されたのである。これが山梨大学工学部附属発酵化学研究施設であった。そして、今現在発展したものが、ワイン科学研究センターであるようだ。以下のものである。
ワイン科学研究センター
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沿革にはこうある。
山梨大学ワイン科学研究センターの歴史
 ワイン科学研究センターは、果実酒を専門に研究するわが国唯一の研究機関として、昭和22年 (1947) 年、山梨大学工学部の前身である、山梨工業専門学校に、附属発酵研究所として設置され、昭和25年 (1950) 、学制改革に伴って山梨大学工学部附属発酵化学研究施設と改称された。発足当時は、山梨県の特産品であるワインの品質向上を目的として、ワインに関する微生物学的並びに醸造学的な基礎研究を地域と密着して行ってきた。その後を改組を行い,平成12年度から発酵化学研究施設を廃止し,ワイン科学研究センターを新設した。わが国のワイン産業の発展に伴い、現在は世界的視野に立ち,先端的な細胞工学,あるいは遺伝子工学技術を駆使した基盤研究から最新のブドウ栽培並びにワイン醸造の実用研究までを包括する研究センターになっている。
年 表
年事 項
昭和22年
1947当時の大蔵大臣だった石橋湛山氏(後に内閣総理大臣)が産婆役を務め、山梨工業専門学校応用化学科の中に「醗酵研究所」として誕生。設置の目的は、山梨県の特産ブドウを原料としたブドウ酒の改良、並びにブドウ酒以外の果実酒全般の研究および関係各種酒類の研究を進め、優良品を海外輸出に発展させ、我が国の復興の一助とすること。
昭和24年
1949山梨大学が創立。
醗酵研究所も大学附属の研究機関として引き継がれる。
昭和25年
1950山梨大学工学部附属醗酵科学研究施設となる。有力者が資金調達を行い、旧陸軍甲府第六三部隊将校集会所の木造建物に357坪の研究室、ワイン工場、地下恒温装置付貯蔵庫、ブランデー蒸留室、アルコール発酵および蒸留工場、倉庫等を敷設し、電子顕微鏡などを配置し、研究設備が充実。東京大学農学部の坂口謹一郎博士、朝井勇宣博士、大蔵省醸造試験所長の山田正一博士など、一流の研究者のバックアップを受け、活性化。
昭和47年
1972地上3階地下1階の鉄筋コンクリート製の建物に改修され、さらに最新の醸造設備やブランデー蒸留器などに更新。ブドウ畑となる附属育種試験地が設置され、原料ブドウに関する研究も本格化。

平成12年
2000ワイン科学研究センターとして再発足。
平成18年
2006「ワイン人材生涯養成拠点」事業が、平成18年度科学技術振興調整費<地域再生人材創出拠点の形成>に採択。山梨県、地域ワイナリーとのパートナーシップを基に、ワイン人材を生涯にわたって養成する拠点を構築。地元のニーズを反映させたブドウ栽培からワイン醸造、将来的には経営学までを視野に入れた実学中心のカリキュラムを作成し、人材養成を行うとともに地域産業の活性化を目指す。対象者はワイナリー技術者と修士課程。「ワイン科学士」の認定制度などを決定。
平成18年
2006ワイン科学特別教育プログラムの発足。学部・修士課程の一貫教育によるワイン科学教育を開始。
平成20年
2008耐震工事を行い、建物を全面的に改修。
平成20年
2008山梨大学大学院医学工学総合研究部附属ワイン科学研究センター。
平成24年
2012生命環境学部創立に伴い、ワイン科学特別教育プログラムを見直し、地域食物科学科内に「ワイン科学特別コース」を設置。

この赤い字にした時がちょうど今回私が参加した、甲府市立南中学校の昭和47年度卒業生同窓会の年代だったのである。我々が中学を卒業する頃に山梨大学はワイン学科を根本からテコ入れしたのである。

こういう時期に我が家は県の宝飾関係のリーダー的存在であった。特に、旧制甲府中学出身で、旧制松本高校出の、業界では異例のインテリであった、弁舌のたった我が家の親父は実質上この県の宝飾業界全体を率いていた。(ちなみに、父は旧制甲府中学時代の1、2の秀才であった。)

だから、そろそろ宝飾業界にもワイン業界と同じようなことをすべき時期に来たと考えてきたわけである。

そこで、ワイン業者と同じように、山梨大学に宝飾学科を作るべきか、それとも各種学校の宝石学校を作るべきかの二者択一になったのである。どちらかといえば、私の父は前者の大学内に設置する派であったが、叔父は各種学校でもいいという派であった。いずれにせよ、県内に宝石専門の大学か学科を作りたかったのである。

そんなわけで、県庁に数えきれないほど通って、県の公務員の超固〜〜い頭を相手に説得に次ぐ説得を重ねて、誕生したものが、通称「宝石学校」こと山梨県立宝石美術専門学校なのである。

おそらく、甲府市の人たちも山梨県の人たちもだれも知らなかったに違いない。がしかし、私が中高生時代のまさにサッカー選手として全盛期の頃、そういうことを横目で見ながら成長したのであった。

そんな一つが私の父が作った。いまでいう、フラー型建築物。やはり1970年の大阪万博の影響だったのだろう。「レストラン・ダイヤモンド」。これである。
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これは、甲府バイパス沿いに作られた巨大なダイヤモンド型のレストランであった。甲府バイパスを通る車から格好の目標にされたものである。一旦人手に渡った後、これもだいぶ前に解体された。バブル崩壊後の空白の20年という不況の最中のことである。宝飾業界というものはもっとも景気に左右されさすいものである。景気がよくなれば、人々は宝石で着飾り、不景気になれば、真っ先に宝石を売る。そういうものである。

それゆえ、真の景気の判断は宝石業界の活況不況を見れば良いと言われるのである。言い換えれば、甲府の景気が良ければ、日本の景気もいい。甲府の景気が悪ければ、日本の景気も悪い。そういう目安になる場所なのである。

追記:
誤解なく付け加えておくと、我が家の先祖は、学校の申請と創設に働いただけであって、この大学ができたことで我が家のビジネスに直接の金銭的メリットがあったということはなかったのである。あくまで山梨の伝統産業の存続のために目先の損得勘定抜きで行った事業であった。だから、その後学校ができてから、学校長になったとか、理事になったとか、教授になったとか、そういうことは一切していない。学校が出来た後の職員の誰一人、こういう本当の歴史の話が出なかったのである。舞台裏を知らないのだからしかたがない。彼ら学校関係者や職員は役者(雇われ者)であってプロデューサー(立案者や創立者)ではないからだ。




(つづく)



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  by kikidoblog | 2013-11-05 11:13 | ファミリービジネス

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