人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ウィリアム・クーパー講演パート2:「ロズウェル事件」の真相

今日は、昨日に引き続き、ウィリアム・クーパー講演(「ビル・クーパー「ロズウェル事件の真相」を語る」)のYouTube番組のパート2の日本語訳である。以前のものには、その部分的なものを聞き取ったために、前後関係からの内容がよくわからずかなり誤解していた部分があった。今回のものの方がかなりましで、より正確であると思う。

パート1のところでも書いたように、読者が間違っていると思う部分は適当に自分で補完してもらいたい。何事も部分や細部の真偽にこだわるのではなく、言葉にのせるべき対象の総体の意味と話の流れをつかみ取って欲しいと思う。

というのも、人間の(経験を記述した)文章というものは、文章にするには書ききれないほどの経験した情報の中から断片的に文章を羅列して、その元ととなる経験対象を相手に気づかせる(把握させる)ための手段にすぎず、文章というものは得られた時空間の全くことなる文の織物として描かれるものだからである。この点、同じ文章でも数学的証明や科学論文として書かれたものとはまったく意味が異なる。なぜなら、数学的証明や科学論文に書かれた文章にはそれぞれの文の間で同時性が成り立つからである。したがって、数学証明では文章の中の一部の文に誤りがあれば、その全体が誤りとなるが、一般的な文章においては必ずしもそうはならない。一部に誤りが含まれていても、それはその部分にあやまりがあっただけのことで総体には影響しないものだからである。こういうことを特に日本人の科学者やインテリは理解しなくてはならない。つまり、ある人の主張に部分的な判例を見つけたからその人の主張そのものが誤りだというような態度を日本人は捨て去れねばならないということである。

そういう思考過程が今の日本人には必須である。そういう練習だと思っていただきたい。


William Cooper: The U.S. UFO And Alien 2-10


【パート2】
ウィリアム・クーパー講演パート2:「ロズウェル事件」の真相_e0171614_1023546.jpg



1947年12月9日にトルーマン大統領は、秘書マーシャル(Marshall)、フォーレスタル(Forrestal)、パターソン(Patterson)および国務省ディレクター政策立案スタッフのケナン(Kennan)による強制によって、NSC−4のために「外国諜報機関基準の座標軸」というタイトルの発行物を承認しました。ところで我々は皆この人々が「外国関係諮問委員会(Council of Foreign Relations)」のメンバーであったことを覚えていますが、海外軍事諜報機関ブック1、「諜報機関の活動を認めるように脅威にさらされた委員会について最終的にレポート」、US上院議会、94議会、第2セッション、リポート#94-755、1976年4月26日、49ページは、「諜報機関の国際的な活動を指揮するために国務大臣の破壊的な力が”反共産主義”のためにデザインされた」と述べています。NSC−4、NSC−4α、これはNSC−4A(これは軍事用語で混乱はありますが)への最高機密付属文書ですが、これは諜報機関がNSC-4を秘密裏に実行する心理行動をとり、アメリカ国民からUFOや宇宙人の存在について隠すようにという、諜報機関のディレクターへの通達でありました。

NSC-4の下では、CIAに隠蔽工作を与えた最初の権威は、これらの行動を指揮したり証明するため形式的手続きを行いませんでした。これがどういうことかお分かりですか? あまりいませんね。私に説明させてください。それが意味することは、誰にも答える必要はないということです。それが意味するのは、何かしなくてはならないことをするためならどこにいって行い、何も持ち帰らず、我々は何も見たくない。ただ仕事をするだけ。だれも聞かず、だれもレポートしない。それが正確に意味していることです。

DCI(Director of central intelligence)は、アメリカの政策に一貫していて、独立状態のつながりで隠蔽工作を請け負いました。唯一のガイドラインはアメリカの政策に矛盾しているかどうかだけでした。後にNSC−10/1、10/2はNSC−4、NSC−4Aを超えて行きました。NSC−10/1は、隠蔽工作を拡大して行くこと、宇宙人のテスト飛行プロジェクトに責任を持つことなどのために設立されました。それは直接にMJ-12の前身でした。NSC−10/1、10/2は、国家安全保障の指導的立場のために賛同できる範囲内で、合法的かつ非合法的実施、策略、手続きを正当化しました。行動力は汗かくものでしたが、諜報機関社会の目には板の穴すらありませんでした。NSC−10/1は、隠蔽工作の提案を再調査をするために設立された、のり付けするためではなく、指標となるグループでした。どうしてか? それは、トルーマン大統領にしては珍しいことだったからです。彼は猜疑心深い小男でした。彼は他人が正しいことをするとははなから信じていませんでした。だから彼は権力を固く自分の手中に収めました。それを他人に譲るようなことはありませんでした。

ECGは、宇宙人プロジェクトを取り扱う仕事を秘密裏に請け負っていました。NSC−10/1、10/2は、知りたいことが完了し成功裏に終わるまでだれも上には立たないものと解釈されていました。これらの行動は、大横領と諜報機関の間の緩衝役として設立されたものです。これは皆さんが理解する上でとても大事なことであります。というのは、後々非常に大事になるからです。それは、大統領が知識を否定する手段としての緩衝器として意図されたものです。それが政府が崩壊することを防ぎます。もし大統領が立って「私は知らない」と言えば、政府は助かりますが、もし大統領が何も言わなければ、非常に危険な状況に陥るからです。

その緩衝器は、後々秘密の政府や諜報機関社会が知りたいという時以外は、宇宙人の存在のどんな知識も有効に孤立させるための目的で利用されるようになりました。NSC10/2は秘密裏に研究パネル設立しました。それはその当時の科学者心を持つ人々、”MJ-12”として知られるような極秘文書やアイゼンハワー大統領の簡単な命令文書(これは現実に引き続きそれらの守りを通じて再調査するように計画されていました。)のようなものに名前が乗る人々、で構成されていました。その研究パネルは、”MJ-12”とは呼ばれていませんでした。実際、それは決してMJ-12と呼ばれたことはありませんでした。別のNSCメモ、NSC10-5、は、さらに研究パネルの義務の輪郭を描いています。これらのNSCメモや極秘の大統領戒厳令は、MJ-12は、その4年後に設立されたとだけ記述してあります。

ウィリアム・クーパー講演パート2:「ロズウェル事件」の真相_e0171614_10235416.jpg

さて、ここから話は汚くなります。国防長官のジェームズ・フォーレスタルは秘密にすることに反対し始めました。彼は理想主義者で敬虔な宗教家でした。彼は公衆は知る必要があると信じました。それで彼は議会のリーダーたちの会合において彼が聞かれたエイリアン問題について話し始めたとき、彼は優しい言葉で言えば、「解雇」されました。つまり、トルーマン大統領が彼を更迭しました。彼は多くの人々に自分は監察下にあり、命を狙われていると言っていました。しかしこのことは彼の精神分裂症のせいであると見なされました。というのも当時は大半の人々は何が起こっているか知らなかったからです。フォーレスタルは、後に精神衰弱にかかったといわれ、彼は”彼の意志に反して”近所の病院に入院したと言われています。事実、フォーレスタルは話したくても孤立させられ、見捨てられ、黙らされていたのです。1949年の5月22日の早朝のある時間、CIA工作員が行ったところ、まどの付近で首を閉められて死んでいるのを発見したという報告がなされました。これが「隠蔽工作」の最初の犠牲者であります。

1949年に「ロズウェル事件」で生き残った宇宙人は「EBE」と呼ばれました。すなわち、"extraterrestrial biological entity"を短くしたものですが、すべての宇宙人がこう呼ばれた訳ではありません。「EBE」は何年か生きていている傾向がありました。「EBE」は聞かれた問いのうち、望むものには答えを与え、望まない問いには答えずにいました。2年目の活動のある時点で「EBE」は提供し始めるようになった情報を開示するようになりました。この時の暴露の編纂が後々に終了した「イエローブック」と呼ばれるものの土台になりました。さまざまなものの中で「EBE」の写真も撮られましたが、これが私とビル・イングリッシュ(Bill English)が2、3年後に「グラッジ13」の中に見たものであります。なぜ彼らが「EBE」をファラデーシールドで取り囲んだか? というのは、「EBE」は、突然消えて人間が作った建物の壁を平気ですり抜けることができたからであります。逃げられないようにするために、壁の外側に電磁場を張り巡らせると、「EBE」を捕獲できたのです。

1951年の暮れ頃、「EBE」は病気になりました。米軍の医師団はその原因を特定できず治療できませんでした。彼らは原因を導きだす背景がありませんでした。「EBE」(身体)システムは、葉緑素を基本にしたもので、非常に「植物」に似たやり方で食物をエネルギーにしていました。廃棄物はあたかも植物がするのと厳密に同じような方法で取り出しました。そのため、植物学の専門家を呼び寄せることが決定されました。その病気は、ギル・メンドーサ(Guillermo Mendoza)博士が身体の回復を計ろうとさまざまな手を打ちました。彼は植物学の博士でした。

  by Kikidoblog | 2009-06-22 10:34 | クーパー

<< ウィリアム・クーパー講演パート... ウィリアム・クーパー講演パート... >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE