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「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」:玉井氏と藤城氏の対談より

みなさん、こんにちは。

さて、日本政府の「必殺仕置き人」による「仕分け」がほぼ終了したようである。その際、我々のように直接その利権に絡んでいないものはともかく、利権構造にどっぷり浸っている人々は、悲喜ともどもある感慨を持った事だろうと思う。

ところで、昨日紹介した記事の中で、私個人の観点に非常に近いものを財務官僚の藤城氏の意見に見たので、その中で特に面白いと私が思う部分だけ、玉井氏とのやり取りの中から取り出しておこう。ちょっと長いがだいたい以下の部分。ぜひ自分で読んで考えてみるべきだろう。いずれにせよ、財務官僚は”本気”だということははっきりと分かるだろう。

●財務官僚から大学の研究者への真摯な意見
第7回「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」

●運営費交付金について
『玉井克哉 (RIETIファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授):
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まず、運営費交付金は、国立大学に合わせて1兆2000億ぐらい投入されていますが、大学の現場にいると、もっと資金がほしいという声が強いわけです。一見足りていそうなところでも、これ以上必要ないとはなかなか言わないという習性があります。もちろん、実際に資金に困っているところもあります。そのような立場から見れば、財政当局は、めったやたらに財布の紐を締めることばかり考えている、けしからんという声も強いわけです。そこで、そのあたりを踏まえて、まずは、全体の大枠、概略的なことから現在の財政情勢についてお伺いしたいと思います。

藤城 眞 (財務省 主税局 税制第三課長/前財務省主計局主計官 (文部科学担当)):
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財務省は、とかく予算を切ることを主眼にしていると思われていますが、金を切っても施策が駄目になってしまっては意味がありません。教育をよくすることは、誰が見ても疑いのない目標です。ただし、教育に投じられる資金が、適切に、効率的・効果的に使われているのか、このことを問うことが大切です。

『藤城:
総枠を増やすことについては、一部の先生方から、とにかく教育予算をGDPの5%まで拡大してほしいという類の主張が出ていました。しかし、重々申し上げていますが、児童生徒1人当たりで見ると、日本は他の主要先進国と較べて遜色ない規模の教育予算をかけているのです。日本のマクロの教育予算のGDP比が3.5%で低いといわれますが、それは少子化のなかで、総人口に占める子供の割合が他の諸国よりも少ないからです。実際、わが国の子供の割合は、OECDの平均値の0.7倍です。このため、マクロのGDP比も、5%の0.7倍である3.5%になっているというのが事実なのです。

1人当たり教育予算は、どこの国もドングリの背比べでそれほど違いがないのですが、そうしたなかで、仮に日本の教育予算のGDP比を3.5%から5%に引き上げると、1人当たりの教育予算は他の国々の1.4倍になります。しかし、日本だけが他の国々の1.4倍まで突出しなければならない理由は何なのでしょう? このことを論理的に説明してくれた人は、1人もいません。また、教育予算は、8割が人件費です。子供が大きく減り続ける中で、教育組織を4割増しにするのでしょうか。そもそも「予算を増やして何に使うのですか?」と聞いても、具体的な増額内容も、積算もはっきりしないのが実態です。

結局、予算を増やしたいという思いや、教育は重要だといった精神論ばかりが前面に出てきますが、これで増額を認めていたら、日本の財政は爆発してしまいます。結局、この議論で欠けているのは、予算を増やすには財源が必要になるというシンプルな事実です。よく気楽に、「よそから予算を持ってくればいい」と言われますが、そうであれば、「何を削るのか」、「歳出のなかの優先順位をどう考えるのか」という議論になります。「道路を削ればいい」と言う方がいますが、それであれば、国民的な理解を得ることが必要です。ただ、そもそも教育予算のGDP比を5%にするには、7兆円!を超えるお金が必要です。でも、7兆円の予算を捻出するには、公共事業をゼロにしても足りません。

●大学の機能別分化について
『藤城:
そうです。二期が終了した段階で、先ほど話したようなことが完璧にクリアされているなら、それに越したことはありません。ただし、やはりある程度のペースというものも必要と思います。最近もある大学の学長と話をしたのですが、「この4年でかなり改革をやってきました」という話でしたが、おそらく4年という時間は、それなりに短い時間なのでしょう。しかし、一期で6年間、二期で12年間。12年間かけて改革していくというのでは、悠長でしょう。民間企業なら、12年間かけて問題を改善していては、潰れてしまいます。それなりにドラスティックなこともしなければなりませんが、そういうプレッシャーは大学にかかっているのでしょうか。

運営費交付金の1%削減がプレッシャーになっているのかもしれませんが、若干の疑問も感じています。「1%削減がいかに大変か」、「削減の結果、末端の研究資金が大きく削られている」などと関係者はしきりに訴えますが、なぜ、マイナス1%で末端がそれほど削られなければならないのか。「効率化」のメカニズムを各大学によく分析していただきたいと思います。その上で、第二期においては、いままでの一律削減ではなく、教育や研究のメリットを具体的に評価しながら、それに合わせてお金を配っていくことを始めなければなりません。具体的に研究に関しては、その相対的な位置づけを分野別に判断し、研究力の高いところにお金を集中して、研究力の低いところでは、お金は徐々に削減していくということです。

教育に関しては、必ずしも教育の水準は明らかではないかもしれませんが、大学ごとに、具体的に、こういう人材をこのように育成していきたいという目標を明確にして、それにどの程度合致した教育ができたかを事後評価しながらお金を配るなどということも考えられます。』

●評価について
『玉井:
その話でいえば、具体的になりますが、たとえば次の中期計画6年間のあいだに、この人はどういうことをやっているのか、あるいは、この学科は全体としてどういうことをやっているのか、その中で、人件費を含めてこれだけ国費が投入されているけれども、こういうことだからそれに見合うだけのものがあるのだということを説明してかかれ、ということになるのでしょうか。

藤城:
個々人とまで言いませんが、やはり学部なり、学科なりが、どういうことを目指しているのかは、少なくとも説明してもらう必要があると思います。そもそも研究力も弱く、教育目標もしっかりしていない、そういうところに漫然とお金を突っ込むことは限界です。それを黙認するのであれば、第一期と変わりません。評価もせずに、運営費交付金を薄切り1%で削減し、あとは大学内で配分するだけになります。しかし、それで全員共倒れというのであれば、やはり、中での相対的な重要性を評価しなければならなくなります。適切な優先順位を設け、それが低いところは別の生き方を考えてもらい、浮いた予算を、今度は優先順位の高いところに回していくことをやらなければならないと思います。

●大学のガバナンスの問題点
『玉井:
いまの話は、個々の大学のガバナンスのあり方にも反映されると思います。さまざまなところで指摘されるのは、教授たちが投票して、得票数の多い人が学長になり、その人が理事長として経営のトップにもなるという仕組みで本当に大学はやっていけるのか、ということです。どれほどの名医であっても、自分の身体を切って病巣を摘出するということはできないでしょう。そういう場合は必ず他人に頼むということになります。したがって、外部の人が経営者として入る、それに対して学問的に説明責任を果たす人というのはまた別にいる、その代表が学長だといえます。たとえば私立大学の場合、理事長職と学長職は分かれているところが多いでしょう。ところが、国立大学では学長即ち理事長ということになっている。

学長と理事長を分離する体制がすべての国立大学に一律に必要かどうかは別にして、少なくとも、理事長即学長という仕組みをすべてに当てはめるべきではない。体制の自由度というようなものも必要なのではないか、そういう議論もあると思います。

藤城:
全く同感です。よく企業と大学は違うと言われますが、組織論的に見れば、企業と大学は、基本的なあり方で、それほど変わらないところも多いと思います。 従業員の投票で社長を決める会社がこの世にないように、当然、社長は株主なり、その組織のステークホルダーに対する責任を経営者として負っているわけです。国立大学であれば、寄託者は国(納税者)かもしれませんので(私立大学であれば、大学の創設者、あるいは寄贈した人かもしれませんが)、彼らを向いて仕事をする必要があります。ところが、従業員が選んだ社長となれば、はたして株主を見て仕事をするかどうか。もちろん、株主しか見ていないのも弊害があるかもしれませんから、これは相対的な問題ですが、少なくとも現状は、トップが従業員を気にするようなバイアスがかかる恐れのある組織になっていると思います。立派な経営を行っている学長もいらっしゃいますが、システムとして、常にそのようであるのかどうか。外部評議員も入れていますが、では、どの程度、彼らの意見は反映されているのか。

したがって、理事長と学長が、それぞれの責任範囲を明確にするという意味でも、両者を分離するのは1つの考え方です。それが仮に難しければ、学長が、従業員のみならず、株主たる国民を見て運営を行うというバランスを担保する仕組みが必要です。特に、そのことは、トップが大学自体のあり方を変える改革を求められる場合に、重要となるでしょう。』

『藤城:
給料を半分というような極端な話をすると、皆抵抗しますが、退職不補充や現給で昇給停止、他大学の学科との併任とか、工夫はあると思うのです。民間では、さまざまな工夫をして、厳しい状況を抜け出そうとしています。大学もそれぐらいの覚悟が求められています。「それでは、30年かけてやります」などと言うわけにはいきません。「大学を世界トップ水準にしたい」という話の一方で、リストラは30年かけてと言うのでしょうか。本当にやりたいと思ったらやる、やる権限がないのなら、権限を付与する制度改革を行うと、次はそういう話になるでしょう。

玉井:
標語的に言えば、5年で世界トップ水準にしたい、しかしリストラは30年かかってやりたい、だから5年間で予算を倍にしてほしい、そういう話は通用しないということでしょうね。

●国立大学法人化の問題点
『玉井:
それから、教育と研究とを、機能的に分けるということになれば、ある教員が終身雇用で定年までそこの大学にいるとすると、機能的に少しずれが生じてくるのではないでしょうか。
私自身のことを考えても、研究能力が高い時期とそうではない時期というのは当然あると思います。研究能力が落ちたあとでも教育者としてはやっていけるかもしれない、むしろ練度が増すだけ教育者としてのスキルは上がるかもしれない、しかし第一線で死ぬまで世界一の研究者としてやっていくというのは、本当にアインシュタインのような人だけでしょう。とすると、世界最先端の研究をやる組織だということであれば、逆に人材の流動性というものがあるのが当然でしょう。ところがかれこれ30年ぐらい所属している人がたくさんいるというのは、そもそもそれだけで説明責任を果たせないのではないかという考えもあると思うのですが、如何でしょうか。

藤城:
財審の資料にも、はっきり教育と研究の接続において、柔軟な組織、学生と教官の円滑な大学間移動が大事だということを書きました。その心は、たとえば一旦自分は教育を中心にやろうと思って入ったけれど、やっているうちに研究をしたくなってきた学生もいるだろうし、あるいは研究でやって来たけれども、やっぱり後進の教育を中心におきたいという先生もいると思います。ポイント・オブ・ノー・リターンはないわけで、方向転換しようと思ったときに変えられる、自分の生き方なり自分の目指す方向をチョイスできるように、できる限り自由であるべきだと考えたのです。

教育系が中心の大学だとか、研究が中心の大学だといって、いったん入ったものの、そうではないところに行きたい学生たちには、いつでも転学できるような構造が大事だと思います。もちろん、大学に入ってから東大へ移りたくなったから、必ず行かせてくれというわけにはいかないわけで、試験などを受けて転学するということだとは思いますが(笑)。教員側でも、同じです。』

●評価の問題点
『玉井:
いい加減な評価で皆が疲れ、しかも結果が現状維持になるというのは、最悪ですね。

藤城:
そうなると今の一律削減と同じになるから、本当の意味で皆さんはオールジャパンの研究水準を上げたいと思っているのですか? 自分の大学を、向上心をもって高めたいと思っているのですか? という質問に戻ってしまうわけです。 では、こうした目標はどのようにクリアできるのでしょう。みなさん自由にやって、その中からポコンと急にノーベル賞が出てくるのであれば、「よかったですね、出るか出ないかはサイコロ振るようなものだから」と、それでいいなら、それだけの話です。』

『玉井:
財務省、あるいは文部科学省も含めて、霞ヶ関の方々は学問のことを知らないから駄目だということを大学人はよく言うわけですが、それなら自分でいいやり方を考えて、代案として何か出したらどうか、ということですか。

藤城:代案を出していただきたいです。それから霞ヶ関は、学問の深いところや大学のしきたりには疎いかもしれませんが、大学の成果なり教育をよくするための人間行動、学部間で意見の違う人たちをどのようにして調整するかというテクニックなどは、むしろよくわかっているかもしれません。 往々にして、議論がレッテル張りに堕してしまって、「役人だから」とか、「知らないくせに」とか言われますが、何の解決にもなりません。大学のことは大学人が一番わかっているのであれば、その学問の奥義に基づいて、どういうメカニズムが大学に必要なのかを提案してくれればいいわけです。

とにかくお金を増やしてくれ、根拠は不明確だが予算も倍だというのであれば、われわれは言葉もありません。改革に手をつけず、いまあるものを倍にしろと言っているだけに聞こえます。私は聞きたいのです。予算を倍にして、具体的に何をしたいのですか? 大学の教員数を増やすのか? 給料や研究費を増やすのか? それで高等教育がよくなるのですか? 給料を増やしたり、人数を増やしてよくなるのであれば、それほど簡単なことはない。しかし、生物学的に考えても、いまの倍にすればよくなるなどということは、単純には分からないことでしょう。』

『玉井:
それで、大学が変革を果たし、大きく枠組みを変えてみたところ、いまの資金配分のままでも大いに効果があがったということでれば、それならもうちょっと増やせばさらに効果がありそうだ、だったら道路特定財源が浮いた分を1000億円くらい回してもいいかな、ということはあり得るでしょうか。

藤城:
他を削減してでも、資源を追加投入することの効果が見えるなら、議論の俎上にのぼるでしょう。つまり、現状を変えてアウトプット効率が良くなるとして、もう少し増やせば、ここまでできるということが説明できればということなのです。その結果、外部性が高まったり、新産業があちこちで起こってくるとなれば、もっと投資したほうがいいとなるでしょう。いまは、まさに、ベネフィットが判然としないままに、とにかくコストだけ倍にしてくれという要求になっています。そして、「なぜ?」と問えば、「人材立国だから」とか、「教育立国だから」とか、抽象論で、言葉だけ踊っています。よく意味が分かりません。結局埒があかないので、「それでは、大学を国民はどう評価しているのか」という最初の質問に戻るわけです。大学というと、みな敬意は表しますが、「それでは、大学のために消費税を1%(=2.5兆円)上げてください」と言われれば、おそらく困惑するのではないでしょうか。』

  by Kikidoblog | 2009-11-30 12:10 | 真の歴史

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