「東大ノート」vs「中村俊輔サッカーノート」:「秀才ノート」vs「天才ノート」
日本国内も嘘のように静かになったようなので、お口直しに、また全く別の話題。今回は、最近ちまたで大ベストセラーとなっているらしい、太田あやさん
の「東大ノート」
と、これまた最近出版されたらしい中村俊輔選手の「夢をかなえるサッカーノート」
を紹介しておこう。
東大ノートは、現役東大生の200冊ほどを拝借して研究したらしい。一方、中村俊輔選手の場合は、中村選手たった1人のノートである。それゆえ、秀才はたくさんいるが、天才はわずかにしかいないから、簡単に言えば、「秀才ノート」vs「天才ノート」ということになるだろう。
東大の秀才ノートは、「すでに確立していることをまとめること」が中心になる。
だから、「限られた時間内で、内容を簡潔明瞭、そして理解しやすくかつ覚えやすく書くこと」が決め手となる。当然、それを行うだけの「知能や要領の良さ、頭の回転の速さ、記憶力」などが必要となる。また、ノートを作る作業が頭の中の整理に役立つため、「ノートそのものに価値がある」というよりは、「そういうノートを作ったという行為の方によりいっそうの価値がある」ということである。
受験生にとってみれば、「汚く煩雑なノートしか作れない」ということは、教科内容をだれにも分かるように、だれにでも説明できるようにはまだ理解が及んでいないということになる。
だから、できるだけ「簡潔明瞭、そして理解しやすいノートを作る」ように心がけるということが、教科内容の理解を助けるのは言うまでもないので、そうした方がいいということになる。
いまでは、この目的のために、だれでも東大ノートに近いノートを作ることができるようなノートも売られているとか。
美しく書くためのキャンパスノート
ところで、東大ノートに異論反論を述べている人もいる。2つほど例をあげておこう。1つは、慶応ボーイのYouTubeメッセージ。恥ずかしくて顔を見せる事ができないらしい。
【東大生&受験生必見!】東大合格生のノートは必ず美しい
もう一つは、やはり慶応ボーイの新聞記者さんのものである。どうやら慶応ボーイは東大生にかなりむき出しのコンプレックスを持っているのだろうか。
東大生のノートは本当にキレイ? いや、そもそもノートを取ってない
(ちなみに、私が聞いた、東大出身の伝説の理論物理学者で、後に参議院議員になった、伏見康治博士の伝説に「伏見さんは、東大時代にまったくノートをつけなかった」というものがある。むかしの東大生の中にはそんな人物も多かったようである。)
ところで、私の個人的印象では、実は私が中学に入学した頃(いまはもうなくなってしまったらしいが)、当時の学研の「中一コース」、
あるいは、旺文社の「中一時代」
CM (中一時代)
などの一番最初の内容が、これであった。つまり、「きれいなノートの作り方」であったと記憶している。そして、もう一つ、「試験前の勉強計画の作り方」であったと記憶している。そして、これは私のその後の財産の1つになったと思う。
どうやら、「東大ノート」というのは、その時代にそうしたノート作りを覚えた、塾や予備校の先生や学校の先生がいる学校で、そこの学生たちにこういうノート作りを伝授し、それを覚えた高校生が東大に入る。それが結果として「東大ノート」という形でリバイバルしてきたのではないかと私は感じる。その辺りを私は知りたいと思う。「そもそも、だれが東大生に東大ノート作りを教えたのか?」ということである。
さて、一方の「天才ノート」の場合、これは中村俊輔選手しか今のところ例がないから分からないが、かなり個性的、個人的な印象深いノートである。
イチロー選手や中田英寿選手や石川遼選手など他のスポーツの選手たちもノートを付けていたのだろうか? リオネル・メッシ選手やクリスチャン・ロナウド選手、ロナウジーニョ選手なども「サッカーノート」を付けていたのだろうか? その辺りは分からない。
私は、かなり前から日本のサッカーの優秀選手たちのほとんどが子供の頃から自分のサッカーノートを付けて来ていることを知っていた。そんな折、以前テレビで中村俊輔選手のサッカーノートを見た事があった。「やっぱり中村選手もサッカーノートを付けていたんだ」と私は思ったものだが、それは、確かまだ「東大ノート」も「サッカーノート」も出版されるずっと前であった。その時の印象では「ひどく汚いノート」という印象を持った。
試合で失敗したフリーキックの時のイメージは、ボールの軌道をなんどもなんどもぐるぐる重ねて書いた曲線だけでできた絵であったからである。その後、私は「中村俊輔もサッカーノートを付けているよ」と我が家の息子たちにもサッカーノート作りを勧めたのである。
はたしてこういう図も中村選手の「サッカーノート」には含まれているのだろうか? これについては、現物を見ていないので私は知らないが、サイト上の説明ではかなりきれいな印象を持つ。
かつて黒澤明監督の「絵コンテ」というものをテレビで見たことがあったが、
(黒沢監督の記録デジタル化 龍谷大がネット公開)
それも「天才ノート」の1つであろう。
私の個人的見解では、要するに、「東大ノート」というように、秀才には秀才独特の個性というものがあり、一様に傾向の似た者たちが見つかる。それが、秀才というものである。一方、「天才ノート」というものは、その人それぞれに個性的である。まったく同じものがない。だから、一概に一般化できない。ましてや「天才ノート」というようには型にはめることができないものである。もともと天才とは、そういうものだろう。
まあ、いずれにせよ、それなりに実績を残す人物は自分なりのノートなるものを必ず持っているというわけである。秀才は秀才なりの、天才は天才なりのノートを持って、自分の秘密にしているのである。本当は人に見せるものではないのだろう。ちなみに、私はいわゆる日記はかなり長いことつけていたが、留学中に止めてしまった。現役時代サッカーノートはつけていなかった。現在の私のノートも「凡人ノート」の方である。
ついでに書き加えておくと、京大生たちはこういっているとか。
京大ノートは自由の美
「京大生は受験時代のノートを紛失する」
「教科書やプリントに書き込んでノートに整理しない」
「東大ノートはきれいだと思うけれど自分には無理」
「ノートをとることだけに頭がいっぱいになるし復習に時間をとられる。時間があれば別のことをしたい」
by Kikidoblog | 2010-02-06 13:09 | サッカー&スポーツ