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日本の大学/研究所は、文科省のショーウィンドウになり下がった!?

みなさん、こんにちは。

昨日、私は日本の「研究バブル全盛期」について書いたので、ついでにその昔のブログに書いていたことを再掲しておこう。

これは、日本の大学/研究所の論文1本当たりに要した研究費についてのものである。2年前で、平均すれば、1本の論文で2000万円近くのお金がかかっている。だから、我々地方に住む人間からすれば、東大の研究者の論文1つで地方では家一軒が建つ。言い換えれば、東大の研究者が論文1つ作る度に地方から家一軒がつぶれているということになる。なぜなら、その論文からその先行投資分の利益が回収できていないからである。

そもそも、もうすでに、税金を消費することが研究自体の目的に変わって来ているのである。これでは、その昔の大本営の戦時中と変わらない。どうせ戦争で消耗し何のためにもならないと分かっていても国民を守るため戦争のためと建造した戦艦大和と同じ運命をたどるのである。

このあたりのいわゆる「研究見積もり(アセスメント)」という厳しい戦略的思考が今の日本の科学行政には見受けられないのである。

かつて赤色緑色発光ダイオードを開発した西澤潤一博士、青色発光ダイオードを開発した中村修二博士もそうであったが、研究の基本は「手作り装置」にあった。自分の行う研究の装置はすべて自分で発明し、自分で作ったのである。そこから始まった。だから、研究費はそれほどかからなかったのである。

ところが、今では研究におけるほとんどすべての装置が発注(外注)である。しかも海外発注である。DNAシークエンサーにしても高度装置は外国製である。これではいくらお金があっても足りないはずである。自分が作ったものではないから、すぐ壊す。あるいは、使い方を間違えてお釈迦にする。あるいは、すぐに古くなる。

かつて電気試験所(電総研の前身、現在の産業技術総合研究所)に電子部を作った和田弘という人が「電総研は通産省のショーウィンドウになり下がった」と皮肉ったという(ちなみに、私は1985年に電総研でこの人の肉声をテープで聞いたことがある)。が、それは、「ここには何でもある。ここでは何でもできる」というように、当時の最先端のありとあらゆる装置が納入されていたことへの痛烈な皮肉だったらしいが、今の日本の大学や研究所も非常にこれに似た状況にあるのである。つまり、「日本の大学/研究所は、文科省のショーウィンドウになり下がった」のである。

まあ、これが日本に良いことはあるまい。

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2008/01/31のBlog
東大の論文1本で一軒家が買える?


東大の論文、1本1845万円 国立大でコスト最大級

いやはや、ここ10数年ほどいろんな場で私が言ったり書いたりして来たことが、これまた”見事に”証明されたようだ。おそらく、これまで”こういう結果”が出ることが恐ろしくて統計すら出せなかったのではないだろうか。

東大から「公表される論文1本当たりにいくら必要か」という生産費は、なんと平均1845万円。 こんなにかかっているということが判明。実に情けない状況にある。

湯川秀樹博士や朝永振一郎博士の時代、「理論物理は紙と鉛筆さえあればできる」と言われたものだ。つまり、せいぜい数百円もあれば論文が書ける(公表できる)と考えられたのである。

それから50年。今や「理論物理は約2千万円かかる」時代となったらしい。

まあ、好意的に見て現在ではパソコンやインターネットも必要である。パソコンは高くてもせいぜい20一30万円、インターネットの維持費は少なくとも年2万円ほどは必要かも知れない。だから毎年パソコンを替えたとしても(そんなことするものは大学の人しかいないが。私は未だに1998年製のMacを根気よく使っている)、だいたい年30万円もあれば済むだろう。
それゆえ、「理論物理は紙と鉛筆とパソコンとインターネットさえあればできる」というのがフェアなところだろう。

ところが、東大では約2千万円かかるというのだ。ここ阿南あたりの田舎では土地付きの一軒家が買える金額である。

一方、私のこれまでの観察では東大の一教授の1年当たりの出版論文数は10以上もある場合もしばしばである。通常、2一3が良いところだが、多い人はその10倍の20一30ある人もいる。これを金額に直せば、普通の教授は4千万円一6千万円。多い人は、4億一6億円も1年で研究費を使っているということになるだろう。

つまり、東大(や国立大学)の研究者たちは、「サブプライムローン」並みの負債を国に負わせているということになる。なぜなら論文1本につき2千万円も浪費し、たいした特許もたいした引用数も得れらない”ゴミ論文”がほとんどだからだ。しかし、ここでは研究費だけの話で教授達の給料など人件費については何も語っていない。だから、実際にはさらに多くのお金が消費されていることになるはずである。

私のように”主夫”(アトホームダッド)として奥さんのわずかな給料から研究に充てている人間からすれば、大変な驚きである。もちろん、それでも年にいくつかの論文を公表できる。インターネット時代の現在では出版費はゼロなので、大昔と違って論文出版費がかさむことはないからである。

この意味では、東大の研究者と比べて、私の”生産性”は”無限”に近い。まさに「理論物理はアイデアさえあればできる」という方に近い。本来あるべき学者の姿であるナ。

このように、現在ではむしろ研究費は昔より本来少なくても済むはずの時代なのである。それが昔よりはるかに浪費しているわけだから国の借金は莫大となる。

ところで、この”悲惨な研究状況”に関して、東大の岡村定矩(さだのり)副学長(研究担当)はこう言った。
「いろいろな統計データがあるので、とくにコメントすることはない」

このだんな、何か大勘違いしているのではないか。NHKではないが、記者会見して国民に「浪費してすみません。今後はもっと生産性をお上げします」と謝罪すべきなのではないだろうか。私にはそう見えるが。

その点、早稲田の竹内淳教授は少しましでこう言った。
「少ない費用で優れた成果を出している地方の国立大にも研究費を正当に配分するような制度に変える必要がある」

さて、私は、この問題(東大の極少生産性の問題)は大学における研究だけの話ではないと考えている。これは今の日本社会における生産性の問題と全く同じであると感じるからだ。つまり、東大を東京に置き換えればそのまま同じことが成り立つだろうと私は推測しているのである。 要するに、東京の生産性は東大並みに低いはずである。そう考えるということだ。お金(=投資、東大の場合の研究費にあたる)額が東京が1人勝ちで極めて巨額であるために、総額としては東京の生産性が高く見えるが、実質的には日本で最低クラスの生産性に過ぎないだろうということである。いずれこれもちゃんと証明される日が来るだろう。

この意味では、「東大の問題は日本を象徴する実にうまい例」なのである。まあ、一言で言えば、「あまり研究に向いていない人たちがやっている」ということですナ。

それにしてもひどい生産性ですナ!

参考:
地方は痴呆化した?:”教育再生会議への提言”
日本の科学研究「効率悪い」、その理由は?
[ 更新日時:2008/01/31 17:02 ]
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ちなみに、以下のような意見もしばしば見受けられる。
「東大の論文はコスト最大級」報道に疑問 有意義な研究とは?

しかし、この手の人々が暗黙のうちに、あるいは、意識的に見落としているのは、「研究業務においても、生産者的立場(収入)と消費者的立場(支出)があり、ふだん研究費と言っているものは後者であるにすぎないため、その研究の結果として何ら収益がない」ということである。つまり、「論文を生産することに、生産という言葉は使われるが、これがそのまま何かを生産し利益を得るという生産者的立場にはつながらない」ということである。

一般に、研究の成果は科学誌に発表されるが、その著作権は海外のNatureなどの有名研究雑誌に帰属するため、売れて儲かるのはNatureなどの外国企業でしかなく、国内にはまったくメリットが生まれてないのである。その研究がいくらすばらしくとも、本にして売ったり、特許や著作権などの形で取得しない限り、その研究から金銭的利益は生まれない。その結果として、日本の大学/研究所は、その研究のために投資した金銭分を取り返すことができないのである。日本の研究業務は、結局イギリス人やアメリカ人やオランダ人などの所得を増やすことはあっても、決して日本人の所得を増やすことにはなっていないのである。そういう構造的問題ができあがっているのである。

上の一般人は、こういうことを知らないということだ。あるいは、知っていたとしても意識的に無視したということだろう。

まあ、例えて言えば、「子供が一流のプロサッカー選手になるんだといって、クリスチャン・ロナウドばりのユニフォームや高級スパイクを親にせがんで買ってもらい、それらをばんばん使って消費するが、結局一流プロサッカー選手にはなれず、親の投資が全部パーになる」というようなものである。

まあ、それでもチャレンジしただけはましなんだがネ。また、自己責任として、その親が自分の息子の失敗分の責任をとるのだから、それはそれで否定することはできない。ところが、国の場合は、息子である研究者の失敗を自分ではなく、他人である国民にとらせることになるからたちが悪い。こうやって、毎年毎年5兆円が消費され、この15年間で25兆円もの巨額が日本の科学界で消費されてきたわけだ。

  by Kikidoblog | 2010-02-19 12:39 | 真の歴史

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