隆盛と鉄舟の駿府城会談の焦点、”甲府の戦争”とは?:次郎長vs勝蔵の戦闘であった!
今日はまずこれから。昨日紹介した山岡鉄舟公に対する、西郷隆盛公の評である。
山岡鉄舟公を評して曰く
命も要らず、名も要らず、金も要らず、という男ほど始末に困るものはない。
しかし、こういう始末に困る人ならでは国家の大事は語れない。ーー西郷隆盛
(一番右が西郷隆盛実像)
参考:岩倉公所蔵の名刀正宗 ここに、実際の品川会談を行った人物は、勝海舟ではなく、山岡鉄舟であった歴史的事実が岩倉具視によって残されている。
この最後にメモしておいた、名刀正宗の話は、岩倉具視が書き残させたという、岩倉公所藏「正宗鍛刀記」という書物に遺された実話である。しかしながら、これは、司馬遼太郎にも、日本の歴代の有名作家たちからも意識的か無意識的か知らないが、見事に無視されてしまったために、いまやほとんどの日本人は知ることはない。ましてや文部省、その後の文部科学省の教科書にも載っていないために、だれも存在すら気づかないという実に情けない歴史となったわけである。
この中に、山岡鉄舟が勝海舟の承諾を得て、自ら「われこそは朝敵、山岡鉄舟である! 急用あって総督府に行かねばならぬ。ゆえに一言申しておく!」といって、西郷隆盛に会いに行った時、
「「幕府の賊兵どもが、甲府で兵を挙げた。」と、小田原中が大騒ぎになっていた。」
「甲府で官軍と幕府軍が交戦している。これは朝廷の命に背く行為だ。」
という話が出る。この時の「山梨県の甲府を中心に行われた官軍と幕府軍の戦争」のことはほとんど日本史にも出て来ない。
いわゆる、日本史では、「江戸の無血開城」のことばかりが褒めた絶えられているが、それはこの山岡鉄舟と西郷隆盛の駿府城の直談判が先にあり、その後に、これが「勝海舟と西郷隆盛の品川会談」という伝説に転嫁されたものなのである。確かに品川会談はあったのかもしれないが、それより先に山岡鉄舟の下ごしらえがあって実現したものと考えるべきものなのである。
ましてや、その時の会談の主題となった、日本人の血で血を洗うような戦闘行為を戒めるきっかけとなったものが、甲府の戦争であった。
では、ここでは、誰と誰が甲府で戦っていたのか?
実は、これが全く知られていない事実なのである。私は山梨県甲府市生まれの生粋の甲州人であるが、その私ですら、私の祖父、父たちですら知らなかったことなのである。歴史とはそのようにしてすぐに忘れ去られるものである。
この時に戦ったものは、幕府の甲州軍が、あの清水の次郎長率いる民兵であった。これと戦った官軍の甲州部隊の長が、あの黒駒の勝蔵であったのである。次郎長の物語は、江戸時代のいつ頃か知っている人は今ではほとんどいないが、時代劇のお話としての清水の次郎長は、江戸時代まっただ中のように描かれているが、事実は江戸末期から明治維新にかかる近代の清水の生粋の渡世人(やくざ)の親分であった。勝蔵は甲府にいた甲州の豪族であった。この両者が、本気で甲府を舞台にして戦ったのである。彼らは、いわば、明治維新を促進した歴史的人物であったというわけである。彼らの悲惨な戦闘を見ていて、これでは日本が危ういという印象を日本の官軍と幕府軍の両軍の指揮官たちが思ったわけである。
では、その終戦後、すなわち、明治維新達成後どうなったか?
これは、実に謎めいた歴史が残っている。明治維新達成後、官軍が勝者となり、幕府軍が敗者となった。したがって、甲府戦の勝者は黒駒の勝蔵であり、敗者は清水の次郎長であった。だから、普通に考えれば、敗残の兵の長である清水の次郎長が絞首刑。黒駒の勝蔵が生き延びるはずである。ところが、実際には、勝った方の黒駒の勝蔵がとある犯罪者の汚名を着せられて死刑になり、負けた方の清水の次郎長が生き残り、勝海舟や山岡鉄舟の庇護の下、静岡でお茶事業を育成するために奔走したのである。
この辺りを小説にすれば実に面白いのだが、だれか小説にするものはいないのか?
まあ、そういうわけで、清水の次郎長と黒駒の勝蔵は、明治維新の時に実際に幕府軍と官軍に分かれて死闘を繰り広げたのである。
この話題に関しては、もう5、6年前に昔の私のブログ(Kikidoblog)に書いていたので、今回それ再掲しておこう。何かの参考になれば幸いである。
歴史とは、こうやって忘れ去られるという典型のようですナ。
by Kikidoblog | 2011-01-17 11:16 | 真の歴史