「3月11日19時までの日本列島震度分布」発見と「運命と宿命」の風
東北宮城沖地震の状況は、まるで「第三次世界大戦」による攻撃を受けたかのようである。悲惨を極めている。被災した方々にはかける言葉もないが、お亡くなりの方々のご冥福を祈りたい。
今日、偶然、昨日の3月11日の地震を含む、数日の群発地震のデータをYouTube番組にした人がいたので、それをここにメモしておこう。以下のものである。
2011年3月8日3時〜3月11日19時までの日本列島震度分布
下の動画は、2011年3月8日3時から3月11日19時までの間に、日本列島で起きた地震の震度分布マップです。一体どの辺りで地震が起きて、どの辺りの人たちが地面の揺れを感じ、そして、そんな場所が時間を追ってどのように変化して行くのを知りたくて、揺れが続く中で作った動画です。
動画で10秒過ぎに起きる地震が、今日の14時46分頃に起きた地震です。それまでは、比較的近い場所を震源とする地震が多いけれど、それ以降は、広い範囲で大きな地震が起き続けています。
北米プレートと太平洋プレート、さらには、フィリピン海プレートが入り交じりあう日本では、不安や不便がいつまで続くのでしょうか。
道の上で、不安そうに空を見上げる年上の人たちと話します。足下を見ると靴下だけだったり、上着も着ていないままだったり…。
一人暮らしの年配者たちは、たとえば、どんなものがあったら心細さがなくなるのだろうか?と考えます。
(10秒目辺りの地震が、東北宮城沖地震であるという。)
ところで、福島原発は、アメリカの「スリーマイル島の原発事故」
とまったく同じルートを辿りつつあるように見える。日本政府は、この時の事件を参考にして、今後の対策を考えるべきである。
メトロポリタン・エジソン社(所有はGPUニュクリア社)のスリーマイル島原子力発電所は州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川のスリーマイル島(Three Mile Island)と呼ばれる、周囲約3マイルの中州にある。
スリーマイルアイランド原子力発電所は2つの原子炉を有し、そのうち2号炉(TMI-2)はバブコック&ウィルコックス社(B&W社)が設計した加圧水型原子炉(PWR)で電気出力は96万kWであった。事故当日、TMI-2は営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中だった。
ハリスバーグでの反核運動
事故は1979年3月28日午前4時すぎから起こった。
2次系の脱塩塔のイオン交換樹脂を再生するために移送する作業が続けられていたが、この移送鞄管に樹脂が詰まり、作業は難航していた。この時に、樹脂移送用の水が、弁等を制御する計装用空気系に混入したために異常を検知した脱塩塔出入口の弁が閉じ、この結果主給水ポンプが停止し、ほとんど同時にタービンが停止(トリップ)した。 二次冷却水の給水ポンプが止まったため、蒸気発生器への二次冷却水の供給が行われず、除熱が出来ないことになり、一次冷却系を含む炉心の圧力が上昇し加圧器逃し安全弁が開いた。
このとき弁が開いたまま固着し圧力が下がってもなお弁が開いたままとなり、蒸気の形で大量の原子炉冷却材が失われていった。加圧器逃し安全弁が熱により、開いたまま固着してしまったのである。原子炉は自動的にスクラム(緊急時に制御棒を炉心に全部入れ、核反応を停止させる)し非常用炉心冷却装置(ECCS)が動作したが、すでに原子炉内の圧力が低下していて冷却水が沸騰しておりボイド(蒸気泡)が水位計に流入して水位を押し上げたため加圧器水位計が正しい水位を示さなかった。このため運転員が冷却水過剰と勘違いし、ECCSは手動で停止されてしまう。
このあと一次系の給水ポンプも停止されてしまったため、結局2時間20分も開きっぱなしになっていた安全弁から500トンの冷却水が流出し、炉心上部3分の2が蒸気中にむき出しとなり、崩壊熱によって燃料棒が破損した。このため周辺住民の大規模避難が行われた。運転員による給水回復措置が取られ、事故は終息した。
結局、炉心溶融(メルトダウン)で、燃料の45%、62トンが原子炉圧力容器の底に溜まった(当時、炉心溶融はないとされた)。給水回復の急激な冷却によって、炉心溶解が予想より大きかったとされている。
また、1989年の調査で圧力容器に亀裂が入っている事が判明し、異常事態が更に長引いていたならば、チェルノブイリ原子力発電所事故と同様の規模になっていたと言われている。
これが最悪の事態になると、ソ連の「チェルノブイリ原発事故」
のようになるというわけである。この場合は「死の町チェルノブイリ」となってしまった。
この規模の原発事故は他に例がなく、原子力開発の歴史上で最悪の事故と言われている。
事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、原子炉が止まった場合を想定した実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質[1]が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。これは、広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の500倍とも言われている。
当初、ソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかった。また、付近住民の避難措置なども取られなかったため、彼らは甚大な量の放射線をまともに浴びることになった。しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソ連も事故の公表に踏み切った。日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。
爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれている。
事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は、居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、ソ連の発表によれば、事故発生から1ヶ月後までに原発から30km以内に居住する約11万6千人全てが移住したという。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。
放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。
福島県には、日本のJユースのサッカー施設が、東京電力の原発マネーにより、政治的意図のもとに作られたわけだが、若者の人生がこれで激変してしまうというのでは困る。やはり、Jユースの教育施設のようなものは、原発などの危険物のない平和的なリゾートのような場所に設置すべきだろう。
できるかぎり素早く他府県へ逃げることを私はお勧めする。また風向きのせいで、この原発の放射性蒸気や煙が、再び、東北へ向えば、被災して動きが取れない人々の地域を襲うことになるだろう。もちろん、南に向えば、関東も被爆するだろう。
かつてニビルの神々が「邪悪の風」と呼び、そのおかげで彼らが地球を去ったものが核爆発による死の風である。「運命と宿命」言い換えれば「偶然と必然」、この違いにより、大きな将来の結果が決まるのである。今回の地震の結末がどういう運命になるかは神のみぞ知るが、どういう宿命になるのかは、今原発をどこの段階で食い止めることが出来るかによるのである。
by Kikidoblog | 2011-03-12 15:07 | 原子炉被災