私のものには「90%の真実に10%のウソがある」!?:分かったか、この野郎!
今回は私の個人的印象のメモである。大半の人には無関係、興味ないだろうからスルーして欲しい。
さて、インターネットの時代に入って、商用個人用HP、掲示板、チャット、ブログ、SNS、トゥウィッター、フェイスブック、YouTubeなどなど、さまざまなサイトができた。それによって、”予想外の”現象というか、効果も出て来たようである。
元々インターネットというものは、物理学者たちが自分たちの投稿前の科学論文(プレプリントというが)を一カ所に集めてだれでもダウンロードできる形にしたいという要望から誕生したものである。それ以前は、何百ものプレプリントという論文コピーをそれぞれ郵便にして世界中へ郵送していたのである。この経費と手間を何とかして軽くしなくてはまずいということだったのである。1980年代のことである。かたやパソコンとネットワークの発展、その結果としてのemailの発展とあいまって、だれでも同じように閲覧できるようにということで、いわゆるブラウザ技術が誕生したのである。インターネットは、欧州のセルンという研究所の高エネルギ−理論物理学者の何人かによって作られたのである。まあ、一言で言えば、理論物理学者が作った、のである。
物理学者は映像を仕事にはしていないので、情報は文章で扱う。だから、当初からhtml形式は文章閲覧システムとならざるを得なかったのである。そこに徐々に図表を組み込む形で進化した。それには、パソコンの処理能力や速さや記憶容量の問題もあった。それらが発達するにしたがい、徐々にブラウザの技術も進歩したことからわかるだろう。
そのせいで、冒頭に書いたように、”予想外”の現象が起きたのである。つまり、後からインタ−ネット世界に入って来た、ごく一般人たちも「文章ワールド」に自ずと組み込まれたのである。文章を読めない限り、インターネットを使うことができないということである。これは、理論物理学者は世界でももっとも高尚な人種にランクされるから、文盲などいないし、ユダヤ系などでは数カ国語は平気で読み書き話せるという世界である。だから、ブラウザ機能には文章だけで十分だったわけである。そういう世界に一般人が組み込まれたのである。
その結果、インターネットという新しい世界に入るに従って、パソコンで文章を読み書きするという習慣が一般の人にも広がったのである。
私の印象では、それがいくつかの弊害を生んでしまったということである。
(あ)まず、「頭に浮かんだままに書く」
我々理論物理学者や学者など、いわゆる、博士課程まで10年近く高等教育を受けた人間は、曲がりなりにも文章の書き方や作り方、そして読み方というもののトレーニングを受けて来た。だから、文章というものにはかなりなじみがある。
ところが、一般人はそうではない。「口から先に生まれた」という言葉があるかのように、「頭に浮かんだままに書く」のである。これは、学者世界では、愚の愚。トウシロウの代名詞である。言い換えれば、これはやってはいけないことの代名詞なのである。俗に、推敲ということばがあるように、我々が科学論文として公表する前には、同じ論文を少なくとも20回程度は書き直すのである。1、2回ではない。完璧になるまでに何度も何度も読み直し、書き直すのである。それでもまだ間違いは残る。それが本質的な間違いでなければ、まあいいやというようなものなのである。
この辺のことが高校大学までの教育にはないことなのである。
(い)一般人は時系列に疎い。
その結果、一般人の文章を読む力に1つの間違った傾向が生まれるのである。それは、1つの文章に、つまり同じ記事にかかれた文章は、全部、”その時に書いた”、言い方を変えれば、”その時にそう理解した”と錯覚するのである。
何を言っているかというと、私が今ここで書いている文章をあなたが今読んでいるとする。すると、これを読み終わった瞬間から、あなたは私がここに書いた内容は私が今考えて今思いついて書いたと思うのである。さらに極端の者は、「私が今はじめてそう考えた」と錯覚するのである。
より具体的に説明すれば、こうである。
私があるものを見たとする。そしてその映像をここへ張る。そして、その下に「この野郎、とっととうせろ!」と書き加えたとしよう。
すると、それを見た人、読んだ人の大半は、ほとんど全ては、「私が瞬間湯沸かし器だ」と思うことだろう。しかし、それは間違いだ。なぜなら、私がその映像を見た時と、その映像を使って記事を書いた時がまったく異なるからである。
私はこういう現象を「時系列の縮重」と呼ぶ。ことなる時空間で見たことが、1つの文章の中に組み込まれた時、人は注意して読まないと、それぞれの時系列が同時刻に重なってしまうということである。こういう認識の人には「現在」しか存在しないということである。
科学者は、1つの論文を書く時に、書いている今の瞬間と、そこにまとめるデータや事実をいつ何時に得た物なのかということをいつも気にかける。だから、「データや主張や事実に、その時を記す」。そうしないと、その主張がいつ得られたものなのか分からないからである。
科学者と一般に知られている人に数学者(や法律家)という人種がいるが、彼らも私からすると、かなりこの点は一般人に近い認識を取るように見える。それにはそれなりの理由がある。というのは、数学は数学証明で成り立つ。数学の証明というものは、基本的には、その論文の最後で厳密に証明されたら終わりというスタイルのものである。その証明論文の中の一カ所においても間違いがあれば、その全体の論文はお釈迦である。したがって、数学証明には「今」しかないからである。
この習慣に慣れすぎると、数学者は人の言っていることや、人が書いたものをみた時にも同じような認識で処理するようになるのである。そのため、他人が何かをいうと、それを今の時点や段階で誤りを見つけ、「あんたの意見はナンセンスだよ」というような論法を得易いのである。
しかしながら、人の認識というものは、時系列のまったく異なる事実の羅列からできている。したがって、今話した内容がすべて今の時点で一貫している必要はないのである。
子供の頃に学んだ事実、学生時代に経験した事実、そして昨日読んだ本による事実、こういうものの組み合わせとして、我々は文章を書き、話を作っているのである。
(う)では、どうやって文章に時系列を入れるか?
といえば、やはりその1文1文にその時点を付け加えるべきなのである。私個人はできる限りそうして書いているというわけである。だから、「これは最近知ったことだが」とか、「私が留学した1980年代後半のアメリカでは」とか、必ず時点を書き加えるのである。
そうしたことは一見すれば無意味なようにもたいしたことがないようにも見えるかもしれないが、非常に重要なことなのである。なぜなら、時代は進み、社会は時代とともに変わる。真実すら時とともに書き換えられるからである。昔私がそう考えたことと、今私が考えることは違っている。数学者の観点で言えば、それは私が矛盾したということなのだろうか?そうではない。私自身が変化したこと、進歩したこと、成長したことを意味するわけである。
だれかがある時点で1つのことを言ったり、書いたりしたとしよう。もしその人が明日その意見と正反対のことを書いたり言ったとしよう。それはその人物の矛盾だろうか? 誤りと見るべきだろうか? 必ずしもそうではないはずである。やはり全体の文脈から判断すべきだろうということになる。
(え)「90%の真実に10%のウソがある」
最近、いわゆる陰謀論や陰謀暴露の世界で、人が書いた内容に「その人の話は100%の真実ではない。」「90%の真実に10%のウソがある。」というような論法で、瞬間的に排除しようとする人、言い換えれば、そういう論調で人の話を無価値にできると信じている人がいる。
もうここまで読んで来た人なら分かるだろうが、それはウソである。間違いだ。
我々が書く物に100%の真実のもなど最初から存在しない。だから、数学者はそれを保証しようとして、厳密証明に挑戦するのである。物理学者は科学実験や科学理論を作ってそれを証明しようと試みる。
例えば、私が自分自身の理解や認識として、ある昔の事実を今も真実だと思ってそれを文章に書き込んだとする。それ以外の内容は、今の時点で確実に正しいとだれもが知っているものを書き込んだとする。この場合、私のこの文章には「90%の真実に10%のウソがある」ことになるが、これは「私が100%の嘘つきだ」ということになるだろうか?この場合には、私個人は、全部100%の真実だと信じて書いたわけである。
しかしながら、冒頭であげたように、インターネット時代になり、あまり文章の教育を受けて来ていない一般人が入り込むようになって、こういうことがかなりあいまいになったのである。今では多くの場合、こういうふうに受け取る。「私の話はデマだ」、「あいつの話には10%のウソがある」、「あの人の話は裏が取れていない」などである。
一言で言えば、こういう受け取り方や認識の仕方は錯覚である。「時系列の縮重」である。
(お)「90%の真実に10%のウソがある」(本当の意味)
では、我々陰謀論の世界に詳しい人間がいう、「90%の真実に10%のウソがある」とはどういう意味か? というと、それは「最初に90%の部分で、100%の真実やだれもが疑い得ない良い話をしておいて、最後の最後の5〜10%の部分で、自分の主張を仕込む」という手法のことである。これが、俗にいう「洗脳のいろはのい」である。
大麦若葉のコマーシャルなどテレビマスゴミのコマーシャルで頻繁に使われているものである。
まず最初に有名人やヒーロー/ヒロインの「良い話」ではじめて、人々をその話に引き込む。そして、なるほどそうか、という状況に来たところで、実はこの人は「この商品」をずっと使っていたからです、と10%のウソを仕込む。これである。
もし私の文章やだれかの文章がこのようなものであれば、一種の洗脳である。そのアイデアや商品など何でも良いが、それを信じさせるための洗脳ということになる。自分の観点や自分の世界観の他人への押しつけということになる。
こういう場合に、我々は「90%の真実に10%のウソがある」という簡単な言い方をするのだが、ちまたではすでにまったく異なる意味で使われるようになったということである。
まとめとして、我々の世界には完璧な人はいない。この世の全てをご存知の人もいない。この世界を100%の真実を知っているものもいない。我々はこの世界をすべてにおいて理解も体験もできない。実に制限された存在である。アセンションしようが、5次元へ行こうが、神とつながろうが、エイリアンとチャネリングしようが同じことである。我々自体にどうしても制限がつく。その制限を持つ人間が話、書くものには、物理的な制限(紙数とか)、時間的な制限(講演時間とか)かならず制限がつく。したがって、100%すべて真実を捕らえてそれを記述するなどという芸当はだれにもできないのである。しかしながら、99%のウソの中に1%の真実を見出すことができる場合も存在する。それゆえ、「90%の真実に10%のウソがある」というトウシロウの認識法によって、せっかく良いところまで真実を追求してきているのに、それのチャンスを逃してしまうというような、やり方はあまりお勧めできないというのが、私の個人的印象というわけですナ。
分かったか、この野郎!
by Kikidoblog | 2012-05-29 11:17 | アイデア・雑多