イーストウッドの「グラン・トリノ」:私の思いを代弁する映画ですナ。
夕陽のガンマン ~ 荒野の用心棒テーマ / さすらいの口笛 サントラ
みなさん、こんにちは。
私がアメリカのユタ大学の大学院生になったのは、1986年のことだった。行ってまもなく1985年を描いた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
Back To The Future Part I Original Theatrical Trailerがクランクアップし、映画館で見たことを覚えている。そして3年後の1989年に「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」
Back to the Future 2 Trailer (original)をユタで見て、そして帰国前に「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」
Back to the Future 3 [trailer] (1990)を運良く見てから帰国。まさに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」世代である。
この最後のパート3の決闘シーンは、「夕陽のガンマン」のクリント・イーストウッドの有名なシーンからパクったパロディらしいが、スピルバーグ映画のスパイスの1つとなっている。アメリカ人は子供の頃から有名な映画をみてそのシーンを覚えているから、いざという時にそういうシーンが役に立つといいたいわけだ。
さて、このクリント・イーストウッドも俳優から俳優兼監督となり、これを最後に俳優としての一種の遺作とし、その後は監督業のみに精を出すといわしめた作品がどうやら「グラン・トリノ」というもののようである。たまたまテレビで観たのだが、実に興味深い映画であった。
グラントリノとは、かつての高級スポーツカー
グラントリノであるらしい。フォードの1974年製であるという。
クリント・イーストウッド扮する主人公のコワレフスキーという老人は、デトロイトのフォードの工場でずっと働き、子供も2人育て上げ、そこを定年退職してからずっと静かに余生を送っていた。ところが、アメリカの自動車産業が衰退。そこへ日本車など外国企業の自動車会社が入るようになった。すると、どんどんデトロイトにアジア人が住着くようになり、自分の家のお隣にはフン族一家が住むようになった。
ある時、同じアジア人の中でもよりマイナリティーのフン族出身の隣の姉弟の弟は、アジア青年ギャングにずっといじめを受け続けて来たのだが、ある時ギャングに隣の家のグラントリノを盗んでこいと指令を受け、コワレフスキーの家に泥棒に入る。それを夕陽のガンマン
Gran Torino - Get Off My Lawn _HDのような感じで追い払う。
ここからコワレフスキー老人とフン族一家の交流が始まって行くのだが、この過程で、「男とはどうあるべきか」、「女の扱いはこうしろ」とか、「タフガイの会話を覚えろ」とか、「職を取るときは絶対にノーとつく言葉は吐くな」とか、白人男のしきたりというか、WASP根性を徹底的にその弟へ叩き込む。そうして無職の引きこもりのフン族青年に職を斡旋するのだが、見事成功し、仕事を得るようになる。初めてガールフレンドを得たフン族青年には自慢のグラントリノを貸してやる。「ドライブに誘え」。
しかしそんな頃、老人はいつしか吐血する持病を持ち、病院で検査すると老い先長くないことを知る。
そんなころ、フン族青年が町のアジアギャングと遭遇し、日本の学校の「いじめ」と同じような手口で煙草でほおに「根性焼き」をされてしまう。これに怒り心頭になった老人は相手のいとこを叩きのめし報復し、二度と手を出さないように警告する。
すると、今度はギャングが機関銃を持ってフン家族の家を銃弾で夜襲する。姿の見えなくなった姉は集団リンチの上、集団レイプされて無惨な姿で帰宅する。
これに心底憤慨した老人は、かつて朝鮮戦争で戦った時のことを思いだし、その時に得た勲章をフン族青年につけてやる。「これはお前にやる」。死にいく決心をしたのである。
そして、老人は敵地であるギャングのたまり場の家に向う。そこで、いつものように胸に銃を潜ませているようなそぶりでギャング連中を挑発する。まさにこのシーンは「夕陽のガンマン」そのままの緊張感である。
1階に何人、2階に何人、3階に何人とタフガイの会話を続けながら計算する。そして煙草をくゆらせながら、指の鉄炮で「バーン」、「バーン」、また一人「バーン」と殺して行く。そうやって相手のギャングに緊張を高める。本当は殺したいのはやまやまだが、そうはしないんだぞという内の声とともに。
いつしか周りに近所の人たちの目が集まる。そして、最後に口に食わえた煙草に火をつけようとしながら、胸に手を入れると、。。。。あとはこれ。
遺言状には、グラントリノはフン族青年タオにやるとあり、遺族も唖然。
とまあ、こんな感じの映画であった。
これをみて、今や朝鮮人いじめの代名詞の「根性焼き」や集団リンチや集団レイプも世界的になってしまったナということである。すでにクリント・イーストウッド映画にも取り上げられるほどである。この地球上のWASPを代表するのがコワレフスキー老人。かつて我々が治めてきたこの町も無知無学無教養で無法地帯へと化したということへの皮肉である。法と秩序を重んじるアメリカ白人にとって「黄禍」意外の何ものでもないということである。
この意味では、これは単なる映画ではない。今現在尖閣諸島で起きていることも、根底にはこういう感情、こういう問題が潜んでいるのである。
実は米軍のメンタリティーはまさにこのコワレフスキー老人と同じだろうと私は見ている。アーミテージの「ショウ・ザ・フラッグ」(根性を見せろ)発言。まさに「お前には玉がついているのか」というコワレフスキーと同じである。自宅や近所に押し入る暴漢に対しては銃で応戦して追い出す。そしてそれを「当然のことをしたまでさ」という。尖閣諸島に共産主義国の船が侵入する。すると米航空母艦を派遣し、追い出そうとする。おそらく米人たちは「当然のことをしただけさ」というにちがいない。
まあ、そういうものなんですナ。
いずれにせよ、西洋白人、特にヤンキー魂、カーボーイ魂というものを正確に理解しておかないと、逆に彼らが大和魂を理解しておかないと分からないというように、我々日本人も米人のメンタリティーはいつになっても理解不能となるわけである。
実は国際政治でいまズレが生じているのは、この老人とフン族青年のずれと同じようなものだと私は感じているというわけですナ。その意味でも意外に良作品、深い作品であるといえる。必見の余地有り。
by kikidoblog | 2012-10-03 12:57 | アイデア・雑多