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「アセンション・ビジネス」:俺でもできるゾ!「キムチジャン! キムチ星から」

みなさん、こんにちは。

セラマトジャリン! 興味深いニュースを持ってきました。
ドラッツォ! 戻ってきました!
マシューです。この宇宙領域にいるすべての魂たちからこころからのご挨拶をします。
ナマステ! やって参りました。
アメンステップ! 神の御心をお伝えします。
ナムアミダブツ! こころよりお悔やみ致します。
ナンミョーホレンゲキョ! 仏さまの御心をお伝えします。
ハラショー! ロシアより愛を込めて。

まあ、何でも良いが、どうやらいわゆる「アセンション・ビジネス」の人々は、こんなフレーズとそれらしい偽写真で信者の心をつかむらしい。しかしいったいいつまでこんなたわけた商売を続けるのだろうか? よほど暇なのに違いない。

私がいつも疑問に思っていることは、その昔にもこういった不届きものは西洋世界では多発したらしいが、本物はいつもこういう便乗組の影に隠されてしまうということである。

かつて「金星人の空飛ぶ円盤に乗せられて、浦島太郎のように金星に行った」というジョージ・アダムスキーは、そう証言したらしい。
UFOの真相 第2話より

■ 心霊とは関係なし

「研究所では、『だれかがそう言った』『それを証明した』というだけで無視するようなことはしない。今アメリカにはそのような団体があり、研究装置が必要なために多くの金を使っている。それで私たちにはサービスがあるのだが、それは人々にも向けられている。 多くの混乱をまき散らすようなことはしないのだ。そしていかなる宗教とも関係は持っていない。

この数年間、霊媒、心霊家などが、メッセージと称するものを流しているけれども、これは関係ない。情報によって益を得ようとする人たちは、霊媒を通じてメッセージを流すようなグループの声に耳を傾けようともしない。霊媒は神秘性を望むが、それが仕事なのだ。しかし人々はこの声に耳を傾けてはいけない。霊媒のメッセージなるものに、これまで大きなトラブルがあったのだ。

(訳注:アダムスキー存命当時、多数の心霊的なUFO研究団体が存在し、霊媒を通じて宇宙人のメッセージなるものを流していた。ここはそのことに言及したもの)

今も昔も同じような商売が続いているということである。

実際、チャネラーだか霊媒だか知らないが、自称そういう触れ込みでメッセージを送る人のメッセージには、常に我々が知ることと同じ程度の情報しかないのである。今日起こったことは今日のメッセージに書かれ、明日起こることは明日以降になればメッセージに書かれる。けっして我々が知ることのできない未知の情報というものはない。そこがポイントである。だから普通の人が書いていることは明らかである。(ところが、インサイダーによるリーク情報は全く異なる。我々には想像もできない豊富な情報が出て来るのである。)

天界にいるはずのマシュー君はどうして起こったことや我々が目撃して知っていることや最近出版された本の内容だけでなく、ずっと先のことを言わないのか、先のことと言えば、我々でもさもありなんとおおよそ想像できるようなことしかない。

こんなメッセージなら私でも作って商売できる。
キムチジャン! キムチ星からやってまいりました。ついにキムチミンス党が解散になりました。あなた方キムチNWOの悪政に虐げられて来た民衆にとって実に記念すべきときがやってきました。最近、新しい体制に関する法的作業および合意への急激な動きが起こり、新しい現実を具現化する最終的なゴーサインを天界のアドバイザーたちに求めるためのお膳立てが整いました。長きにわたり皆さんを支配してきた奴らキムチNWOは、引き続き世界を大規模な経済、外交の破局へ導こうとしています。我々にとって、この避けがたい事態は、我々が間に入る重要性が増した、その時が来たという確かな兆候です。そのため、我々は連絡役チームに、メルトダウンを防ぐために我々が世界の状況に広範囲に関わらざるを得なくなる、それまでにどれだけ時間が残っているか、地球側の仲間に伝えるように指示を出しました。政府の形態および経済金融制度の特質こそが、皆さんを抑圧してきた困難の核心であり、明らかにその分野を大急ぎでアップグレードする必要があります。

いやはや、「90%はもっともらしいことを言って、10%で嘘を言う」典型というものだろう。

ところで、この言い方も今では間違って使われるようになった。いつしかこのフレーズは巧妙に「90%は正しいことを言って、10%の嘘がある」と言われるようになってしまったのである。つまり、「大半は正しいことを言うが、その中にごく一部の嘘をつく」という意味の代表となってしまったのである。

物事は何でもそうなのだが、あまりに一般人が入って来ると、「悪貨は良貨を駆逐する」の例えの通りのことが起こる。

この問題でもそうで、もともと「90%は正しいことを言って、10%の嘘がある」あるいは「99%は正しいことを言って、1%の嘘がある」という意味は、カルト宗教などが信者を獲得する場合や商業主義のコマーシャルなどでその製品を使用してうまくいったというような場合に「最初の90〜99%で相手を信用させて、残りの1〜10%のところで大どんでん返しをしてそれまでの主張と正反対のことを信じ込ませる」というテクニックのことを意味したのである。

だから、この手口は「青汁」だとか「ダイエット商法」やら「ハゲ商法」など、最初にずっと良いことばかり並べておいて、最後にその成功とは本来あまり関係ないその商品を売るための個別の話にすり替えるというような手法としていまでも毎日見ることができるものなのである。

霊感商法、カルト商法なんでもそうである。最初にすばらしいことやだれもが否定できないことを言って相手を完全に信じ込ませる。そして信じ切った一種の催眠状態に陥ったところで、一気に自分のサイドへ引き込むというやり方のことである。

ところが、あまり科学の世界(つまり、科学的な論理や討論や科学的ディベートなどの訓練を受ける世界)を知らない一般の人たちがなまじっか知ったかぶりを発揮して「陰謀論」とか「陰謀暴露論」の世界に入って来るようになると、そういうことも最初の意味からかなりずれたものになってしまったようである。

そして得意になって「あの人の論説や主張には99%の正しさの他に1%のウソがある。だから信用してはならない」と書くというようになったのである。

しかし考えればすぐ分かることがだが、この世界の誰一人として物事の1つ1つを100%の真実を語ることができるほどなんでもかんでも知っているという人間はいない。存在し得ない。

だから、だれかが書いたことや主張したことは「100%真実だけが書かれたものである」ということはあり得ないのである。仮に昨日までは100%正しかったとしても、明日にはそれが真実ではなくなるというようなことが多々あるからである。数十年前には煙草は身体にいいものとされた、しかし今は逆である。正しさというものは時代によっても変わるものだからである。

なぜなら「正しさ」というものは解釈によるものだからである。解釈には根拠が必要である。だからその根拠がいつか揃えば、それによって結論である正しさが変わるのである。ゲーム理論の数学でいえば、「ナッシュ均衡」の変化というものである。このマスターが「これから正義の話をしよう」のおじさんである。

また、書かれた文章というものは、実際には1文1文その内容に込められた時空間が異なる。この文は10年前のこと、次の文は今現在、その次の文は未来の予測、そしてまた過去のことというように、文章には多くのことなる時空間の出来事が同じ場所に列挙されているものである。だから、ある主張を文章に書けば、その中のどれかが不十分であったり、根拠不足になったり、時には間違いになってしまったりするのである。

だから最初に言った「あの人の主張には90%の真実があるが、10%のウソがある。だから信じるに足らない。」というような主張が全くのナンセンスであることがわかるだろう。なぜなら、今述べたように、あらゆる人の文章は不完全なものにすぎないからである。文章を「正しいか否か」で見てはいけないということをこれは意味しているのである。

では、なぜ最初のものとこれが違うか? というと、「ウソの入る場所」が違うのである。

「90%はもっともらしいことを言って、10%で嘘を言う」という場合は、実は次のような意味で言っているわけだ。
「”最初の”90%はもっともらしいことを言って、”最後の”10%で嘘を言う」
「”最初の”99%はもっともらしいことを言って、”最後の”1%で嘘を言う」

たしかに数字上の統計的にみれば、この場合もトータルで90%の事実と10%のウソを含んだ文章になる。しかし、どこでも中に適当に10%の間違いがあるという人の話と、最初にいつも誰もが疑えないもっともな話が来て最後の10%でウソが来るという話とはまったく意味も意図も異なるのである。

最初のものは、話の”精度”の問題にすぎず、ウソがたくさんになればなるほどいい加減な話になるだけのことだが、後者のものは、明らかに「洗脳」のテクニックだからである。後者の場合は、最初の90%で聞き手を信じ込ませ、最後にごり押しして自分の有利に事を運ぶ。そういう悪質な手法なのである。

まあ、分かっている人には当たり前の話かもしれないが、相手の話がちょっとでもあやふやな部分があれば、信じないという風習は間違っているのである。もったいないのである。だれしも一長一短があり、誰の話にも良いものもあればダメなものもある。

ならば、最初の「チャネラーメッセージ」の目的とは何か? 話の内容は至る所でもっともらしくまたいい加減、しかし最後にはこれといった結論もない。必ず最後には読者への約束が来る。しかしその約束はいつも破られる。するとそれは読者が悪いからだという反省を促す。その繰り返し。

人心を惑わすとはこういうことである。決してそういうもの(偽物)に惑わされてはいけないヨ。俺はそう思うのだが。

もちろん、「信じる信じないはアナタ次第です」ヨ。

  by Kikidoblog | 2012-11-15 16:48 | コンスピラシー

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