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「日本人特有のメンタリティー」と「虎の威をかる狐」:やはり「言わぬが花」か?

「 日本人は間違いを見つけてもなかなか変えようとしないところがある。 私はどうしてもこのことが我慢できない。外国人にとって誤りがあったらすぐに別の方法を試みる。その問題を明日、明後日、来週に持ち越すことはない。 」
「 私の数少ない経験では、 日本人はほんの少しのことを覚えると、もうすべてを理解したような気になってしまうことがある。サッカーは常に学習を続けていなければうまくならない。 絶対に立ち止まることは許されない。私はそれは人生に似ていると思う。」
–––ドゥンガ
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セレソンより


みなさん、こんにちは。

今回は、私が以前からそうではないかなあと思って来たことの個人的印象のメモである。普通の人には無関係だからスルーパスを。

––––––––––

上の言葉は、元ブラジル代表主将そして先のW杯南ア大会のブラジル代表監督だった闘将ドゥンガ、彼が日本のジュビロ磐田に来て、その年1998年の夏にひかえたワールドカップフランス大会直前で出版した本(おそらくNHKの取材番組を再編集したもの)の中で述べた言葉である。

その中で、彼は彼が感じた「日本人特有のメンタリティー」というものを見事なまでに分析したのである。ドゥンガは、日本に来るまでにはすでにブラジル、イタリアセリエA、ドイツブンデスリーガなどで活躍していた。そして、ワールドカップイタリア大会では煮え湯を飲まされていた。そしてワールドカップアメリカ大会で優勝、そして連覇を目指している最中にあった。結果はジダンにやられて準優勝に終わった。

私はドゥンガの「日本人特有のメンタリティー」というのは、実に良く解るのである。

私自身、小学校から中学(2年まで)は野球、そして、中(2年から)高(3年間)、大学(2年まで)とサッカーづけの毎日を経験し、その後も個人的にはずっとサッカーを練習して来た。だから、スポーツの世界、サッカーにおいて、ドゥンガのいうメンタリティーを生きて来た。

その後、大学後半から大学院と物理学に転向してからも、日本の学者文化の中で生きて来た。そして企業文化の中も経験したから、このドゥンガのいうところの「日本人特有のメンタリティー」は大学でも企業でもどこにも見受けられる、日本人共通の性格であることはまず間違いないと確信して来たのである。
「勝てたと思うと油断してやられる」
「ちょっと知ると全部知ったつもりになる」
「ちょっと出来るようになると全部できたようなつもりになる」
「いつでも出来ると思ってやらない」
こういうものを言う。

だから、昔から
「勝つと思うな、思えば負けよ」「油断大敵」
「知ったかぶり」
「言うは易(やす)し行うは難し」
「過(あやま)ちて改むるにはばかることなかれ」
などの戒めの言葉もまた日本には多々残されているわけである。

私がこのブログやそれ以前のブログの時代から、いわゆる「陰謀論」、「陰謀暴露論」、「スピリチュアル系」の話も取り上げるようになった頃から、ずっとそういう話を読んでは刺激を受けて自分なりのサイトを立ち上げるようになった人々のものを眺めて来た(今から10数年前にこういうことを書くとあいつは精神病になったのかとか、おかしくなったとか、トンデモの人とか呼ばれ、誰も相手にされなくなるという時代であったのだ。だから相当に心して注意して書く必要のあった時代である。しかし今では相当の人々がこういう類いの話は常識化してしまったが)。

がしかし、そうやって観察してくると、やはりこの日本人特有のメンタリティーは生きているのである。

ある人が霊的な話題、スピリチュアルな話題に目覚め、だれかその筋の大家の話を読み始める。すると、すぐにいつしか自分はその大家になったかのように確信ある話を断定的におっぱじめる。

ある人が、世界の大富豪たちの陰謀話を読んでショックを受け、だれかその筋の大家や先駆者のサイトや本を読み始める。すると、すぐにいつしか自分は陰謀論の大家のような顔をして語り始める。

またある人は、UFOの話に興味を持ち、YouTubeサイトで有名な映像をいくつか見る。すると、いつしか自分はUFOの世界的権威のような気になって語り始める。

そして、それぞれの人たちが、各人各様に「もう自分がすべてを知り尽くしてしまったかのように断定的に語り始め、他人に意見する。そして他人をジャッジし始める」ようになる。

私はこういう人々を腐るほど見て来ている。総じて、この傾向は、最初に紹介したドゥンガのいうところの「日本人特有のメンタリティー」の発露と言えるだろう。

だからもちろん、政治家でもまったく同様である。昨日までその辺を普通にあるいていたごく普通の医者や弁護士やサラリーマンや主婦にすぎなかった人物が、だから、そういう時には、あまり物事を知らないごく普通の人であったものが、選挙に出て国会議員になり、1年、2年経つと、途端に人が変わったかのように、まるでこの世界の全てを知り尽くしたかのような顔をして語り始めるのである。非常に驚きである。

科学者もそうだ。若い学者が2、3論文を出版すると、もう世界の大家になったかのように高揚し、錯覚するのである。自分はまだまだです、というような学者は少ない。また今の科学者世界ではそんな謙譲の精神では職もとれないという過当競争の社会になってしまったからかもしれないが、この傾向は強烈である。(もちろん、この私自身昔の若い頃はそうだったのかもしれないがネ。)

一般に日本人は「謙虚さ」や「謙譲」の精神に美徳があると言われるが、どういうわけかこういう面においてはそういうことが吹っ飛ぶものが多いのである。

この意味でもっとも健全なのは、やはり元々武士道から派生した武道の世界や格闘技系スポーツの世界だろうと思う。吉田選手は、世界13連覇しても自分はまだまだです、と言っている。

私はシルバーバーチを読みました。
私はジョージ・アダムスキーの本を読みました。
私はデービッド・アイクの本を読みました。
かといって、昔の霊能者や円盤搭乗者やスピリチュアル覚醒者になった”つもり”になっては困る。自分はまだまだですと考えなくてはならないはずなのである。実際、何事も実現した経験がないからである。少なくともそういうふうに思うには、自分がその原著の人以上の経験を実際に積んでからのはずであろう。

しかしなかなかこのことが日本人社会ではあまり広まってはいないのである。まだ一般の共通認識の考えとはなっていないのである。

私が思うに、最悪なのは、翻訳者の場合である。ある本を翻訳していくうちに徐々に中身が解って来る、そうするうちに国内の一人者や代表格のように人から解説を頼まれる。講演依頼などが来る。お金も入るようになる。すると、自分はその本を翻訳しただけにも関わらず、さも自分がそれを書いたかのような顔をするようになってしまうのである。

昔は結構科学者にもこの手がいた。もちろん今もいる。これが「欧米と日本との文化ギャップを利用して生きる」というものである。しかしこれをやってはならないというのが、アカデミックな世界の大前提である。もちろん、一般人も同様である。

とまあ、大分長くなってしまったが、こういうことは、一言で言えば「国民性」である。ドゥンガのいう「日本人特有のメンタリティー」の発露なのである。

こういう人を見かけたら、思わず笑ってやろう。「虎(とら)の威(い)をかる狐(きつね)」ですナと。

いや、「言わぬが花」だったかナ?


おまけ:
ちなみに、私はこの「日本人特有のメンタリティー」は、古代に日本にやってきて、後に「お公家さん」になった朝鮮人ルーツだったのではないかと疑っている。

  by KiKidoblog | 2012-11-30 14:38 | スピリチュアル

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