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”完成”or ”未完成”、それが問題だ!:研究者の最後についての1考察

フルトヴェングラー シューベルト「未完成」D759 第1楽章


みなさん、こんにちは。

さて今回は私の実に個人的なメモである。普通の人には無関係だから無視、スルー、パスを。

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少年老い易く、学なり難し

とは、よく言ったものだ。まさしくその通りである。いつの時代にも成り立つ格言である。

相撲でも押し1つに3年かかると言われるように、我々人間が1つの芸や技を身につけるにも非常に長い時間がかかる。学問も同様である。物理学でもまったくその通りなのである。

この意味では、我々人の一生は短すぎるのである。

そこで、私は人間の寿命を1000年くらいにする方法は無いか。もしあれば、多少は人類はもっとうまく進歩できるに違いないと思う。

アインシュタインも70数歳で死ぬこと無く、あと900年ほど生きていたら、すべてを一人で完成できたはずである。シューベルトも「未完成」で人生を終えることもなく、すべて完成できたに違いないと。

寿命を今の10倍に伸ばせたとしても、ニビルの1年3600年にはほど遠い。さらに3・6倍しなければならない。ニビルで成人に達するためには、360倍しなければならない。

なぜ我々が未完成に終わるか?
なぜ人類が未完成、未成熟なのか?
といえば、すべてが中途半端に終わってしまうからに違いない。

私はそう見ている。

物理学者にしても、学生から教授になり、アクティブに実質上の研究者生活に集中できる期間はせいぜい20〜30年にすぎない。あとは惰性である。同じことの繰り返しにすぎない。

だから、俗に、天才とはたった1つのことをした人間。「天才は1創造100盗作だ」という人までいる。

もし天才という最上級の人間でしか人生でたった1つしかなし得ないとすれば、実に悲しい生物だと私は考える。少なくとも、100くらいは創造してもらいたい。さもなくば、我々人類はいつになっても空高く、天まで、宇宙の果てまで旅する日は来ないに違いない。

さて、かたやこういう悲しい制限を持つ我々人類、その中のある学者が、自分の終末を迎える時、はたしてどんな有様がもっともカッコいいだろうか、と私は最近時々考えるのである。

シューベルトのようにどこかにまだ未完の大作の一部を残してこの世を去るべきか?
あるいは、アインシュタインのように希有壮大なビジョンを残して立ち去るべきか?
あるいは、何も残さず人知れずひっそりと読み人知れずにこの世を去るべきか?
あるいは、岡潔のように死後に膨大な量の著作が残されていたというふうに去るべきか?

はたして学者の最後とはどうあるべきか?

最近、ときどきこういうことをふと考えるのである。

これに対して私個人のもっともおもしろそうだなというものは、こうである。

その学者の書斎に残された資料の中に、実はこの世界のある問題の解決策が完成されている。そしてそれがすでに完璧な本として残されている。いったいいつ何時そんな研究を行ったのか?

そう思わせられるような素晴らしい業績がそこに完成されている。しかもすでに何年も何年も前に出来ている。にもかかわらず、彼はどこにも公表もしなかった。

どうだろうか? これが一番かっこ良くねーかってネ。

たまにそういうことを考えるのである。

もっともこの場合だと残された遺族がその価値を分からず、そのまま何百年もお蔵入り。あるいは、そのままゴミ回収車に回される。あるいは、暖炉の薪代わりという可能性もある。だから、何がしかの遺書は残す必要はあるに違いない。

私のように、すでに人生も中盤から後半に差し掛かり、しかも特に大学職を得るまでもなくなった学者の場合には、海外の研究雑誌に自分の能力をひけらかし、職をとる必要も無い。だから、論文や書籍を作る場合には、その仕事に後世に残す価値があるからということになる。

しかしながら、物事には必ず善悪がある。仮にそれが知られると、科学は必ず善にも悪にも使われるという可能性がある場合であれば、むしろ公表しないほうがいいということもあり得るわけである。

とまあ、そんなわけで、私は最近はあまり急いで公表する必要もなく、ただ一人で知っていれば良いのだ、という考えにとらわれているのである。

完成の未完成、未完成の完成

はたしてどちらが面白いだろうか?

  by KiKidoblog | 2012-12-11 11:19 | アイデア・雑多

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