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ピッチの上ではピッチのことに集中:サンタさんとアセンション話は何か似ているネ!?

マハトマ・ガンジーの名言集

みなさん、こんにちは。

これは私個人の印象だから、興味ない人はスルーを。

−−−−−−−−−

私が幼少期の頃はサンタクロースが子供たちにプレゼントをくれるという話はこの日本ではまだなかったようで、私が幼少期にサンタクロースのプレゼントをもらったという記憶がない。もっとも我が家はまだ非常に貧しく、そんな余裕がまったくなかったからにちがいない。

私の両親はまだ戦後のどさくさに家業から独立したばかりで、自分の事業を始めたばかりだったようで、赤ん坊のためのミルクを買う金もなかった。そして私は重湯をミルク代わりにして育てられたというからである。このことは、私が大分大きくなってから聞いたことだ。

だから、私がサンタクロースのプレゼントというものがあると知ったのは、かなり大きく成長してからだから、子供ながらに他の子供たちが
「サンタさんのプレゼントをもらった」
というような話を聞くと、どことなく違和感を感じたものである。
「へー、そうだったの?」
という感じで、
「こいつ、本当にそんなこと思っているのか?」
という一種の疑念であった。

その後、そういった彼ら自身が
「実はあのサンタさんは、自分のお父さんだった」
とか分かるようになるにつれ、誰しもが
「サンタクロースなんていない。あれはおとぎ話の一種で、大人たちが子供のためにやってくれていることなんだ」
とそれなりに理解し、中高生になり、そして成人を遂げていった。

私の個人的印象では、いわゆる「アセンション」話もこのサンタクロースファンタジーの「大人版」を聞いているように聞こえるのである。

サンタクロース神話を馬鹿にする気はさらさらないが、同様に、アセンション話を馬鹿にする気もさらさらない。しかし、どことなく違和感を感じるというのが私の受ける印象なのである。

このアセンション神話をどうとらえるか? もうすでに勝手にいっちゃっている人々は,「アセンション=死後の世界」とどんどんエスカレートしているようである。仮に「アセンション=死」であったにせよ、どうであれ、もし仮にこれが正しいとしてみよう。

人は死んでアセンションする。生まれ変わり(リインカーネーション)は存在するし、死後の世界も存在するものと、仮定してみよう。我々の魂は永遠である。それが生まれ変わるということが真実だと仮定してみよう。

仮にそれが事実であったとしても、私には「アセンションを学べ」とか、「死後の世界を想像してみよう」とか、「死後に何をすべきか考えよう」というような響きの発想には違和感を感じるのである。

生きているうちに死んだ後のことを考える。

やはりこれは変だ。仮に死ねば死後の世界に行くにせよ、やはり生きているうちは生きているうちにしかできないことをすべきであるということになる。

かつて、量子力学を発見したニールス・ボーア博士は非常にドライな考え方をした。正確には思いだせないが、確かこんなふうなことを言った。
「死後の世界があるにせよ、死は人生の一部ではない。我々は生きている。したがって、我々は今人生の最中にある。ゆえに、死後を考えるのは無意味である。」
ひょっとしたらヴィトゲンシュタインの言葉だったかもしれないが、だれかがこんなことを言っていた(ことは確かだ)。

さて、このことを私の言葉で言い直してみる。私は人生と死後の世界をサッカー選手のピッチとその外に例える。サッカー選手は、アセンション系の人のいう魂のようなものだとする。だから、サッカー選手がレギュラーとしてピッチ(=グランド)に立って90分間プレーをすること、これが人生であるとしよう。試合が終わることが1つの人生を終えることだとしよう。

そうすると、サッカー選手が何度も何度も新しい試合に挑むこと、これがその度に生まれ変わって別の新しい人生を生きることに対応するとしよう。サッカー選手は魂を表しているから、何度もピッチである人生に生まれ変わる。サッカー選手(=1つの魂)は、そうやって何度も試合を重ねながら学びを深めて行くと考えよう。

さて、私の経験では、サッカー選手、すなわち現実のサッカー選手に2タイプがあることを知っている。1つのタイプは、ピッチの上ではピッチの上のことだけに集中するタイプ。もう1つは、ピッチの上ではピッチの外のことばかり考えるタイプ。

前者は、ピッチの外ではピッチの外で休息したり、遊んだり、その世界のことに集中したり、次の試合のためにピッチの外でできることに集中する。ところが、後者は、逆にピッチの外に出ると、さっきの試合のことばかり、ピッチの上でこうすればよかったとか、こうすべきだったとか、そんなことばかりして、ピッチの外の世界のことを何もしない。ピッチの外でしか出来ないことをしない。

もちろん、この例は極端な例だが、大方この2つに入るのである。

さて、この2タイプの選手のうちどちらがうまくなるか?

というと、もちろん、だれもが予想するように、前者である。ピッチの上ではピッチの上のゲームに集中する。そしてそこから何かを学ぼうとする。そして試合が終わり、ピッチを去れば、さっきの試合のことは忘れて気持ちを切り替え、反省すべきこと学ぶべきことを今度はできるように、ピッチの外でしかできないことを行う。つまり、ピッチの中ではピッチの上で学び,ピッチの外ではピッチの外で学ぶのである。

ところが、もう1つのタイプはそれができないから、どこにいてもそこでしかできないということを学ぶことがない。それゆえ、成長の機会を逸してしまい、大選手に育たないのである。

よくこんな高校生を見かけるだろう。

練習中になると、今度のテストのことや彼女のことを話しながらパス練習。いつも雑談しながら練習する。しかし、そういう奴に限って、今度は授業中になるとしっかり授業を聴き、勉強するわけでもなく、サッカーの話をしたり、午後の部活の話に夢中になる。こういうやつはどっちもおろそかになり、良い選手にも育たないし、勉強もできない。そんなタイプになることが多い。まあ、私がこれまで観察したり出会ったこういった連中はほとんどがどちらも大成しなかった。

どうも私には、生きているうちに死後の世界がどうのこうの、今自分の人生があるうちに、アセンションがどうのこうのという輩と、こういった不埒なサッカー選手の姿が重なって見えるのである。

生きているうちには生きているうちにしかできないことをする。これでいい。これしかないと私は思うのである。死後のことは死後に考えれば良いわけである。アセンションのことはアセンションした後に考えれば良いわけである。

マハトマガンジーは、
明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。
と言ったが、多くはこのガンジーがインド人だったということを忘れている。

インド人こそ、仏教の始祖であり、同時にリインカーネーション思想(生まれ変わり思想)の発祥の地である。だから、ガンジーが死後の世界や生まれ変わりを知らなかったはずがないのである。なぜならそういうことを信じる文化思想圏に生きていたからである。

にもかかわらず、ガンジーはそう言った。つまり、生きているうちには生きている時にしかできないことをやれと言ったというわけである。

サッカー選手がピッチの上ではピッチの上のことに集中しなければ、試合に勝てないように、我々もまた生きているうちは生きているうちにしなければならないことに集中する。生きているうちは生きているうちにしか出来ないことに全力を尽くす。それでいいんじゃね〜〜?というわけですナ。

これが、ボーアの考えに対する私流の解釈である。

まあ、ついでにつけくわえると、言葉は悪いが、生きているうちにアセンション話を弄する人は、「死に損ないのたわ言」にすぎない、というわけですナ。

(別にアセンションや死後の世界を否定しているわけではないということは、分かるよナ。分からなきゃ−しょうがねーナア〜〜。)

  by KiKidoblog | 2012-12-23 23:10 | スピリチュアル

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