「ふり向くな君は美しい!」:「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛」
ふり向くな君は美しい
歌手:ザ・バーズ
作詞:阿久悠
作曲:三木たかし
1。
うつ向くなよ ふり向くなよ [うつ向くなよ ふり向くなよ]
君は [君は] 美しい [美しい]
戦いに敗れても 君は美しい
今ここに青春を刻んだと
グランドの土を手に取れば
だれも涙を笑わないだろう
だれも拍手を惜しまないだろう
また遇おう [また遇おう] いつの日か [いつの日か]
また遇おう [また遇おう] いつの日か [いつの日か]
君のその顔を [その顔を] 忘れない
2。
うつ向くなよ ふり向くなよ [うつ向くなよ ふり向くなよ]
君は [君は] 美しい [美しい]
くやしさにふるえても 君は美しい
ただ一度めぐりくる青春に
火と燃えて生きて来たのなら
だれの心もうてるはずだろう
だれの涙も誘うはずだろう
また遇おう [また遇おう] いつの日か [いつの日か]
また遇おう [また遇おう] いつの日か [いつの日か]
君のその顔を [その顔を] 忘れない
みなさん、こんにちは。
昨日の高校サッカー選手権の準決勝は非常に良い試合であった。
星稜またもPK戦で涙/高校サッカー
<高校サッカー:鵬翔2-2(PK4-3)星稜>◇準決勝◇12日◇国立
星稜がPK戦の末、鵬翔に敗れ、準決勝で姿を消した。勝てば北陸勢初の決勝進出だったが、日本代表MF本田を擁した04年度に続き、またもPK戦で涙をのんだ。
2度リードを奪いながら、ともにセットプレーから同点に追いつかれる展開。河崎護監督(53)は「セットプレーで点が取れるチームが勝ち上がれる。勝負ごとなので、内容勝ちというのはないですから」と、さばさばとした表情で振り返った。
主将のGK置田竣也(3年)は「3年間同じ仲間とここまで戦うことができた。満足はしていないが、すっきりした気持ち。大学でもう1度国立を目指して戦いたい」と、前を向いた
桐光学園「国立に飲まれた」/高校サッカー
<高校サッカー:京都橘3-0桐光学園>◇準決勝◇12日◇国立
桐光学園(神奈川)は京都橘に完敗し、16大会ぶりの決勝進出を逃した。前半42分、ゴール前でのクリアミスからFW仙頭啓矢(3年)に先制ゴールを浴びると、後半に入っても流れは変わらず。合計3失点と奮わなかった。
佐熊裕和監督(49)は「国立という場所に飲まれた。今日のゲームは残念」と淡々と振り返った。
この2試合をリアルタイムで見ていてはっきり分かったことがいくつかあるので、今回はそれをメモしておこう。私はJユースの試合もYouTube経由で見ている方なので、明らかに高校サッカーとJユースのサッカーの違いが出て来ているので、そういうことを2、3メモしておこう。
(あ)私は今年の選手権の試合もまた、テレビで放映された試合(全試合の放映はなく一部のみ)は全部観たから、この準決勝に上がったチームと下位で敗退したチームの差もかなりはっきりしたものがあったことが分かる。
それは何か?
今回準決勝に上がったのは、鵬翔、星稜、京都橘、桐光の4つであった。しかし、準々決勝はほとんど拮抗した試合だったから、ベスト8に残るチームにはほぼ共通と言えるだろう。これらのチームが試合中に確実に実行しているプレーがあったということである。
(1)バックパスはダイレクトで蹴る。(つまり、ワンタッチパス)。
(2)オーバーラップは必ず使う。(つまり、走り込んだ選手は必ずボールを供給する。)
(3)全員が連動して上下動する。(つまり、守備中盤前線が一体としてポジショニングする。)
この3つがこの準決勝チームの共通項であった。私はそう思う。
(い)これらはその昔我々が中学生の頃に監督から教えられた「サッカーの鉄則」と同じものである。これは旧西ドイツのクラーマーコーチ
「ドイツ人にゲルマン魂があるように、君たちにも大和魂がある」
−−デットマール・クラマー
なでしこジャパンW杯初優勝おめでとう1:「なでしこの先人たち」「サッカーは文化だ」
タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である---デットマール・クラマーが日本に導入したサッカーの基本をそのルーツにするものである。
なでしこジャパンW杯初優勝おめでとう2:「なでしこは一日にしてならず」
どうやら今回の準決勝には見事にこれらの「サッカーの鉄則」に忠実にプレーしたチームが残ったようである。
(う)一般に、Jリーグのプロが出来てから、そしてそれにともなって出来たJリーグの下部組織、Jユースが出来てから、どうもこの「サッカーの鉄則」がないがしろにされたのである。
トップやサイドハーフの外をサイドバックが必死でダッシュでオーバーラップして来たにも関わらず、それを無視して中へアーリークロスをあげたり、逆サイドに蹴ったりというプレーが非常に多くなったのである。高校チームでもクラブ出身者がいるために、おうおうにしてこの傾向が強い。いわゆる「自己中心的プレー」というものだが、日本代表でも頻繁に見るプレーである。
プロが出来て、どういうわけか「サッカーの基本」や「サッカーの鉄則」というものは「型にはまったもの」、「形にこだわるプレー」の代表格と見なされる時代が来たのである。
実際、私が自分の息子たちの中高時代のチームメートなどに息子を通じてこういったサッカーの基本や鉄則を伝授しても、最近の高校生はあまりこういう鉄則に従わない、あるいは、従いたくないという傾向が強いのである。だから、サイドバックがオーバーラップしてほととんどフリーになっている場合でもまったくそれを使わないことがしばしばである。
ここ徳島では、強豪校の鳴門、市立、徳商、徳島北、川島あたりでもそういう場面を何度も見て来たものである。今年もそうであったし、昨年もその前も、ここずっとそうであった。
だから、私個人は、この「サッカーの鉄則」というものはすでに「過去の遺物」になってしまったのかと思っていたのである。もう流行らないのかもな。困った傾向だ。これはJリーグの副作用、副産物、負の遺産だと思っていたのである。
ところが、今回見た準決勝の好チームたちはみなこの鉄則通りに動いていたから実にうれしかった。同時にやはり戦術的にもこういったサッカーの基本や鉄則は見事に生きていることが証明されたからこれまた私の永年の疑問を払拭してくれたのである。2重3重の喜びである。
(え)さて、ちょっと脇道に逸れたが、まず、「バックパスはダイレクト」。
この意味は、こんなものである。もちろん、これは私が中2で初めて野球部からサッカー部に転向した時に一番最初に説明を受けたものである。
バックパスされたボールは、それ自身がかなりのスピードに乗っている。だから、自分があまり強く蹴らなくても、インパクトの瞬間に足(足首や足先)さえしっかり固定していれば、かなり強いボールを返すことが出来る。だから、バックパスはダイレクトに軽く蹴っても遠くへ蹴ることが出来る。それゆえ、バックパスは力まずに蹴ることが出来、もっとも正確に蹴ることが可能なのである。コントロールして蹴ることが出来るのである。ここにすべてがある。
これがサイドや後ろにバックパスされたボールをダイレクトで蹴れ、という意味である。
また、前線からリターンされたボールをダイレクト蹴ると、相手はすぐに蹴られるために、まだ態勢が整っていない、空きができたり、まだ準備ができない。そこへ走り込んだ選手にダイレクトパスがくれば、相手には非常に脅威になるのである。今回の4チームはこういうプレーが生きていた。
ところが、Jユースのように、せっかくバックパスされたボールをいったんトラップで止めてしまうと、守りには時間的余裕が生まれ、準備が整ってしまう。最終ラインを一直線にしてラインの上げ下げをされてしまうのである。こうなると、結局すぐにはパス出せなくなるから、さらにバックパスするか、やり直す他なくなるのである。せっかくのチャンスを攻撃で終わる、つまりシュートで終わるためには、やはり相手が準備できないタイミングでセンタリングを行うべきだから、このタイミングでバックパスをそのままダイレクトでコントロールしてセンタリングすべきなのである、ということになる。
(お)次に「オーバーラップは必ず使え」。
これは、後ろの選手は自陣に穴をあけて前線に上がって来るわけだから、前の選手をオーバーラップで追い越した時に、ボールを持つ選手がその選手を使わずに他にはパスしてもし敵に取られたら、一気にカウンターを食らう危険性が生じるのである。オーバーラップした選手以外にパスしても悪くはないが、ミスした場合のリスクという点では、やはり必ずオーバーラップした選手、特にサイド攻撃でオーバーラップした選手を使うべきである。
この方が、ウィングプレーも見事なサイド攻撃の形になるから、見た目にも美しいサッカーになるのである。
(か)最後の「全員が連動して上下動する。」
これはもはやあまりに常識となっているためにほとんど説明の必要はないだろう。しかしながら、この当たり前のことを当たり前にやるかどうかの違いが失点の有る無しにつながり、結局勝敗に繋がるのである。当たり前のことをはずせば、その途端にやられてしまう。
いわゆる「中盤をコンパクトに保て」という戦術も上下動を繰り返すうちにいつしかさぼるようになる。そうなると、中盤に穴があいたり、前後に間延びする。そうして相手に自由にプレーされるようになる。動くべき時、休むべき時、とういうメリハリを心得ていないと、なかなかこういう全員の連動性を保つのは難しい。
(き)最後に、最近部活の先生による「体罰」が話題になっているから、どうでもいいことだが、ついでにメモしておくと、私が野球部にいたときは、先生からの体罰というものはなかったが、上級生たちからの体罰は歴然として存在した。野球部の部室が一番大きく、新入部員の30人くらいは簡単に入ることが出来たから(サッカー部はそんな広い部屋はなく、みな外で着替えた)、部室という暗室の中で「ビンタ」や「ケツバット」を食らったのであった。先輩の気に入らないことがあるたびに連れ込まれて「体罰」を受けたものである。そういう「体罰」をする係の先輩がいて、決まって、そういう輩は野球音痴の選手としてはクズだった。だから、私はヘタクソがやることがないから下級生の体罰係をさせられるのだと理解し、学校では「声だし」と「球拾い」しかできないから、家に帰ってから必死で練習したものである。この野球部は実に弱かった。それもそのはずで、まともな野球の練習方法を知らない、教えられていないから、選手たちは身体がなまり、下手になる一方だったのである。偶然、私の1年生たちは小学生大会で県大会で優勝したチームがそっくりそのまま入学したので、その小学校ではなかった私は非常に期待したのである。しかし、我々が2年になると、その優勝メンバーが1回戦であえなく敗退したのである。このときを境にそのチームは一気に不良の巣窟に変化した。がらっと雰囲気が変わったのである。それで私自身はこれではまずいなと遅ればせながらサッカー部へ移ったのである。
一方、サッカー部は野球部とは違い、このサッカー部は体罰もなにもなく、すべて理論と実践のやり方であった。雨の日はクラスに集まり、サッカーの理論やプレーの説明を受ける。準備体操の仕方や思想、練習の方法や思想を説明を受ける。この練習は何のためにするのか? そのためにはどこに注意しなくては行けないか? そういうことを教え込まれた。そして天気のいい日にはグランドで実践する。常に適切なアドバイスを受けた。記憶力と理解力があり、運動神経の良かった私は見る間に等角を表し、あっという間にレギュラーに定着した。個人技術も戦術もリーダー的存在に育った。しかし、真夏の練習は実にきつかった。しかし、いちども怒鳴られたり、どやされたり、けなされたり、殴られたりしたことはなかった。
私がここ徳島のサッカー部の監督たちの口汚さや殴る蹴るの指導法に違和感をいつも感じるのはこういう経験が基になっているのであろう。ヘタクソなやつどほど怒鳴り散らす。まあ、そういうものである。
基本的にスポーツは頭でするものである。どんなスポーツでも人間が行うものはすべてそうである。サッカーでも野球でもバレーでもバスケでも何でも結局は頭でするものである。体罰や暴力は頭を使うことの否定でもある。すなわち、そういうチームは強豪になるどころかなまくらになるのである。きつい練習や厳しい練習というものと、痛い練習や怖い練習というものは違うのである。
さらについでに付け加えておくと、学校の先生の「体罰」に匹敵するものが、科学者の世界における、いわゆる「権威をかさに着る」というものである。結局どちらも頭を使わなくなるということが共通点であるというわけですナ。
by KiKidoblog | 2013-01-13 18:08 | サッカー&スポーツ