YouTube講義の時代!?:いい講義とはかくあるべし?

e0171614_15402166.gif

しかし、この教育上の問題については、私はこう考えている。最善の教育というものは、いい学生といい教師との間に、直接の特別のつながりがある場合ーー学生が考え方を論じ、ものごとについて考え、ものごとについて語るーーそういう場合にのみ可能だということを認識するよりほかにないと考えている。講義に出たり、また出された問題をやったりするだけでは大した勉強はできない。しかし、現代は教えるべき学生の数があまりにも多く、この理想に代わるものを求めなければならない。その意味で、この講義も若干の貢献をするところがあるかも知れない。どこか、目立たないところに独特な個性的な教師と学生がいて、この講義から若干の刺激や考え方などを吸収しているのかも知れない。彼らはそれを考え考えーーさらにそれを発展させることに夢中になるのではあるまいか。

ーーリチャード・P・ファインマン、1963年6月


みなさん、こんにちは。

私は、大学4年、日本の大学院5年、米国大学院4年と学んだから、計13年と非常に学園生活が長かった部類の1人である。普通の博士は、大学院を卒業すると企業に入るから、長くて9年。

私は1990年にユタ大を卒業してから富士通に入り、2年で理研に移り、ポスドクの任期満了で3年でフリーとなった。それ以後、直接大学の正規のフルタイムの職員になったことはないから、23年ほど大学の授業のことは知らない。まあ、時に数ヶ月クラスを持ったということはあったが。

一方、運良く大学に研究職員として残る事ができた人は、そこからは今度教える側として、何事も問題なければ、定年退職まで数十年と大学にいるだろうから、ずっと大学で人生を過ごすことになる。そうして、それ以前に学んだ蓄積を元に、自分の専門の研究とそれにまつわる分野の教育を両立して行うという、いわゆる「大学教授」生活に入るわけだ。

今日、偶然に最近の大学の講義のYouTubeがあることを知ったので、今回はそれをメモしておこう。以下のものである。
静大工学部授業「制御工学2(機械工学科3年後期)」
京都大学 全学共通科目「振動・波動論」前川覚教授 第1回講義2012年4月13日
京都大学講義 全学共通科目 線型代数学A 若野 功 講師 2008 06 17
慶應大学 理工学部 講義 数理物理 第一回


慶應大学 講義 物理情報数学A 第二回 オイラーの公式 2010


慶應大学 理工学部 講義 物理情報数学B 第一回


量子コンピュータ授業 #1 量子ビットと量子ゲート

ここでは、今回たまたま、静岡、京大、慶応の一部のものをメモしたが、おそらく探せばもっとあるだろうし、今後他の大学からももっとたくさんこうした講義YouTubeが出てくるだろう。

さて、これらを聞いて私は愕然とした。それは、教授の世代交代がかなり行われたせいか、私が最初に理科大理工で受けたころの授業とはかなり感じが違うように思うのである。私がイメージするものとは何かが違ったからである。

私の記憶では、我々の入学当初、今から35,6年前では、昔でいう、いわゆる「大学講義」というもので、大学の先生が、いきなり教科書の板書をし始めるというような感じであった。教科書の事項を教授が自分のペースでどんどん書きまくるというものであった。声も小さかったり、大きかったり各人各様で、自分の世界に入り込んでいたという感じだったナア。

ところが、今回のものを見ると、最近の講義風景は、「大学講義」というよりは「予備校の授業」という感じである。教え方は確かにみなさん上手になっている。この意味では、日本の大学の先生たちもそれなりに非常に努力をして来ているように思う。

しかしながら、こうして見ると、また逆に、「ちょっと待ってください」という部分もはっきりと目に付くのである。少なくとも私の目にはそういうものが見えた。

それは何か?

と言えば、これらのすべての授業で教えられていることは、すでに「100%真実である」かのように語られていることである。ここに私が違和感を覚えたのである。

科学とは、デカルトの「我思う、故に我あり」で始まった。言い換えると、
(あ)「何事も疑ってみる」
という態度から生まれたものだったのである。そこが
(い)「神を信じろ。されば救われん」
の宗教とは異なる部分なのである。これが「近代科学哲学」の始まりだと考えられているのである。

こうして私も35年ほど実際に科学者としてそれなりに研究してみると、実際にはこの2つの両方が微妙に絡むというのが、本当のところである。実際にはこうである。

まず、何かを「批判」する。それを「信じない」。ならば、そうではない何かがあるはずだと新たなる仮説が成り立つと「信じる」。次にそれが本当かどうかを第三者になって自分の仮説を「疑う」。そして、疑うべくもない真実であるかどうかを「証明する」。

もし何もかもを最初から疑いだせば、仮説も何もない。何も得られないし、何も発見できない。これがちまたでみる「と学会」などの「懐疑主義者」のやり方である。だから、こういうタイプの連中は権威のフォロワーであってクリエーターにはなれない。

今度は、逆に何でもかんでも信じてしまうと、これまた何も生まれない。これがちまたでみる、新興宗教やアセンション系などのカルトのやり方である。もうそこで信じきっているわけだから、それ以外のものは不必要だからである。だから、こういうタイプもまた教祖の信者=フォロワーであって、何も生み出すことはできない。

実際に素晴らしい研究をしたり、発見をしたり、何かを生み出して、本当の意味で人類に貢献する人、出来る人というのは、そのどちらでもない。だからこういう人が真のクリエーターであるが、非常に少ない。こういう連中は、スティーブ・ジョブズのようなタイプである。徹底的に既存のものを批判し、満足しない。そして、次なる世界を信じる。そしてそれを実証しようとする。うまくいけばいいが、たいていは失敗する。しかしいったんうまくいけば、新世界が現れる。

とまあ、こんなやり方である。これがクリエーター、真の救世主のやり方である。

こういう観点から見ると、最初にメモした最近の国内一流大学の素晴らしい講義は、「何かが足りない」のである。要するに、「哲学」=「疑うこと」が足りないのである。
君たちにこれまでの数学のベクトルのことをお話しよう。
さて、ベクトルの定義はこれだ。
分かったかね?
でも、はたしてそれだけだろうか?
ベクトルの定義は一種類だろうか? 
もっと他にもありえるのではないかな?
そんな例はないだろうか? 
何か別のベクトルの定義になりそうなものはないだろうか?

(追記(2月10日):ついでに付け加えておくと、上の慶応大の講義のように、学部で最初にベクトルをやるが、実はさらに上にいくと、それは間違いだということになる。もっと一般的な定義があらわれる。それが外微分形式というもので、この世界に入ると、☓(外積)が^(ウェッジ積)にかわる。そして、ユークリッド空間が一般の曲がった空間(多様体)に代わる。さらに純数学になると、ベクトルがグラスマニアンに代わる。そして扱う空間が多様体から代数多様体に代わる。こうなると、目で見える空間ではなく、目に見えない抽象的な空間を扱うことになる。このように、常に今のものを一端信じて学び、そしてそれを今度は疑うことから、進歩が行われてきたというわけである。そして、現在では空間が、層となり、層から圏となり、代数多様体から数論多様体、数論幾何学へと進む。この大家がたとえば、京大の望月新一博士。東北大の雪江博士。哲学をしない(疑わない)ものからは本質的な進歩は望めないが、信じることを知らないものも進歩を望めない。そういうものだと俺は思うヨ。ところで、授業でちっとも証明をしない、導出をしないのは最近の流行かい?)

これは、私がいまちょっと昔のリチャード・ファインマンの真似をしただけのことである。ファインマンは、カルテク(カリフォルニア工科大)でこんな感じの講義
Richard Feynman - The Relation of Mathematics and Physics - Part 1


Richard Feynman - The Distinction of Past and Future. Part 1


Richard Feynman - Law of Gravitation - An Example of Physical Law part1
を行なっていた。ファインマンが大学生に初歩的な物理を教えたのは、たったの2年間だけだったが、それをテープに録音して書きおろししたものが、有名な
ファインマン物理学
e0171614_15544214.jpg
である。

こうしてみると、確かにファインマンの教科書には「疑」の部分が含まれている。それもいたるところにある。決してすべてを鵜呑みにさせない。何かにつけ、疑いの目を向ける。

その成果かどうかは分からないが、ファインマンの教科書は世界中で読まれ、その読者の若者の中から次世代で大発見をしていった人物が育ったと言われている。これは歴史的事実である。そういう一人が、ウルフラム博士である。
マテマチカ
e0171614_1556619.jpg
を作った。

はたして、東大、京大、慶応、静大などの名門大学の講義を見た、見知らぬ、名も無き若者から、次世代の大人物が出てくるだろうか? 興味深いところである。

いずれにせよ、ここまでたくさん講義YouTubeが出てくると、果たして大変な受験勉強をして、そして多額の入学金や授業料を支払ってまでして、大学に通う意味があるのか?という、新たなる時代に入ってきたようですナ。


おまけ:
予備校も大学に負けていなかった! 大学も予備校に負けていなかった! どっちもどっち?
東大クラスの普段の授業風景

[PR]

  by KiKidoblog | 2013-02-08 15:43 | アイデア・雑多

<< 「セクシーサッカーでW杯優勝を... 世界最大の素数発見された!:素... >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE