「体罰」の深層:文化ギャップ!? 西「監督はわしやねん」vs東「選手は預かり物」
さて、今回はスポーツに関することをメモしておこう。もちろん、「体罰」や「暴力」、「愛の鞭」なども関係するだろう。
私がここ阿南に来て、自分の子供がバスケットや野球やサッカー部に入り、いろいろ子供を通じて、幼稚園、小学校、中学校、高校と進む間、何人かのスポーツクラブの部の監督と接してきたのだが、私自身が山梨で育った時に受けた監督からの印象とはかなり異なるものがある。
これが、四国徳島という土地柄のせいなのか、関西圏だからなのか、はてまた関西弁や徳島弁のなせる技なのか、そのあたりはまだ確信がない。
私は、関東圏で育ったせいか、たとえ義務教育過程の中でスポーツクラブに入ったり、所属したとしても、それはたまたま何かの縁でその学校に進学し、これまたたまたま合格して、その学校のクラブ活動に参加することになったにすぎない。
だから、どこかの中学の何かのクラブに入れば、その時、そのだれかの子供は、たまたまそのクラブで「預かった」にすぎない。それゆえ、保護者から預かった生徒をそれなりのスポーツ選手に育て上げる、育ててもらう。これが学校のスポーツクラブだということになる。
とまあ、そういうふうにずっと考えてきたし、実際、私自身山梨や関東では、そういうふうな生活を経てきた。大方関東の文化圏ではこんな感じであった。
だから、時には、コーチや監督を名前やニックネームで呼ぶことも、山梨や関東では日常茶飯事のことである。我々は、高校時代の平林監督を「平さん」と非公式普段では呼んだし、呼ばれた監督も特にそんなことは当たり前と感じたにすぎない。先輩に対しても、みな同様にニックネームで呼んだものだ。そして、自身も後輩たちからもそういう感じで呼ばれたものである。だから、かつて三浦知良選手は、岡田監督を「岡ちゃん」と呼んだというのも頷ける。
この点、早くからサッカーが欧州から伝来したせいか、関東や山梨、静岡では、非常にフランクであり、スポーツの世界では「無礼講」当たり前なのである。さもなくば、その選手の本来の能力や「潜在意識」や「潜在能力」を引き出せないからである。
ところが、である。問題はここからだ。
三浦知良選手は、日本がフランスのワールドカップ出場を果たした時の「功労者」の一人である。北沢選手もそうだった。当時、まだ新進気鋭の若者に過ぎなかったのは、中田英寿選手や小野伸二選手であり、それまでの実際的貢献度では、三浦知良選手やその当時はまだ控え選手だった、ゴン中山選手であった。
ところが、現実に起こったことは、三浦知良選手と北沢選手と市川選手がはずれ、他の若い選手が入ったのである。
「この時のことは、墓まで持っていく」
これが、当時から現在も意固地になってしまった岡田監督の言葉であったが、一説ではこの理由は
「三浦カズが、「岡ちゃん」と呼んだためだった」
というものがあるのである。要するに、関東ではありふれた、選手と監督との間の「風習」も、それを感覚的に理解せず、「バカにされた」、「あいつ舐めとるのか」と受け取ったというのである。
実は、これが現代までの日本のスポーツ界の「大問題」の一つなのである。
簡単に一言でいうと、
「箱根の関所を超えると、文化も言葉もイントネーションも電気の周波数も異なる」
ということだ。実質上は、英国(イングランド)とアイルランドのように、別の国なのである。
あまり日本人はこのことを理解していない。これが、実は、いろんな場所や状況で問題を生み出しているのである。
(あ)イントネーションの問題
私は、関東でも関西でも四国でも教壇に立った経験がある(単に、講演したり、物理的に教壇から話したという意味。先生になったという意味ではない)。これからすぐに感じることは、関西では「標準語」で話すことは、「人に対して高圧的に振る舞う」ことに等しい。要するに、「偉そうに」、「バカにしている」と受け取られるのである。
まず、我々関東の人間は、このことを知らないし、知らなさすぎる。だいたい、関東でイントネーションが先に来る語句は、関西では逆に後ろにイントネーションが来る。すべてが逆なのだ。
だから、関東の人が、関西で普通に話せば、ことごとく悪い印象を受け取られるのである。私もそう受け取られ続けて、今に至る。逆に、関西の人間が関東にいって話せば、意味を逆に受け取られることになる。
(い)次に、方言の問題。
関西弁や徳島弁で、関東で話したとしても、ほとんどまったく通じないだろう。大半が通訳が必要となる。同じ言葉を使ったり、同じような響きの言葉を使ったとしても意味が異なる。
まあ、一番卑近なわかりやすい例は、徳島弁の「はめる」という動詞である。これは、「入れる」という意味だが、非常にアバウトな語句であり、何に対しても「はめる」で事足りる。これは、童謡にある「お池にはまってさあたいへん。どうじょうがでてきてこんにちは」という時の「はめる」である。
「子供を風呂にはめる」、「ゴールにボールをはめよ」、「FW、早うはめんか」
というような使い方をするのである。
実は、関西圏のサッカー選手が、関東圏で活躍できない、最大のハードルが言葉なのである。せいぜい大阪までである。方向の指示や動きの指示に対しても、ことごとく、使われる言葉が違うのである。要するに「スポーツにも方言がある」のである。これはあまり理解されていないし、知られていないことである。しかし、実際にプレーしてみると、これは非常に大きな問題を生むのである。
我々が「落とせ」といえば、「ボールを後方へ蹴る」ことである。しかし、ここ徳島では「おるよ」という(「後ろにいる」という意味)。我々が「オーバー」といえば、「頭を越される」ことを意味するが、関西圏では「かぶる」という。帽子を被ることから来たらしい。我々が「右」というところが、「平行」というし、我々が、ボールを交換する時「スイッチ」と言っていたものは、「おいとけ」となる。
まあ、すべてがこんな感じなのである。だから、そのままではまったくプレー中の意思疎通ができない。
(う)感情表現の問題
そうなると、選手を「褒めたり」、「貶したり」、「怒ったり」したとしても、それが正確に伝わることはない。こちらが「怒った」としても、相手には「ふざけとんか」という理解になるわけである。逆に、関東では相手に「ふざけた」つもりのことが、関西では「喧嘩を売られた」、「なめられた」こととなるのである。
そして、最初の三浦カズの問題につながる。
三浦カズが、「岡ちゃん」と日本代表監督を愛嬌や親愛の念から呼んだとしても、香川ー大阪出身の岡田監督にはまったく理解されなかったのだろう、ということになるわけだ。私は、非常によく分かる。
(え)監督やコーチの意識の問題
さて、実はこれがまた監督の意識の問題に発展するのである。これが、実は本当の問題なのである。
関西圏(おそらく関所から南として四国では顕著、というか、すでに常識になってしまっているが)では、「監督はそのチームのオーナーのように振る舞う」という習慣になっている。これが、関東圏の人たち、私にもまったく理解できないことなのだ。
そして、これが一番最初の問題、私が息子の入ったクラブの監督の意識が理解できなかったという問題、につながるわけである。
簡単にいうと、ここ徳島や四国、広く関西圏や九州圏では、
「このチームは俺のものや」、「監督は俺やねん」
という意識が存在するということである。だから、我々が、自分の息子が所属して活躍しているのだから、その保護者が意見するのは当たり前だろと思って、いろいろ好意的に協力的に「アドバイス」したとしても、ことごとく
「このチームの監督誰か知ってる? わしや」
という言葉が返ってきたのである。だれかの息子が、その監督に蹴りをいれられてた時に、「そりゃー、まずいよ、監督さん」と言っても「わしが監督やけん」というわけだ。
このチームの監督がそのチームを所有し、選手はそのチームのもの、さらには選手は監督のものだ、という、驕り高ぶった態度が、実は関西圏ではごく普通なのである。
この意識を「驕り高ぶった意識だ」と、われわれ関東の人間がいうのは簡単だ。しかし、これは遺伝子にまで染み込んだような、実に根の深い文化に由来するもので、まったくスポーツとは無縁のその辺のジジババでも同じような精神風土を持っているのである。だから、関西圏の人間は、それが当たり前だと感じているわけである。だから、だれか問題を起こした個人を外した所で、また新年度になれば、先生として、監督として、新任教師として入ってくる若者がいれば、またその新人が
「俺が監督やけんな」、「チームの監督は俺ですねん」
というような、スポーツ意識で監督やコーチを行うのである。
だから、関西圏では、ほぼ永久に
「選手は保護者からの預かり物だ」
というような発想は出てこないということになるわけである。
だから、今回の大阪の桜宮高校や滋賀県や関西圏の学校で、選手に不必要な体罰や暴力が行えるというのは、実にありふれた状況といえるのである。もちろん、関東にもあるが、その場合は、また別の問題が絡んでいるに違いない。
まあ、そんなわけで、”スポーツにおいて”は、私は日本は(英国のように)「2つから5つの国」に分裂し、それぞれが国の代表を作るべきだと言っているわけですナ。
事実、四国出身の選手が日本代表になっても言葉のハードルからなかなか実力を発揮できない。そんな選手を腐るほど見てきたからである。関東は関東、関西は関西、四国は四国、九州は九州、北海道は北海道という感じの代表チームを作ったほうが、意思疎通や感情移入がうまく出来ると私個人は考えているのである。
しかし、実際には、関西圏出身の監督と関東圏出身の選手との間のちょっとした言葉のイントネーションの違いやニュアンスの違いから、スレ違いが起こったり、体罰が起こったりしているのである。
ことばのせいでぶん殴られたらたまったもんじゃねーー、
言葉のせいで日本代表落とされたらたまったもんじゃねーーよナア。
おまけ:
2005年4月1日のdoblog記事より
by KiKidoblog | 2013-02-14 15:28 | サッカー&スポーツ