イグチ博士、賞金一億円の懸賞問題を提供か?
今日はエイプリル・フールである。エイプリル・フールにかなった話題をメモしておこう。以下は、エイプリル・フールのジョークである。本気にしないことが肝心。
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「科学の歴史」を紐解くと、一つの非常に気になる歴史が問題を生んでいるように見えることがある。それは、次のような問題である。
ある時代に、ある優秀な科学者が、一つ二つの大発見を行ったり、有名な理論を完成したりして、その後の科学に多大な影響を与えることがある。実はその創始者本人には自分が創りだしたわけだから、自分が行ったことの問題点もよく知っているわけである。だから、その創始者は自分のできなかった部分を完全に解いてもらいたいと思っている。ところが、その後に現れた若い世代の科学者たちは、先人のなし得た有名な方の理論、うまくいっている部分だけを鵜呑みにして、うまくいかなかった部分を簡単に忘れてしまう。極端に言えば、先達の学者が「それではだめだ」と言ったことを後進の学者がむしろ逆に考えて「それをやってしまう」のである。
なぜかは今のところよくわからないが、こういうことが本当にしばしば起こるのである。その結果何が生じるか?というと、科学上の大事な問題がまったく解かれずに残される。あるいは、まったく手付かずのままに終わる。こういうことが起こってきたのである。
つまり、理論の創始者や大発見を行った創始者が、やりたかったができずにやり残した問題というものが、たくさん科学の世界、特に悪名高き、我々の物理学の世界では存在するのである。その歴史の雰囲気からして「物理学帝国主義」と呼ばれる所以である。
俗に、帝国主義者というものは、自国内の矛盾や問題点には目をつぶり、仮想敵国を外部に作り、そっちに目を向けさせ、自国の内部矛盾には目も向けない、向けさせない。そういうものである。科学や物理学にもこれとまったく同じ性質があるのである。
そんなわけで、かつての歴史上の物理学者が、解きたいのだが解けずにそのままにしたが、結局その後の時代の物理学者も解けずにのこしたままという問題がたくさん存在しているのである。
こういう古い問題=科学の化石を科学の土地の地層の中から掘り出し、それをきちんと解決していこうという、一つの科学のあり方があるのだが、そういう科学のあり方は今の地球の科学者はまだ理解していない。「科学考古学」とでも言うべきものかもしれない。普通の言い方でいえば、「古きを尋ねて新しきを知る」、「温故知新」というものである。
さて、前置きが長くなったが、今回はそんな問題のいくつかをメモし、それを解いた人には、「賞金1億円」を提供しよう。
(あ)アインシュタインの問題。
まずアルバート・アインシュタインは、重力と電磁気を統一する理論体系の完成に、人生最大の問題と考え、死ぬまでそれに挑戦した。もちろん、アインシュタインの相対性理論は1915年の理論だから、非常に古い。だから、現在まで超ひも理論やブレーン理論などほとんど無意味の理論も数多い。そういうものではない。いわゆる力の幾何学化ではない、まったく異なるタイプのやり方の理論。むしろ、ファラデーーマックスウェルの力線に基づいた重力と電磁気の統一理論のようなものを求む。
(い)ディラックの問題。
さて、次のディラックの問題とは何か? ポール・ディラックは、自著「量子力学原理」の最後の章「理論の困難」の最後にこう書いている。ポール・ディラック(1902年8月8日・ブリストル - 1984年10月20日)問題は文字通りにこの問題を解くこと。もちろん、その後の朝永−ファインマン−シュウィンガーの「くりこみ理論」というものが公式にはこの問題を解決したことになっているが、くりこみ理論ではない。直に解くという問題である。俗にいう「無限大の困難」を解け!、ということである。
人々はこのゆらぎによって生ずる無限大を自己無撞着な方法で除去するある種の規則を設定することに成功し、実験と比べることができる結果を計算できるような、実験に使える理論を得た。そしてこれにより実験と非常によく一致する結果が得られた。このことは、この規則がある程度正しいことを示している。しかし、この規則は特殊な問題、通常衝突問題にしか適用できないし、量子力学の論理的基礎とも調和しない。従って、これは困難の満足すべき解決であるとは考えられない。
我々は、出来る限り、現在了解されている量子力学の考え方の論理的展開の筋道に沿ってきたつもりである。この困難は、非常に根深い性質のものなので、理論の基礎に、ある根本的な変革、多分ボーアの軌道理論から現在の量子力学に移ったときと同じくらいの根本的な変革を加えることによってのみ取り除くことができるのであろう。
−−「量子力学第四版、§81理論の困難」より抜粋。
ちなみに、ディラック自身にはそれなりのアイデアがあった。それは、電磁場の縦波を認めて理論構築するというものである。
(う)ファインマンの問題。
リチャード・ファインマンはその著書「ファインマンレクチャーの量子力学」で次のような問題を述べた。一般に素粒子には整数スピンをもつボゾンと半整数スピンをもつフェルミ粒子の二種類が存在する。この問題については、諸君にお詫びをしなくてはならない。これに対する一つの解釈が、場の量子論および相対論のややこしい議論にもとづいて、パウリによって与えられている。彼は、上の二つのことが必ずあい伴うものであるを示したのである。しかし、彼の議論を初等的なレベルで再現する方法は残念ながらまだみつかっていない。それは、非常に簡潔に表現できる法則でありながら、その簡単かつ容易な説明法のみつからない、物理学における数少ない例の一つである。その説明をするには、どうしても相対論的量子力学の話に深入りせざるをえないのである。このことは恐らく、そこに含まれている基本的原理が完全には理解されていないということを意味しているのだと思う。差し当たっては、諸君は、これはこの世界における法則の一つであると了解しておくより仕方のないことである。これを解け。すなわち、パウリのスピン原理のより簡単な証明を見つける問題である。
(え)朝永振一郎の問題。
朝永振一郎は、中村誠太郎の湯川秀樹と朝永振一郎(70円)によれば、次のように言っていたという。
素粒子が、素電荷の一倍、二倍、三倍……の電荷を持つが、半端な値の電荷を持つものは発見されていない、もちろんゲルマンのクォーク説のいうような三分の一とか三分の二の電荷を持つものは見つかっていない、という事実こそは、素粒子の内部の世界の深い原理を秘めていることではないか。新理論は、この事実を説明することができれば、飛躍を遂げることができるであろう。もちろん、その後の歴史は、二次元半導体の量子ホール効果で、分数電荷の素励起が見つかっている。いわゆるクォークも発見されたことになっている。そこで朝永の思想を鑑みると、「そもそも素電荷がつぶつぶなのはなぜか?」という問と考えることができる。なぜ素粒子は量子化されているのか? そもそも電荷とは何なのか? 電子とは何か? こういう問題だと考えることができる。電子は小さすぎてだれも直接に見たものはいない。
(お)湯川秀樹の問題。
湯川秀樹は、生命の問題に極めて大きな関心を持っていた。生命とは何か? どうして生命は存在し得るのか? どうして非平衡非線形現象が安定に活動できるのか? この問題を解け。もちろん、いま私が挑戦中なのがこの問題である。すでに五年経った。
諸君の挑戦を求む!
by KiKidoblog | 2013-04-01 15:15 | アイデア・雑多