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佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?

みなさん、こんにちは。

今回は三國連太郎さんを追悼して、私個人の一種の興味というか、妄想をメモしておこう。だから信じるに足る話ではないから、普通の人はスルーして欲しい。

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(あ)まず私が三國連太郎というとすぐに気になるのが、あの端正な顔立ちはどこからきたのだろうか?ということである。西洋人とのハーフのような二枚目の顔と181cmの長身である。あの1920年代でそれほどの体躯の持ち主はそうはいなかったはずである。

そこで、まず三國連太郎さんの経歴を見るとこんなことが書かれている。
三國連太郎
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三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年1月20日 - 2013年4月14日[1])は日本の俳優。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。群馬県太田市生まれ。身長181cm、体重75kg[2]。

母親は16歳で一家が離散し広島県呉市の海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した[3]。たまたま静岡県沼津駅で知り合った父親となる人物の仕事先だった群馬県太田市で結婚し三國が生まれた。このため三國は私生児となる。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、三國が生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆に戻った。(以下省略)
この経歴を見て、これはと思う人はほとんどいないはずである。

(い)今もそうだが、広島の呉という場所は日本海軍の本拠地の1つであった。総本山といってもいい場所であった。

三國連太郎さんの母親は、そこへ奉公にいって身籠った。ということは、普通に考えれば、その海軍軍人の子供を身籠ったということになる。つまり、三國連太郎さんは日本海軍の軍人さんの子孫だということになるだろう。

そこで、いったいだれの所に奉公に行ったのか? ということになる。

(う)あまりに昔のことでさすがにインターネットにはそれほどの情報はない。しかし、偶然にも非常に興味深いものを見つけた。以下のものである。
帝国メイド倶楽部直前小ネタ・海軍と女中

 明日はいよいよ帝国メイド倶楽部七ですね。ペーパーはこれから作ります(苦笑)。

 ちょっと調べものがあって、戦前の国勢調査の広島県の記録を借りてきました。詳細な職業別人口が載っていて結構面白く、そういや随分前、半藤一利氏か誰かの座談会での放言をきっかけに「海軍メイドさん事件」とか盛り上がってたなあ、と昔を思い出し、呉市の職業別人口を調べてみました。と言うのも、1920(大正9)年の第1回国勢調査の調査基準は今とかなり異なっているので、「海軍軍人の家にいる家事使用人」を調べることが可能なのです。
 で、1920年の呉市の海軍軍人の家にいると見られる女性家事使用人数の結果は、226人ですね。
 一方、主な雇い主である海軍現役軍人の、おそらく士官かそれに相当する階級と思われる「業主」分類は723人、その扶養家族が1798人、彼らが雇っている女性家事使用人が220人(男の使用人も1人)です。呉の海軍軍人全体の合計は12578人で、うち一般兵と見られる「労務者」分類が8986人(扶養家族・使用人なし・・・当たり前か)、「職員」分類が2869人、扶養家族2826人、使用人6人となっています。
 つまり、家に女中のいる海軍軍人は少数派であったと思われます。士官以上(だろう、多分)の世帯三軒半に一軒しか使用人を置いていないことになりますので。あんまり給料が高くなかったんでしょうね。

 ちなみに、メイドといえばイギリス、なわけですが、1920年当時の呉市にはイギリス人女性2名が住んでいることが判明しました。さて、ここで問題。彼女たちはいかなる仕事に就いていたのでしょうか?

(解答は後刻コメント欄に)

このブログ主の調査を信ずれば、1920年当時、広島県呉市の国勢調査がおこなわれ、当時の家事使用人(いわゆるメイドさん)は、たったの220人しかいなかったのである。したがって、この220人の中に三國連太郎さんの母親も含まれていたと考えられる。

そして、興味深いことは、一般軍人ではないということである。当時、メイドを雇うことができたのは海軍将校に限られていたのである。どうやらこの習慣は日本海軍が当時のドイツ帝国海軍の真似をしたものらしいが、定かではない。

これが、
半藤一利氏か誰かの座談会での放言をきっかけに「海軍メイドさん事件」とか盛り上がってたなあ、
という部分にあたる。

そうなると、三國連太郎さんの父親は呉の海軍将校のだれかだったということになる。

(え)そこで、当時の呉の海軍将校をだれかまとめていないか? 果たしてその海軍将校の中で、三國連太郎さんそっくりの人はいるだろうか? いなければ、この仮説は単なる妄想に終わる。

そんなわけで、いろいろ調べてみると、こんなものを見つけた。
広島の海軍士官

この中の将校の名前と顔を一人ひとり調べてみると、面白いことに数人の将校の顔が、
三國連太郎さん
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と結構似ていることがわかった。以下の人々である。
井上成美
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及川古志郎
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谷口尚真
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今村信次郎
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南雲忠一
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おまけ
秋山真之
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(昔の日本海軍の将校たちは、今で言えば、イケメン。非常に美形の整った顔立ちをしていたようである。凛とした顔つきしかいない。また不思議なことに、鼻が高く細く、小鼻の張りが小さいのである。現代の日本人とはかなり異なった顔立ちで、おそらく現在では関東の人間の顔つきに近い。この意味からも、現代人は、関西などを中心に半島の朝鮮人の遺伝的影響を受けたに違いない。)
その他にはあまり似た感じの将校はいなかった。

この中でなんといっても三國連太郎さんの顔の最大の特徴といえば、眉間のシワだろう。眉間にシワのある顔というのは、日本人には非常に少ない。そしてアゴの割れ同様に、これは遺伝する。

おどろくべきことに、この将校たちの中でただ一人、眉間に大きく深いシワを持つものがいた。それが南雲忠一第一航空艦隊司令長官である。

二人を並べてみよう。
南雲忠一司令官
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三國連太郎さん
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ついでに孫の佐藤浩市さん
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まあ、そういうわけで、この辺りが一番可能性が高いのではないだろうか?

いずれにせよ、血は水よりも濃い。三國連太郎さんのあの威厳のある顔立ちは、海軍将校譲りであった可能性は非常に高いといえるだろう。

果たして真実はいかに。神のみぞ知るというやつでしょうナ。信じないで欲しい。これはあくまで私個人の妄想メモですナ。

かさねて三國連太郎さんのご冥福をお祈りしたい。

  by KiKidoblog | 2013-04-16 16:45 | 人物

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