日本代表へのメッセージ:「勝負事は、やるからには勝つつもりでいかないと何も残らない。」
勝負事は、やるからには勝つつもりでいかないと何も残らない。
ーー松井秀喜
みなさん、こんにちは。
このところ毎日コンフェデレーションズカップを見ていたので、ここがおろそかになった。AグループとBグループのそれぞれの初戦が終わったところである。
()は世界ランキング(2013年6月)
Aグループ
ブラジル(22位)3−0日本(32位)
(私がこれまで観たブラジルでは一番弱いと言った意味、わかるだろ?王国はいつも世界ランク4位内だった。今は22位。)
イタリア(8位)2−1メキシコ(17位)
(イタリアはかろうじて優勝を狙えるレベルにある。)
Bグループ
スペイン(1位)2−1ウルグアイ(19位)
(この試合は完全にスペインが子供を相手にしたような試合だった。)
ナイジェリア(31位)6−1タヒチ(138位)(全員アマチュアのタヒチが非常にいい試合をした。歴史的快挙だった。タヒチ頑張れ!)
(タヒチ歴史的初得点)
こうしてみると、日本だけが無得点だったわけである。
サッカーというスポーツはおそらく数あるスポーツの中でも「最も番狂わせの少ないスポーツ」なのである。高校サッカーでもそうだし、大学サッカーでもそうだし、Jリーグでも欧州サッカーでも南米サッカーでもそうである。めったにランキングをはずすような結果はでない。そういうスポーツである。
だから、世界制覇するのであれば、少なくともランキングベスト4には入らないと無理なのである。
なでしこジャパンがなぜ女子サッカーのW杯で初優勝できたかといえば、それまでにすでに世界ランク4位内に入っていたからである。4位内であれば、あとは勝負は時の運。「ボールは丸い」=「サッカーでは何が起こるかわからない」の世界に入る。しかし、ランキングがあまりに違えば、結果はやる前から分かっているのである。
この意味では、日本は徐々にいい選手といい監督を入れ替えて常にレベルアップしなければならない位置にあるが、今は選手も監督も固定されて、ほとんど上昇気運がない。
ザッケローニには「チーム作りのための「コンセプト」がない」。その点、かつてのジーコと似ている。双方ともに人間的には非常に良い人なのだが、それが必ずしも日本人選手には合わないという場合がある。日本人にも朝鮮人の血筋やアジア人気質があるために、自由にやらせると好き勝手に自由奔放に放縦になってしまうものが多いのである。親切心が仇になる事が往々にしてあるのである。
その意味では、オフトや岡田やトルシエのように規律を重んじる監督は意外にいい結果を残したのである。
さて、コンフェデレーションズ・カップは、それでも「FIFAの主催する公式戦」である。ワールドカップ前の単なる国際親善マッチではない。だから、この大会でも次のシーズンのためのビッククラブ入りを目指して、他国の選手たちは死に物狂いで戦っているのである。つまり、いい意味の「野心を持っている」のである。
その点、初戦の日本代表を見た限りでは、日本代表の選手たちは何かを勘違いしていたようである。まったく本気で戦う姿はなかった。国際親善大会と錯覚したようである。特に清武や香川などがそうであった。日本の監督がこういう選手を見たら、普通、
「帰れ」
というのである。もう荷物まとめて日本に帰れとお達しを出す。そしてそれっきり。これがこれまでの日本の監督であった。
少しは本気で残りの2試合を戦って欲しいものである。
そこで、今日偶然見つけた興味深いYouTube番組をここにメモしておこう。これは、いまから8年前まだ本田圭佑選手が高校生だったころのものである。石川の星稜高校時代の選手権大会のものである。
(Jユースあがりの選手たちにはこの気迫がないのである。一戦必勝の心構えがない。だから、結局日本代表は大半が高校サッカー出身者ばかりになるのである。)
この中で、本田選手に関して結構興味深いことが出ていて面白い。
(あ)サッカーノート
基本的には、この頃から本田圭佑選手はあまり変わっていない。変わったのは顔だけである。中でも、本田圭佑選手も「サッカーノート」を欠かさずにつけていたということである。
私は個人的に同じような顔して、同じようなレベルのサッカー選手たちが、後々大きく差がついていくのはなぜか?という問題を調べている。この一つの条件が、どうやら「サッカーノート」を毎日つけているかどうかというものなのである。
物理学や科学者でもまったく同じである。かのリチャード・ファインマン博士は自分の秘密の「研究ノート」をつけていたのだが、これはあまり知られていない。講義だけが本となって有名になったために、毎日研究ノートをつけていたことは忘れられている。
これと同じように、中村俊輔選手の「サッカーノート」、俗にう「俊輔ノート」は非常に有名である。これが中村選手と他の似たような仲間たちとの差を生んだのである。
本田圭佑選手も例外ではなかったということになる。
なぜサッカーノートが重要か?
というと、やはり毎日の練習を無駄にしない、という精神が生まれることにある。
大半の選手は、サッカーは幼少期からの「お稽古事」や「学習塾」の一種になってしまう。習い事では習字やピアノ、勉強では塾や予備校、スポーツではサッカースクールやクラブ活動、こういったものに埋没するのである。だから、塾でも先生が計画表を配布し、音楽学校でも先生がカリキュラムを考え、サッカー学校でもコーチや監督が練習法を考えてくれるという生活パターンにハマるのである。「自分で考える時間も場もない」。
これが大問題なのだが、サッカーノートは勉強の東大ノートと同様に「自分で考える習慣」を生む。それで、なんとか自己流の、あるいは自分の流儀のやり方や方向を模索するきっかけを作るのである。
いわゆる「能動的」と「受動的」という言葉の差にある内容がサッカーに出るのである。いくら良い学校で良い指導を受けたとしてもそれを「受動的」に受け流すのと、自らの問いかけや動機から「能動的」に働きかけるのとでは、効果も結果もまったく異なってくるのである。
これを毎日サッカーノートをつけたり研究ノートをつけたりして生活するものとそうではないものとでは、1ヶ月、半年、1年、5年、そして8年と経つと、8年前は同じチームでプレーした同じレベルのサッカー選手であったとしても、方や日本代表のトップ選手となり、方や普通の若者というような差になってくるのである。
(い)松井秀喜選手の言葉ーー勝者のメンタリティー
もう一つは、星稜高校が準決勝を戦う前日に当時ヤンキースの松井秀喜選手から応援メッセージが送られたようである。その中の言葉:
「勝負事は、やるからには勝つつもりでいかないと何も残らない。」
という言葉を送ったらしい。それを高校生の本田圭佑選手が神妙にうつむき加減でじっと聞いていた場面がある。
どうもその後の本田圭佑選手の言動やプレーや進路を観た限りでは、本田選手はこの言葉にかなり忠実に行動してきたように見える。もちろん、今回のコンフェデ杯でもそうであるし、その前のW杯予選の時もそうである。
結局、本田圭佑選手に「勝者のメンタリティー」がもしあるとすれば、それは松井秀喜選手から来たものであると考えて間違いなさそうである。実に興味深い。松井秀喜選手はもちろんワールドシリーズで優勝を経験している。
繰り替えしメモするが、
「勝負事は、やるからには勝つつもりでいかないと何も残らない。」
というわけですナ。
今後は日本代表を選ぶ場合には、「選手の持つメンタリティーをもっと重要視すべきだろう」ということになる。香川、清武は論外、内田、吉田、今野、川島、長谷部でもまだまだ物足りないのである。今のところ、本田と長友しかいない。この二人に続くメンタリティーを持つものを23人集めなくてはならないのである。イタリア人のザッケローニには荷が重そうですナ。かといって、また岡ちゃんでは絶望的だ。
いやはや、日本サッカーも世も末ですナ。
by kikidoblog | 2013-06-18 20:00 | サッカー&スポーツ