岡潔 「人とは何かの発見」:いまこそ岡潔博士の言葉に耳を貸そう!
今回も岡潔博士の生前の講演をメモしておこう。「人とは何かの発見」という1972年に東京で行われた講演である。以下のものである。
岡潔 「人とは何かの発見」の解説
この中で、特に印象に残る部分だけ、私の独断と偏見で取り上げてメモしておこう。あとはご自分でどうぞ。
(あ)まず、岡潔博士は「生物と無生物をどのように捉えていたか?」
【 1】 生物と無生物
とも角、人とか自分とか云うものは一体何だろうと云うような事が、先ず問題になりますね。ところが自然科学はこう云ってます。自然科学と云う学問は有りませんが、あそこで皆、色々働いて得た知識、これは使えるものはできるだけ使うのがよい、そう云う事は云えます。
わたし達、今から20億年前と習いましたが、地球上に単細胞生物が出た。今は50億年前と云ってる様ですが、これはどっちだって大して変りゃしませんが、この単細胞生物ですがね、西洋人はそれが出るまでの自然、地球などと云うものは全く無生物だと思っている。そうして、そう思って説明しようとした。で、無生物、この物理とか化学とかを作っていって、いよいよ生物となった時、単細胞生物に出会いますね。
この単細胞生物がどうして現われたと説明するかと云う、大問題に出会いますね。こんな事始めから明らかなんですね。やって見なくたっていつかそこへぶち当るに決まっている。無生物から生物が生れるなんて説明できやせんに決まっている。欧米人どうしたかと云うと、説明つかんもんだから、他の星から飛んで来たんだろう、それで止めているんです。
ここで、岡潔が「自然科学と云う学問は有りませんが」という意味は、自然科学は「学問」というほど(つまり、数学のような厳密精密科学)のものではなく、単なる「思想」だという意味ですナ。
これなど、本当に岡潔の思考法を端的に表しているといえるだろう。岡潔は、「物事のその本質を見抜き、それを一言で語る」、これを繰り返して数学を行ったのである。だから、常に「物事の核心は何か?」、これを突き詰めることが第一。余計な説明や言い訳などいらん、というやり方である。真に「学究」である。
だから、ギリシャに端を発した「自然科学」は、まさにそのギリシャに端を発した一つの「哲学思想」にすぎない。そう言っているわけだ。だから比較検証や物的証拠に基づく、あるいは現実な証明に基づく「学問」とは違う。そう言っているということですナ。
私が知るかぎり、世界でも我が国でもここまではっきりと「自然科学は単なる思想にすぎない」と明言した人は、岡潔博士のみである。
おそらく、こういう観点にたどり着いたのは、日本の禅の高僧であった道元禅師の「正法眼蔵」を学んだことから来たらしい。日本人必読書であるという。
(い)次に、岡潔博士は、かつて湯川秀樹は「老荘思想」に基いて、西洋科学と東洋科学の比較をし、そこから素粒子論に革命を導いたことが知られているが、これと似て、またまったく独立に、「老子の自然学」との対比で、西洋自然学の欠陥を指摘している。
つまり、西洋人は「生物と無生物」を区別するが、自然はそういう区別はしないという考え方である。
【 2】 老子の自然学
物理とか化学とか無生物と云うものを、そんな風に見て来たんだったら、生物学のこの一番核心はこの単細胞生物と云う、その頃、まだビールスと云うもの分ってなかったからビールスでもかまいません、単細胞生物と云うものが、いかにして無生物ばかりのところへ出たかと云う事が学問の核心であるべきです。
が、そこを、他の星から来たんだろうと逃げてしまってる。それなら同じ事です。その星に於いて、どうして単細胞生物が最初出たか、又、他の星から来たって逃げたって、今度は、またその星に於いてとなるからいつ迄たったって、これじゃ逃避であって問題が解決せん。無生物から生物が出たとするのがそもそも無理なんです。間違いなんです。
実際不安定な素粒子、見てごらんなさい。生れて来て、又、消えていって了っている。無生物とは見えない。東洋では自然を無生物だなどと思ってやしない。これは直感なんでしょうね。老子の自然学と云うものは、自然は無生物だと思ってやしませんし、日本の古事記だって国は神が生んだとして、生物と無生物との間に区別を置いていない。これが正しいでしょう。これは直感でしょう。欧米人だけが無生物だと思うらしいですね。
欧米人は無生物から生物が生れる、と、無生物が生物を生む、つまり、体が心を作ると云う風にしか思えない。それから五感で分らないものはないとしか思えない。この二つの非常な間違いを始めから持っているんですね。
この「老子の自然学」とは、こんなものらしい。解説者の横山氏がこう書いている。
その「老子の自然学」を次に挙げてみます。ここで、「無」とは、仏教では「空」。「息」とは振動のようなもの、最近では「波動」という言葉にあたる。次に「生」とは、「無生物」のこと。「命」とは、「動植物」のこと。「悟」とは、東洋の理想である「聖人」のこと。
「先ず天地開闢(てんちかいびゃく)のはじめ、無(む)に息(そく)が現れる。そうすると生(せい)が生まれる。次に生が生たるを失わないで、命(めい)が生まれる。更に生が生たる命が命たるを失わないで、悟(ご)が生まれる」
これが極めてシンプルではあるが、ダーウィンの進化論とは全く趣きを異にする「老子の自然学」といわれるものです。
つまり、老子はこう言っているということになる。
この宇宙では、最初に無から始まり、息(波動)が生まれる。次に「生(無生物=物質)」が生まれる。そして「命(動植物)」が生まれる。そして最後に「悟(聖人=覚醒者)」が生まれる。
無→息→生→命→悟→
したがって、東洋人が「生命」という意味は、「生」=「無生物」と「命」=「生き物」=「生物」の両方をいっしょに生命=ライフ(life)と考えているという意味である。そして、岡潔博士は、「これが直感にあって正しい」と言っていたというわけである。
(う)次は「造化(ぞうか)」という言葉が出てくるもの。この「造化」とは、万物を創造するものの意味だが、これはいわゆる西洋人のいう「万物の創造主」=「神」というものと区別するために、わざわざ「造化」と呼ぶことにしていたようである。
【 3】 造化の冥助
で、20億年前に、50億年前かも知れませんが、単細胞生物が地上に現われた。この単細胞生物が進化して人になったんですね。身体だけ見てみましても、人の身体は非常に数多くの細胞から成っている。その細胞の配列は、実に精緻を極めたものです。単細胞がこんな生物、身体に進化した。これ実に不思議ですね。
あなた方は、人が、自分でここ迄向上したんだと思いますか? そんな事思えんでしょう。造化が向上させてくれたんだとしか思えないでしょう。造化が単細胞を向上させて人の身体にまで持って来たんです。
じゃあ、そうして一旦人と云うものが出来てしまったら、後は造化の手を放れて、自分だけでやれるか。振り返って見ますと、赤ん坊が生れる時、最初は母の胎内に単細胞として現われますね。それが細胞分裂を起して、そして人の身体になるんですね。これは、人が自分の力でやってるんでしょうか? そんな事思える人ないでしょう。やっぱり造化にやってもらっている。
だから一旦、人になってのちも、絶えず造化によって人の五体を作ってもらっている。こう考えた方がずっとよく分るでしょう? 人がやってるなんてとても思われやしないでしょう。じゃあ、そうして、ちゃんとした身体を備えた人になれば、後は自分でやっているでしょうか。
この後半部分が実に面白い発想である。
我々がいわゆる「進化」というものを信ずれば、そしてもしそれをこの宇宙の「造化」がやったと思えるだろう。だったら、人が受精卵からかえって徐々に人の形になり、それが出産を経て、人として生まれ、さらにそれが成人になり、人の一生を終える。これもまた、人がやっているというよりは、「造化がやっている」と捉えるほうが理にかなっている。そういう主張である。
実は、ここが日本人と外人のもっとも基本的な世界認識の差なのである。
よく我々日本人には「生かせてもらっている」というような感じの言葉を言う人がいたり、言わないまでも、そう思うというのがだいたいの人はその意味を理解できる。ところが、西洋人にはまったくこういう感性がないのである。
日本人は、「人はこの宇宙に生かせてもらっている」という主張は実に自然に聞こえるが、西洋人はこれが理解できないのである。おそらく、「うまみ」や「和食の健康食」の問題と同様に、科学的に証明されるまでは信じないだろう。
こういった西洋人独特の特徴が、今の世界の荒廃に導いたという意味合いで、岡潔は批判しているわけですナ。
(え)途中ははしょり、この問題を野球や執筆にたとえている部分がある。次のものである。
【 9】 野球と原稿
まあ野球なら野球ですが、練習すれば上達すると思っている。練習すれば何故上達するのか、練習するのは人であって、上達、これはするのではなく、させてもらっているんでしょう。する事も有ればしない事も有る。練習すれば必ず上達するとはいかんでしょう。で、云える事は、練習しなかったら上達しないと云う事だけでしょう。
勉強すれば偉くなると云うのだってそうです。勉強すれば偉くなるとは限らない。勉強しなかったら偉くならないと云うだけです。偉くなる方はどうして偉くなるのか分らないし、偶然偉くなっているんです。そうなってるんです。偉いって一体何がどうなったことか分らないのですけれどね。
例えば原稿を書いてみると、読んでみると、うまく書けてたりするから偉くなったと云ってるんだけど、その原稿は一体自分が書いているのか造化が書いてくれているのか分りやしません。
読み直して直す段になって、これは自分がやっているんだと云える。「あなたは何故こうお書きになったのか」と聞かれても答えられやしません。「あなたはどうして、ここをこうお直しになったのか」と聞かれたらこれは答えられる。その辺からハッキリ自分です。
野球がうまくなりたきゃ、サッカーがうまくなりたきゃ、練習するほかはない。だけど、練習したからといっていつもそうそうにうまくなるわけではない。あとは神頼み。造化頼みだろ。結局、うまくなるかどうかは神のみぞ知る。しかし、練習しない限りそれはない。そう言っているわけである。
まったく、その通り。
何事も為せば成る。ならんはならん。
とはいうものの、本当にそれがなるかどうかは、だれにも分からない。この世界とはそんなものだ。そういっているわけである。
あとから見たら、俺はあの時こういう偶然が重なって、今の俺になった。
そう分かるだけだ。そういうものだよ。そういっているわけですナ。実に深い。
(お)そして最後に結論。これを終生、岡潔博士は繰り返し語り続けたのである。
【10】 人類の思い上がり
人はこんなものなんです。それで何よりも皆さんに御相談したいんですがね、今、人類の思い上りは目に余る。このまま捨てておけば千年も経たない内に人類は亡びてしまうだろう。
実際、造化にそう云う風な人の心があって、そして、ああしよう、こうしようと云う風にするものならば、造化はそんな事しませんが、もしするんだったら、人などと云う悪い動物は一刻も早く亡ぼしてしまわなければ地球上の動物や、植物はひどい目に逢う、実にひどい目に逢うと思うでしょう。
だから自分の無知無能を知って、このひどい思い上りだけは止めようじゃありませんか、そう提議したい。まず日本人だけがそれを止め、次に世界にそれを提議するのが人類に対する急務だと思う。その為には、自分が如何に無知無能であるかを良く見ればよい。これは大脳前頭葉を使ってやれる。意識を通してやれる。
自然科学などと威張ってましたが皆間違ってるでしょう。その上に組み上げた一切の文明などと云うものは、有りやしません。この、自然は何故か分らないが、造化は物質に法則あらしめているんです。それだけを知ってそしてその法則を探り、それを組み合わせているのが人類の文明です。全然威張られやしない。
人がこの思い上りを捨てたら、人は如何に生きるべきかと云う事を、又思い出すだろう。で、これが一番言いたい事だったんです。
己の無知の知。思い上がりをやめる。
これしかない。人類の滅亡を止めるには、これよりほかにない。そう岡潔博士は考えていたのである。
まあ、私が付け加えれば、「人類」という部分は、それに「朝鮮人」や「支那人」や「イルミナティー」や「アメリカ人」でも「日本人」でも、なんでもいいから入れ替えてみることができるということである。そのほうが分かりやすいだろう。もちろん、岡潔博士はこういうものを全部ひっくるめて「人類」と言っている。
そして、一番最初に日本人が己の無知を知り、思い上がりをやめよう、といっていた。これが岡潔博士の一番言いたいことだったのである。
いまこそ、謙虚にこの岡潔博士の言葉に耳を貸そうではないか。
おまけ:
ついでに、なぜ私がわざわざここに岡潔博士の思想をメモしているのか?という理由をメモしておこう。
岡博士の言説を見れば分かるように、東洋人の偉大な先駆者たちは、けっしてこの宇宙やその構造を西洋人や西洋の哲学者のようには捉えていなかった。宇宙は「ユニバース(単一宇宙)」とか「マルチバース(多次元宇宙)」とか、「パラレルワールド(平行宇宙)」とか、そういうふうには捉えていなかったのである。
無生物と生命、無から有がどうして生まれるのか? 無生物から生物がどうして生まれるのか?こういう捉え方もしていなかった。むしろ、無と有は不一不二のもの、不可分のものと捉えていたのである。
だから、エイリアンとチャネリングした、エイリアンがこう言っていた、宇宙人に見せられた、などといって、「この多次元宇宙が〜〜」どうたらこうとか、「実はこの宇宙はパラレルワールドなんです」とかいって、チャネラーやら、なにやら言っていたとしても、そこで使われている語句やキーワードが、そういう西洋人そのものの発想から来ているものしかない、そういうものだけで埋め尽くされているとすれば、すべてまやかしにすぎないというわけである。
なぜなら、もし本当にそれがエイリアンの主張であるならば、むしろ東洋思想も西洋思想もすべて超越したもの、人類を超越した思想でなくてはならないはずだからである。いくら普通には理解しがたくとも、その筋の最先端の(まあ、そう自称する)物理学者が作った言葉や概念だけで語られているとすれば、それは恣意的なもの、つまり、だれか工作員が行なっている、一種のキャンペーンだと考えるべきである。そういうことになるわけだ。
西洋人の思考にはかなり制限や欠陥がある。だから、それが一種特有の頭の使い方によって、これまた特有の認識の仕方をしてしまう。3次元でうまく行かなきゃ、4次元だ。それでもだめなら10次元だ。こういう発想は西洋人特有だと岡潔は認識しているのである。
まあ、私が岡潔の思想から類推するに、次元というものは、一種の絵を書く紙のようなものだから、あるいは何かを詰めるボックスのようなものだから、いくらそういうものを増やした所で宇宙を理解することなど無理。むしろ、岡潔の「層の概念」(おそらく、これは禅の思想から来たと考えられる)に基いて宇宙の構造を考えたほうがリアリティーがあるようにみえるのである。
層とは、人間には「10識」あるというような話の時の「識の層」=「認識の多重構造」のようなものをいう。そしていわゆる動物の「五感」から始まり、最後の「宇宙の情」に至る、「層状構造」でできているのだ。そういうふうに宇宙を見る方が「パラレルワールド」やら「マルチバース」だなどというより、よりわかり易く真実に近いのである。
しかしこれまた、ここで、そういうものを西洋人であるスウェーデンボルグやらだれそれの書いた西洋人型思考で「射影」してしまった「宇宙の構造」やら「生まれ変わり(リインカーネーション)」やらに焼き直してしまえば、これまた西洋人の思考の欠点を遺伝することになるわけですナ。
老子や道元など東洋の偉人はそういうふうには見ていなかった。
老子や道元も地球人の一人にすぎない。
だとすれば、エイリアンが教えてくたものであれば、老子の自然学や道元の時の認識、そして西洋人の自然科学者の考え方もすべて超越しないとおかしいのである。
私がスピリチュアルの人のいう、チャネリングの相手の思想がいくら一見もっともらしくとも、それが人が作ったものか、本当にエイリアンが作ったものかを見極めることは実に簡単なことなのである。
大半は西洋人のそのご本人が自分で作ったものを、あたかもあっちの世界の人が教えてくれたかのように言っているにすぎない。つまり、一種の病気なのである。
とまあ、そういうことを知るための一つの前提として、ここに岡潔の思想をメモしていたというわけですナ。
まあ、分かる人にしか分からんだろうがネ。まあ、おれにはどうでもいいことだがナ。
by kikidoblog | 2013-07-09 10:49 | 人物