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古代朝鮮半島地域の「建国神話」の数々:建国神話なんていうものは大方嘘だろうヨ。

みなさん、こんにちは。

このところ極東地域の歴史に取り憑かれてしまったが、それぞれの古代の国々の、いわゆる「建国神話」というのも実に興味深い。その民族特有の精神構造が如実に出ているように見えるからである。そこで、いくつか極東地域で有名な古代の国々の「建国神話」をメモしておこう。


(あ)高句麗
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詳細は「東明聖王#建国神話」を参照

『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に夫余の王族である朱蒙(チュムン)により建てられたとされる。

朱蒙の母は東扶余王の金蛙と出会った際に、黄河の神の娘を自称し遊びに出た先で天の子と出会い軟禁されていたと訴えたが、信用されず東扶余王の元に連れて行かれた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。金蛙は卵を動物に食べさせたり踏ませたりしようとしたが動物や鳥は卵を守ったため卵を母親へ返し、暖めていると朱蒙が産まれた。朱蒙は子供の頃から非常に弓が上手く(朱蒙は弓の名手の意味)、これを危険視した夫余の人々は朱蒙を殺すよう勧めるが王は拒んだ。その後、馬飼いをしていたが策略によって王を駄馬に乗せ自らは駿馬を手に入れると、夫余の人々は再び朱蒙の殺害を企てるが、危険を察知した母の助言により友と共に脱出して卒本へ至り高句麗を建てたという。


(い)夫余
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『論衡』(『後漢書東夷伝』『魏略』)に
「昔、北夷の索離国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身篭りました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。」という記述がある。

また『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。
『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。


(う)百済
百済の建国神話は『三国史記』百済本紀などの朝鮮史料に様々な話が伝えられているが、いずれも高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている[4]。

前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が百済を建国した。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄していないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になったという。また初め百家で海を渡ってきた(百家済家)ので「百済」とした[5]、ともいう。


(え)新羅
どうやら新羅には3つの建国神話が存在するらしい。
朴氏の始祖説話
朴氏初代の朴赫居世
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある[11]。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英(アルヨン)とを二聖と称した。

昔氏の始祖説話
昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
多婆那国の比定地
この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国[12]、但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。

金氏の始祖説話
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。

赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており[13]、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。

新羅についての隣国の記述
日本での伝承
稲飯命(古事記では「稲氷命」と書く)については、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄[14])だとしているが詳細不明[15]である。

天之日矛(日本書紀では天日槍と書く)については、記紀や風土記などに伝承がある。天之日矛は新羅の王子だったが王位を弟の「知古」に譲って自分は継がず、日本に帰化したという。彼は最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着し、三宅連氏の祖先となった。天之日矛の渡来は古事記は応神朝[16]、日本書紀は垂仁朝[17]、風土記は神代[18]のこととし、伴信友は天之日矛から多遅麻毛理までの世代数から計算して天之日矛の渡来は孝霊天皇の時代のことと推定している。いずれにしろ、なぜ新羅風の名前でなく純然たる和風の名前なのかは謎[19]である。

新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の三始祖のうち昔氏の始祖脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)という。昔脱解は船で渡った倭人と見られ、その出生地は諸説あって現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多い。

中国での伝承
隋書新羅伝によれば、3世紀の中頃、魏の将軍毌丘倹が高句麗を撃破し、高句麗王の位宮(東川王)は沃沮に逃亡した。位宮はその後、高句麗に帰還したが、沃沮に残留した部隊があり、彼らは南下して辰韓の先住者を破り新羅を建国したという。別の伝承によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて金真平に至った。その先には百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するのに因って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、因って百済を襲い、迦羅国を附庸とした。


(お)任那
建国神話なし

狭義の任那説
狭義の任那は、任那地域に在った金官国(現代の慶尚南道金海市)を指す[3]。中国及び朝鮮史料の解釈ではこちらの用法が多いが、『日本書紀』では532年に金官国が新羅に征服されてからも、それ以外の地域が相変わらず任那とよばれているから『日本書紀』の用法は後述の「広義の任那」である。

広義の任那説
広義の任那は、任那諸国の汎称である。後述の諸史料のうち日本史料では任那と加羅は区別して用いられ、任那を任那諸国の汎称として用いている。中国及び朝鮮史料の解釈でも、広義では任那諸国全域の総称とする説がある。百済にも新羅にも属さなかった領域=広義の任那の具体的な範囲は、例えば478年の倭王武の上表文にみられる「任那・加羅・秦韓・慕韓」にて推測できる。ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は上記の「狭義の加羅」=大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など[4]。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する。『日本書紀』ではこれらの総称として任那という地名を使っているが、これらはこの後、徐々に新羅と百済に侵食されていったため、時期によって任那の範囲は段階的に狭まっており、領域が一定しているわけではないので注意が必要である。


(か)加羅(伽耶)
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建国神話なし。

倭国および任那との関連
詳細は「任那」および「任那日本府」を参照

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたことが有力視されている[13][11][14]。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで[15]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した[16]。

また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見されている[17]。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の西隣であり、金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[18]。そのほか、新羅・百済・任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られること[19]や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[20]ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

任那地域については、日本が大陸での影響力を失い任那加羅が百済新羅両国により占領された後も、新羅と百済は倭国に対して任那地域の調を収めていた記録が残っている。

「日本産のヒスイ製勾玉」って、
有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵

倭国の真ん中に「阿蘇山」があって、その阿蘇山は火柱を昇らせて天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。宝珠(宝玉)を自在に操り、その色は青、大きな鶏卵のようである。

邪馬台国論争:いにしえの昔から日本男子と日本女性はカッコ良かったんだヨ!
のことだよネ。

つまり、勾玉のようなもののこと。
勾玉
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ちなみに、我が井口家は甲州の宝石屋(宝石加工業)がその先祖。甲府には太古から勾玉工場が存在した。だから、きっと邪馬台国の時代から我が先祖は勾玉を作っていたに違いありませんナ。

ところで、
山梨県立宝石美術専門学校山梨県立宝石美術専門学校
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山梨県立宝石美術専門学校(やまなしけんりつ ほうせきびじゅつせんもんがっこう)は、山梨県甲府市の専修学校。設置者は山梨県であり、日本で唯一の装身具(ジュエリー)を取扱う公立系専修学校である。
山梨県の地場産業である宝石装飾の人材育成のために作られた学校であり、卒業生はその後数年の産業経験、ジュエリーマスター認定制度の認定を経て装飾品職人になる。

の設立を提案し、それを実現したのが、我が家のご先祖、つまり、私の祖父と叔父と父親だったんですナ。

なんでもそうだが、今いる連中というものは、創立時のことや、その前がどうだったか、なんていうことは、これっぽっちもご存じない、”後から来た”人間たちにすぎないものサ。このウィキをみれば、まるで山梨県が作ったかのように見えるだろう。が、私の父親たちが何度も必死で陳情した時にさんざん邪魔してくれたのが県の公務員たちだったんだヨ。さんざんいちゃもんをつけて何度も潰そうとした。それを長い時間かけて説得し、やっとのことで実現した。そういうのが本当の歴史だ。私は中高生時代にそれを外目から聞いたり見ていて知っていた。が、そういうことはすべて削除して美味しいところだけを後世に残す。おそらく、建国神話なんていうものはみんなそんなものだろうと俺は思うがネ。


おまけ:
よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】


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  by kikidoblog | 2013-10-08 11:48 | 真の歴史

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