今日は私の誕生日:「清王朝崩壊」から「日本軍南京入城」までの歴史!これが真実!
今日は私の56回目の誕生日。なんと主夫で主夫の寿命の50歳を突破できた数少ない主夫である。
さて、今日偶然面白いものを見つけたので、それをここにもメモしておこう。以下のものである。
2013年10月13日11:00
アメリカ人「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」中国人「資料に載ってないから分からない
元記事:2013年10月13日11:00
アメリカ人「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」中国人「資料に載ってないから分からない
【中国ブログ】南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?
南京大虐殺に対する日本と中国の認識には一定の溝が存在するようだ。中国側は2―3カ月という期間に30万人の中国人が日本軍によって虐殺されたと主張している。このブログは中国人ブロガーが南京大虐殺が行われていた期間中、中国の軍隊は何処で何をしていたのかという質問に対しての考えを綴ったものである。以下はそのブログより。
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米国人の友人と食事をした際、一つの質問を受けた。
「中国人はずっと、日本人は南京大虐殺で中国人を大量に殺害したと言っている。この大虐殺は2―3カ月もの間続いたと言っているが、その間中国の軍人はどこにいたのか?2カ月も続いていたとすれば、どこにいても駆けつけることができたはずだ。日本軍人はわずかに5000人だったそうだが、中国軍はなぜ南京の市民を守らなかったのか?」
以上が、米国人の友人から受けた質問だ。私はこの質問を聞いて唖然としてしまった。私はこれまでこのような問題について考えたことが無かったし、私の周りの人間も考えたことが無かっただろう。
米国人の友人は私に「当時、共産党や国民党は一体何をしていたのか?」と尋ねてきたが、外国人たちは、これについて、「彼らは旨いものを食っていたに違いない」と言っていた。私はこれに対して、それはあまりにも誇張された考え方だと反論したが、確かに良い質問だと感じ、帰って調べ、後でメールすると答えた。
資料を調べて分かったのは、当時南京に侵攻した日本軍は5000人ではなく6万人であったことと、南京にいたのは多くの売国奴であったということだった。友人からの質問は私を大いに混乱させることとなった。また、私はGoogleで検索したのだが、何の資料も見つけることができなかった。当時、中国軍が何処で何をしていたのか、一切の記述が無いのである。私は友人に対してどのように答えれば良いのだろうか?(編集担当:畠山栄)
いかに現在のアメリカ人と中国人が馬鹿かよく分かる。
簡単に言えば、いわゆる「南京大虐殺」に至るまでには、20年ほどの重大な歴史的流れがあった。それは、次のようなものである。
明治44(1912)年、清王朝の崩壊
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明治44(1912)年1月1日に、南京で孫文(そんぶん)が中華民国臨時政府を樹立
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大正5(1916)年、袁世凱(えんせいがい)が、中華帝国を名乗り、初代皇帝に即位
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大正6(1917)年、ロシア革命
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大正9(1920)年、「尼港事件(にこうじけん)」
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昭和3(1928)年5月3日、「済南事件(せいなんじけん)」
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昭和12(1937)年7月29日、「通州事件(つうしゅうじけん)」
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昭和12(1937)年12月17日、日本軍の「南京入城」
ところが、いつしか「南京大虐殺」を元朝日新聞記者の本多勝一と社会党の田辺が言い出す。そして、それに乗じて、まだインターネットも写真技術もそんなに発展していなかった頃だから、昔の尼港事件や済南事件や通州事件の写真や映像をミックスして「南京大虐殺」を捏造した。
どうやらこれが真実の歴史である。
(あ)「尼港事件」
まず最初に「尼港事件」があった。これはこんな事件であったらしい。
そうした中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」です。
「尼港事件」というのは、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、支那人約四千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)にいた石田領事以下約七百名余の日本人居留民を虐殺したという事件です。
その様相は、まるで映画バイオハザードでゾンビの大軍に取り囲まれた少数の人間の戦いそのものです。衆寡敵せず、日本人居留民は極めて残虐な方法で全員殺害されています。
済南事件より
(い)「済南事件」
その次に昭和3(1928)年5月3日に「済南事件」が起こった。これは、山東省の済南の場所で南軍の総司令官であった「蒋介石」の軍が引き起こした虐殺事件であった。これは、こういう事件であった。
このとき南軍の総司令が蒋介石です。
蒋介石は、「治安は国民党軍が確実に確保するので、日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本に要請してきました。
目の前で戦いが行われているのです。
そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、軍事的にはあり得ません。
けれど、現場は、中央の指示によってこれを受入れ、5月2日に、バリケードを撤去したのです。
そして事件は起こりました。
ことのおこりは、蒋介石の国民党軍の暴兵が、満州日報取次販売店を襲撃して掠奪を働いたことにはじまりました。
ここで注意したいのは、昨今の支那の反日デモのような「暴徒」ではなく、当時済南であったのは、武器を持った兵であったということです。
武器がなくても、あれだけ暴れ回るのが支那人です。
それが武器を手にしていたら、どうなるか。
暴兵たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えました。
知らせを受けた日本陸軍は、急きょ救援部隊を現場に急行させました。
すると支那兵たちは、たちまち遁走し、国民党の兵舎に隠れて、銃撃を加えてきたのです。
やむなく日本軍はこれに応戦しました。
すると今度は、市内のあちこちで、一斉に国民党兵による乱射や掠奪、暴行がはじまったのです。
日本側は、全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけました。
現に、そのすこし前の日に、国民党の総統であり、最高司令官である蒋介石みずからが日本軍の司令の前で、「済南の治安は国民党が守る、日本人は一切を国民党に任せて、バリケードも解いてよろしい、安全は自分が保証する」と約束しているのです。
ところが白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使にさえ、支那兵は銃撃を加え、一方的に射殺しました。
市内全域は、たちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺されたのです。
この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っています。
この事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が、凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けました。
当時の外務省公電にある公式文書です。
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腹部内臓全部露出せるもの、
女の陰部に割木を挿し込みたるもの、
顔面上部を切り落としたるもの、
右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れるもの各一、
陰茎を切り落とし・・・(以下略)
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現場を視察した南京駐在武官佐々木到一中佐の手記です。
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予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、
婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した。
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ちなみに上にある女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師なのですが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件の支那人被害者として流用し、展示しています。
この蒋介石こそ、第二次世界大戦中に結局台湾に逃げていって初代台湾総統に収まった人物である。簡単にいえば、島流し。悪党の追放である。
(う)「通州事件」
日本は何度も何度も残虐な虐殺によって民間婦女子が被害を受けていたのに、弱腰外交で相手の口車に乗ったばかりにさらにまた大虐殺事件を受けたのである。それが「通州事件」であった。
「通州事件」は、1937年7月29日に起こった。中国の北京の西の通州という場所で、日本軍が手薄になった時を見計らって、中国保安隊と学生による前代未聞の民間婦女子の大殺害事件が起こったのである。それを「通州事件」と呼んでいる。
が、しかし、これはほとんど日本でも韓国でも中国でもアメリカでも世界中の普通の歴史書には載っていないらしい。だから、実質上はだれも知らなかった「痛〜〜い歴史」なのである。
その証拠はこれ。
通州事件から学ぶべきことより。
7月29日は、日本人のみならず、人類史として決して忘れてはならない「通州事件(つうしゅうじけん)」が起こった日です。
事件が発生したのは、昭和12(1937)年7月29日のことです。
ねずブロでこの事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことですが、当時この事件について知る人は、限られたごく一部の人たちだけでしたし、事件そのものについても、名前を聞いた事があるくらで、それがいなかる非道行為であったかについてまで知る人は、ほとんど稀という情況でした。
いまは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、もっと多くの人に、日本の常識、世界の常識として知っていただかなくてはならない、まだまだ拡散し続けなければならない事件であると思っています。
(え)「南京入城」。
蒋介石や暴徒化した中国人の暴挙によって南京が非常に不安定な状況になったために、ついに日本軍が制圧に向かった。そして、南京に平穏を敷いたのが日本軍の「南京入城」であった。これである。
これが真実、南京入城だ!
南京市民の虐殺などしていないと証言する元日本兵の方々
映画 南京の真実 記録映画編(上海~南京陥落)
この日本の南京入城によってカオス化してしまっていた南京に治安が戻り、平和が訪れた。結果として衛生状態もよくなって人口も増大した。これが真実の歴史である。
なんかどこかで聞いたような話ではないだろうか?
そう、韓半島の韓国併合の歴史とまったく同じなのである。日本が併合した結果、人口が倍増、治安増大、経済発展。しかし、日本の敗戦と同時に歴史が捏造され、すべてを逆にした。
というわけで、最初の米国人の質問に対する答えはこれだ!
アメリカ人「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」
日本人「中国軍がそこら中で日本人の民間婦女子を陵辱虐殺していた。それで、日本軍が征伐に入った。だから、中国軍は女子どもを陵辱虐殺していただけだった。日本軍が入ったら、中国軍はどこかに逃げ去った。捕まえた凶悪犯を見せしめに死刑として射殺しただけだった。」
まあ、そういうわけだヨ。
いやはや、いったいシナ人や韓国人や朝鮮人の脳みそは糞でできているんだろうか?
謎である。
まいったナ〜〜、えらい誕生日になってしまったものですナ。
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by kikidoblog | 2013-10-13 14:57 | 真の歴史