ファミリービジネス1:山梨県立宝石美術専門学校設立
以下は、山梨県甲府市に特化した話題である。他の地方の人たちにはあまりおもしろい話でもないからパスをお願いしたい。
今回久しぶりに山梨に私用で行って来た。56年の人生で初めて同窓会なるものに参加したのである。大学、高校、中学、小学校もふくめて人生で初参加。その目的はお別れするためであった。というより、そう簡単に徳島から山梨までその都度参加できるということはないから、40年ぶりで会うためであった、つまり、ひょっとしたらこれが会うのが最後になるかもなというご挨拶をしたいというためであった。
もうすぐここ阿南の生活が私が山梨県の甲府に生まれてから生後過ごした18年を超える。実質的にこちらのほうが故郷になりつつあるのである。
しかしながら、さすがに幼少期の記憶というものは、いっけん記憶の彼方に忘れていたと思っていたことであったとしても、その場所やその人物を見たりするとしばらくしていろいろと昔のことが思い出してきたから面白い。40年ぶりで会うと、40年前の子供時代の姿形しか知らず、今あった56歳の中年の姿形とはまったく違ってしまっているためにまったく最初はだれがだれだったかわからなかった。にもかかわず、しばらくしていると、突然に昔のあいつかというような感じで、ふと今のイメージと昔のイメージが重なりあって、二重になってみえるような感じで徐々になんとなく面影がわかってくる。
これは実に面白い経験であった。
非常に変わったこともあれば、まったく変わらずに残っているものもある。
特に、面白かったのは、見た目のというハード(物体的)のことばかりではなく、行動やその行動する様のような、動きや反応のしかた、こういうものにその人の昔の面影を見ることが出来たということである。要するに、その人物の癖は相変わらずだったということである。ほとんど変わっていなかった。
それを見るにつけ、やっぱりあいつかという感じでますます昔を思い出す。返事の仕方、ボケのかましかた、反応のしかたなど昔のままだったのである。
いまではみんな白髪、ハゲ、デブなど、いいおやじさんたちいいおばさん、いい爺さん婆さんになっている。ちょっと目では昔とは似ても似つかぬ姿に変わり果てていた。が、基本的には昔のままの部分が残っていたというわけですナ。
さて、そんな感じで山梨のことを思い出したついでに、我が家のファミリーヒストリーに関係する、山梨県甲府市の宝飾産業の歴史をちょっとメモしておこう。我が家の仕事の話である。(注:ちなみに我が家の仕事は私も兄弟のだれも継ぐこと無く、すでにだいぶ前に廃業してしまったのである。)
というのも、今回40年ぶりで甲府の人たちと話てみても、山梨県甲府の人達自体があまり地元の本当の歴史を知らないようだったからである。山梨県の人たち、特に宝飾産業で生きている人たちは常識として知っておくほうがいいのかもしれない。関心を持った人は自分で調査研究することをお勧めする。
時系列的には、普通の記述と正反対に徐々に古い話になっていく。私の遠い記憶をまとめているので、間違いがあれば、適当にご自分で修正しながら読んでもらいたい。
(あ)山梨県立宝石美術専門学校の設立
以前
古代朝鮮半島地域の「建国神話」の数々:建国神話なんていうものは大方嘘だろうヨ。の最後にちょっと付け加えておいたことだが、山梨県には
山梨県立宝石美術専門学校(山梨県立宝石美術専門学校)
山梨県立宝石美術専門学校(やまなしけんりつ ほうせきびじゅつせんもんがっこう)は、山梨県甲府市の専修学校。設置者は山梨県であり、日本で唯一の装身具(ジュエリー)を取扱う公立系専修学校である。
山梨県の地場産業である宝石装飾の人材育成のために作られた学校であり、卒業生はその後数年の産業経験、ジュエリーマスター認定制度の認定を経て装飾品職人になる。
というものがある。このウィキの説明にあるように、県立である。つまり、県がお金を出している。
こういうと、あたかも「山梨県の県庁の地方公務員がこういう学校の構想を練ってこの学校を設立した」と読めるだろう。しかしこれは事実ではない。真っ赤なウソである。
この学校の設立を提案し、それを実現したのが、我が家のご先祖、つまり、私の祖父と叔父と父親である。特に、実質的に事務処理を全部行ったのは、私の父、井口實(みのる)であった。当時、株式会社井口製作所社長、県宝石組合長、宝石画業者会長などいくつかの企業組合の代表を務めていた。
私の父は井口家の次男、長男が美馬貴石(みうまきせき)の社長井口美一(故人)、三男が井口章三(故人)。私の祖父の井口章(あきら)(故人)の会社をこの長男が継ぎ、三男が実家を継ぎ、いっしょに美馬貴石で働いていた。すでにみな故人となり、現存しているのは我が父のみである。
私の父は戦時中に学徒動員で戦地へ赴く準備をしていたが、終戦後実家に戻ったのはいいが、次男のために独立せざるを得なかった。そこで戦後の不況期に、最初は実家の下請けをしながら1人で工場を構えて生活をした。そんな貧しい時代の昭和32年に4畳半一部屋の家で私が生まれた。(正確に言えば、出産の時だけ他人の家の部屋を借りて産婆さんの手によって生まれた。)
1950年代の不況から1960年代に入り高度成長時代に入って、我が家も徐々に大きくなり、最初は甲府青沼あたりの4畳半、そこから高畑町に引っ越し、幼稚園2年と小学校6年の8年間そこに住んだ。そして中学に入る頃に青葉町に引っ越した。そして今回の同窓会の南中に入学したのである。その頃には、我が家は井口製作所という看板を立てられるほどに結構大きな会社に育っていた。本家をそろそろ追い抜き始めたほどであった。当時従業員は何十人かいたからである。二回には大きなテラスがある鉄筋コンクリート建ての家であった。部屋数は20ほどあった。一回にはロビーとダンスホールがあったほどである。(どういうわけか、おそらくこういう大きな家で育ったために、私には大きな家に住みたいという感覚がない。またアメリカに住んだ時もあんまり大したことないなあという印象しかなかったものである。そういう意味の衝撃を受けたことがない。)
そんな1970年代になり、宝石業界では後継者不足を心配する声が出てきたのである。
その一方で山梨県のもう一つの重要な地場産業であるぶどう栽培はさらなる発展を期待して、山梨大学にワインや科学醸造専門のワイン学科が設立されたのである。これが山梨大学工学部附属発酵化学研究施設であった。そして、今現在発展したものが、ワイン科学研究センターであるようだ。以下のものである。
ワイン科学研究センター沿革にはこうある。
山梨大学ワイン科学研究センターの歴史
ワイン科学研究センターは、果実酒を専門に研究するわが国唯一の研究機関として、昭和22年 (1947) 年、山梨大学工学部の前身である、山梨工業専門学校に、附属発酵研究所として設置され、昭和25年 (1950) 、学制改革に伴って山梨大学工学部附属発酵化学研究施設と改称された。発足当時は、山梨県の特産品であるワインの品質向上を目的として、ワインに関する微生物学的並びに醸造学的な基礎研究を地域と密着して行ってきた。その後を改組を行い,平成12年度から発酵化学研究施設を廃止し,ワイン科学研究センターを新設した。わが国のワイン産業の発展に伴い、現在は世界的視野に立ち,先端的な細胞工学,あるいは遺伝子工学技術を駆使した基盤研究から最新のブドウ栽培並びにワイン醸造の実用研究までを包括する研究センターになっている。
年 表
年事 項
昭和22年
1947当時の大蔵大臣だった石橋湛山氏(後に内閣総理大臣)が産婆役を務め、山梨工業専門学校応用化学科の中に「醗酵研究所」として誕生。設置の目的は、山梨県の特産ブドウを原料としたブドウ酒の改良、並びにブドウ酒以外の果実酒全般の研究および関係各種酒類の研究を進め、優良品を海外輸出に発展させ、我が国の復興の一助とすること。
昭和24年
1949山梨大学が創立。
醗酵研究所も大学附属の研究機関として引き継がれる。
昭和25年
1950山梨大学工学部附属醗酵科学研究施設となる。有力者が資金調達を行い、旧陸軍甲府第六三部隊将校集会所の木造建物に357坪の研究室、ワイン工場、地下恒温装置付貯蔵庫、ブランデー蒸留室、アルコール発酵および蒸留工場、倉庫等を敷設し、電子顕微鏡などを配置し、研究設備が充実。東京大学農学部の坂口謹一郎博士、朝井勇宣博士、大蔵省醸造試験所長の山田正一博士など、一流の研究者のバックアップを受け、活性化。
昭和47年
1972地上3階地下1階の鉄筋コンクリート製の建物に改修され、さらに最新の醸造設備やブランデー蒸留器などに更新。ブドウ畑となる附属育種試験地が設置され、原料ブドウに関する研究も本格化。
平成12年
2000ワイン科学研究センターとして再発足。
平成18年
2006「ワイン人材生涯養成拠点」事業が、平成18年度科学技術振興調整費<地域再生人材創出拠点の形成>に採択。山梨県、地域ワイナリーとのパートナーシップを基に、ワイン人材を生涯にわたって養成する拠点を構築。地元のニーズを反映させたブドウ栽培からワイン醸造、将来的には経営学までを視野に入れた実学中心のカリキュラムを作成し、人材養成を行うとともに地域産業の活性化を目指す。対象者はワイナリー技術者と修士課程。「ワイン科学士」の認定制度などを決定。
平成18年
2006ワイン科学特別教育プログラムの発足。学部・修士課程の一貫教育によるワイン科学教育を開始。
平成20年
2008耐震工事を行い、建物を全面的に改修。
平成20年
2008山梨大学大学院医学工学総合研究部附属ワイン科学研究センター。
平成24年
2012生命環境学部創立に伴い、ワイン科学特別教育プログラムを見直し、地域食物科学科内に「ワイン科学特別コース」を設置。
この赤い字にした時がちょうど今回私が参加した、甲府市立南中学校の昭和47年度卒業生同窓会の年代だったのである。我々が中学を卒業する頃に山梨大学はワイン学科を根本からテコ入れしたのである。
こういう時期に我が家は県の宝飾関係のリーダー的存在であった。特に、旧制甲府中学出身で、旧制松本高校出の、業界では異例のインテリであった、弁舌のたった我が家の親父は実質上この県の宝飾業界全体を率いていた。(ちなみに、父は旧制甲府中学時代の1、2の秀才であった。)
だから、そろそろ宝飾業界にもワイン業界と同じようなことをすべき時期に来たと考えてきたわけである。
そこで、ワイン業者と同じように、山梨大学に宝飾学科を作るべきか、それとも各種学校の宝石学校を作るべきかの二者択一になったのである。どちらかといえば、私の父は前者の大学内に設置する派であったが、叔父は各種学校でもいいという派であった。いずれにせよ、県内に宝石専門の大学か学科を作りたかったのである。
そんなわけで、県庁に数えきれないほど通って、県の公務員の超固〜〜い頭を相手に説得に次ぐ説得を重ねて、誕生したものが、通称「宝石学校」こと山梨県立宝石美術専門学校なのである。
おそらく、甲府市の人たちも山梨県の人たちもだれも知らなかったに違いない。がしかし、私が中高生時代のまさにサッカー選手として全盛期の頃、そういうことを横目で見ながら成長したのであった。
そんな一つが私の父が作った。いまでいう、フラー型建築物。やはり1970年の大阪万博の影響だったのだろう。「レストラン・ダイヤモンド」。これである。
これは、甲府バイパス沿いに作られた巨大なダイヤモンド型のレストランであった。甲府バイパスを通る車から格好の目標にされたものである。一旦人手に渡った後、これもだいぶ前に解体された。バブル崩壊後の空白の20年という不況の最中のことである。宝飾業界というものはもっとも景気に左右されさすいものである。景気がよくなれば、人々は宝石で着飾り、不景気になれば、真っ先に宝石を売る。そういうものである。
それゆえ、真の景気の判断は宝石業界の活況不況を見れば良いと言われるのである。言い換えれば、甲府の景気が良ければ、日本の景気もいい。甲府の景気が悪ければ、日本の景気も悪い。そういう目安になる場所なのである。
追記:
誤解なく付け加えておくと、我が家の先祖は、学校の申請と創設に働いただけであって、この大学ができたことで我が家のビジネスに直接の金銭的メリットがあったということはなかったのである。あくまで山梨の伝統産業の存続のために目先の損得勘定抜きで行った事業であった。だから、その後学校ができてから、学校長になったとか、理事になったとか、教授になったとか、そういうことは一切していない。学校が出来た後の職員の誰一人、こういう本当の歴史の話が出なかったのである。舞台裏を知らないのだからしかたがない。彼ら学校関係者や職員は役者(雇われ者)であってプロデューサー(立案者や創立者)ではないからだ。
(つづく)

by kikidoblog | 2013-11-05 11:13 | ファミリービジネス