ファミリービジネス9:「クォーツ時計誕生秘話」、水晶の切り方を古賀逸策博士に教えた祖父!
いよいよ私が知る我が家のファミリービジネスの最後の話となった。これはかなり昔には知っている人もいたのかもしれないが、いまではだれも知るものはいない。すでにその時代から2、3世代過ぎ去ってしまったからである。
古賀逸策(こがいっさく)という人をご存じだろうか?
おそらくいまでは普通の人は誰も知らないはずである。
最後として、この古賀博士と我が家にまつわる秘史をメモしておこう。これはいまでは私と私の父親しか知らない話である。
(く)クォーツ時計誕生秘話
まず日本はクォーツ腕時計の誕生の地である。実現したのはセイコーであった。
たとえば、セイコーのこんなHPがある。
クォーツ開発物語
クオーツ(水晶)式の時計とは、水晶の「圧電効果」を時間の標準源として利用した時計のことです。水晶の切片に電気を加えると、目にもとまらぬ速さで規則的に振動します。これを「圧電効果」と呼びます。この振動をもとに正確な1秒を導き出して時を刻むのが、クオーツ式時計です。1880年頃にピエール・キュリーによって発見されたこの「圧電効果」は、第一次世界大戦中に超音波通信などに応用された後、1927年、アメリカのA.W.マリソンによって時計への応用が試みられましたが、当時はとても巨大なものとなり、実用には不向きなものでした。
その後、セイコーが開発した最初のクオーツ時計が、1959年に日本の放送局に納められましたが、それも真空管式の大きなもので、高さ2.1m、幅1.3mと、大きなタンスのようなものでした。
その後1962年に、船体の位置を測定するために正確な時計を求めていた日本の海運会社に向けて、セイコーの船舶用クオーツ時計が開発されました。これは約45cm角の大きさ、重量約30kgとなり、飛躍的に小型軽量化が図られました。
クオーツ時計の小型化に向けて拍車がかかったのは、1964年に東京で開催される国際的な競技大会の公式計時をセイコーが担当することが決まってからでした。「それまでの海外メーカーの競技計時装置よりも一歩進んだものを作ろう。」をスローガンに掲げ、セイコーは、長距離レースの計時用に持ち運びが出来るクオーツ時計の開発を進め、1963年に、「クリスタルクロノメーターQC-951」を開発しました。そのサイズは、縦20cm×横16cm、厚さ7cm、運搬用のケースを含めた総重量がわずか3kgと、容易に持ち運びできるものでした。この時計は、当時12万円5000円という価格で市販もされましたが、高価であるにもかかわらず、とてもよく売れました。
一方で1950年代以降、欧米の複数の時計メーカーが腕時計の高精度化を追求して、従来の機械式腕時計に電子技術を応用した「てんぷ式電子腕時計」、「音叉式電子腕時計」などを発表していました。セイコーもそれらを研究しましたが、いずれも衝撃に弱く、身につける腕時計にはとても適していないという結論に至りました。
そこでセイコーが選択した道は、それらよりも衝撃に強く、数倍も高精度な「クオーツ式」の電子腕時計だったのです。それは、上記の「クリスタルクロノメーター」をさらに腕時計のサイズに収めようという研究であり、おそらくどのメーカーも研究を躊躇したほどの困難なものでした。
小型化への研究を重ね、951(写真上)の改良型「952(写真下)」は、縦・横・厚み共に半分の大きさまで小型になりました。しかし、クオーツ時計の心臓部である「水晶振動子」の小型化と、他の方式よりも要求される「省電力化」が難しい課題でした。セイコーは、この二つの課題を解決するため、最終的には、水晶振動子を自社で開発することによって小型化に成功するとともに、独自の間欠運針型のステップモータを採用することによって省電力化を実現しました。クオーツ時計の特徴である「一秒ずつ動く秒針」は、消費電力を抑えるためのアイデアだったのです。このようにセイコーは様々な課題を乗り越えて、クオーツ腕時計の完成に至ったのでした。
この世界初のクオーツ腕時計は、「クオーツ アストロン」と名付けられ、1969年12月25日、当時の価格で45万円という中型車並みの価格で発売されました。
すでにスイスの時計メーカーが翌年中にクオーツ腕時計を発売することを予告している中で、この「クオーツ アストロン」の突然の発売は驚きをもって迎えられ、翌日の新聞が大々的に報じるとともに、通信社を通じて世界中にそのニュースが発信されました。
なお、このクオーツ腕時計の開発のために特許権利化した技術を、セイコーが惜しみなく公開したことによって、多くの時計メーカーがセイコーの方式にならってクオーツ腕時計を商品化し、クオーツ腕時計は世界中に普及していきました。
このセイコーのクォーツ(Quartz)というのは、石英の結晶のことである。
それを振動子となるように切開し、それを
音叉の代わりにするのである。
時計が小型になればなるほど石英の音叉、すなわち、石英のクォーツ振動子は小型にならなくてならない。
そんな加工技術がセイコーや東大の学者にあっただろうか?
もちろん、そんな技量は電気技術者や大学の学者にあろうはずがない。
当時、セイコーにこの科学技術を伝授したのは、東工大の助教授であった、古賀逸策(こがいっさく)博士だった。この人である。
古賀逸策と水晶振動子
私達の周りにある多くの電子機器には、水晶振動子と呼ばれる小さな部品が使われています。その実用化に大きく貢献した人が古賀逸策です。古賀は東京帝国大学電気工学科を卒業後、東京市電気研究所の技師を経て、1929 年(昭和 4 年)に東京工業大学の助教授、1939 年(昭和 14 年)に教授となり水晶振動子の研究を続けました。
水晶を板状に切り出して交流の電圧を加えると、その寸法に固有の周波数で効率よく電気的な共振が起きて、発振回路に応用することができます。③の青印のように結晶軸に合わせて切り出したXカット、Yカットと呼ばれる切り出し法は当時すでに知られていましたが、温度変化による周波数の変動が大きく、安定した発信器として使用するには、温 度を一定に保つ恒温槽が必要で使い勝手の悪いものでした。温度による周波数の変動は、振動板の切り出し角度によって大きく変わることから、古賀は種々の角度の振動板を多数製作し、また、厚み振動の理論的解析を行うなど研究を進めました。そして 1932 年に③の赤印のような角度、形状で水晶を切り出すRカットと名付けた切り出し法を発明し、温度による周波数の変動が 10-7/℃と、従来のものに比べて二桁も小さい水晶振動子を実現しました。
また古賀はこの安定な水晶振動子を用いて水晶時計の研究を進め、標準時計の開発も行いました。現在では、水晶振動子は時計(クォーツ時計)のみならずテレビ、携帯電話、通信装置やコンピュータなど多くの電子機器に使われていて、古賀の成果は現代社会を支える技術の一つとなっています。
なんでもそうだが、古事記や日本書紀や新唐記や旧唐記などもそうだろうが、歴史というものは、後の人が昔のことを「適当に」自分に都合よく、自分が知っていることだけにもとづいて書き連ねたものにすぎない。
だから、上の解説を見れば、あたかも古賀逸策博士が自らさまざまな切り出しに成功したかのように読めるだろう。
結果からすれば、それは間違いではなかったのだが、あくまで結果であって原因ではない。
というのは、始めは古賀博士は研磨や切断の方法すら知らなかったからである。
実は私が中高生の頃には、まだ祖母が生きていた。私は小遣い欲しさに年始には毎年通って「あけましておめでとうございます」と婆さんの部屋に通ったのである。そして、婆さんの趣味である囲碁を一局して、「お年玉」(一万円ほど)をくれるのを待って、もらってかえったのである。当時の一万円は大金だった。だから、私は初めて一万円札を見た時にはどぎもを抜かれたものである。だれかに盗まれたり落とさないようにずっとズボンのポケットを抑えて帰ったものだった。
その婆さんが我が家の伝説のように話した話が、この古賀逸策先生の話だった。私も聞いたことがある。のちに私の母親からも何度も自慢話のように又聞きしたものである。現在はもはや半分墓に入った状態である。
その伝説とはこんなものだった。
ある時、この古賀先生が弟子を連れて爺さん婆さんの水晶加工業の会社にやってきた。そして水晶の加工法を学ばせてくれといって、何ヶ月か我が家の爺さんの会社に弟子入りしたのである。
当時も(今も)山梨県甲府の宝石貴金属研磨技術は世界でももっとも進んだ加工技術をもっていた。そこで、そういう話を頼りに、古賀先生は山梨県甲府の宝石貴金属研磨技術を訪ねて回ったらしい。しかしながら、大半の会社からは門前払いを食らったが、元来研究熱心な私の祖父は、いっしょになんとかしましょうということで、古賀博士と一緒になって水晶の微細加工技術を研究したらしい。実際、この爺さまは非常に心根の優しい人だった。
何ヶ月か弟子入りしてついに博士が必要な技術を習得したらしい。そして、大学に戻っていった。
我が家ではそれっきりで元の生活に戻っていた。
それから何十年かして、その古賀先生がテレビのとある番組に出たのである。それは人探しの番組だったようである。そこで、古賀先生は「水晶振動子を切る時に世話になった宝石加工会社の人にお礼を言いたい」というような話をしたらしい。
しかし、当時は祖父はすでに亡くなっていたらしく、代わりに祖母が行けと言われたのだが、自分は恥ずかしくて行けなかった。
とまあ、そんな話である。
これが我が家の秘史、伝説となっている。
そう、日本のクォーツ技術を生み出したものこそ、山梨県甲府の宝石研磨加工の職人技術だったのである。我が家の爺さん井口章だったのである。
知らね〜〜だろ? そんな歴史はネ。しかしこれは事実である。
(了)
by kikidoblog | 2013-11-06 17:34 | ファミリービジネス