ねずさんの「小倉百人一首」の解説:反日学者が「百人一首」まで捏造していた!?
小倉百人一首
みなさん、こんにちは。
次はこの話題。最近、ねずさんのひとりごとに「小倉百人一首」の解説が出ている。これがまた実に深くてすばらしい。「いったいこの根津さんは何者?」というほどに和歌にも通じている。理論物理学者の有馬朗人氏も俳人として有名だが、そういったちまたの有名無名ということとはまったく異次元のレベルの素晴らしい解説である。私が解説すると、まさに「悪貨が良貨を駆逐する」になってしまいかねない。だからメモだけしておこう。以下のものである。
百人一首(1〜3番歌)
============
1番歌 天智天皇
秋の田の
かりほの庵(いお)の
苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は
露(つゆ)にぬれつつ
============
===========
2番歌 持統天皇
春過ぎて
夏来にけらし 白妙(しろたえ)の
衣干(ころもほ)すてふ
天の香具山(あめのかぐやま)
===========
===========
3番歌 柿本人麻呂
あしびきの
山鳥(やまどり)の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む
===========
百人一首(4〜6番歌)
田子ノ浦からみた初秋の富士
=========
4番歌 山部赤人
田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪は降りつつ
=========
=========
5番歌 猿丸大夫
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋は悲しき
=========
=========
6番歌 中納言大伴家持
鵲(かささき)の渡せる橋に置く霜の
白きを見れば夜ぞ更けにける
=========
百人一首(7〜9番歌)
=========
7番歌 安倍仲麿
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
=========
=========
8番歌 喜撰法師
わが庵は都の辰巳しかぞ住む
世をうぢ山と人はいふなり
=========
========
9番歌 小野小町
花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
========
この解説を私の奥さんにみせたところ、いたく感動したようである。特に、安倍仲麿の和歌に感動したらしい。きっとこの人は非常に美男子だったのだろうと分かったというのである。
さて、解説はねずさんのものを読んでもらうとして、私自身もこの安倍首相のご先祖様らしい、安倍仲麿の話に興味を感じた(反日在日系の陰謀論者は、必死でこの安部首相を田布施出身だというような偽の史実を捏造しているようだがナ)。それは、この時代の遣唐使がなぜ朝鮮半島経由の「陸路」ではなく、危険な「海路」を経てまでして唐へ渡ったかということである。この部分だけ引用すると、こうある。
ここまでの解釈で、80点だろうと思います。
では残りの20点は何かというと、実はこの歌は、その後に、その凄味があるのです。
当時の唐と日本を結ぶ遣唐使の航海は、実に危険極まりないものでした。
無事に生還したのは約半分です。半分が難破して海の藻くずと消えてしまっていたのです。
この遣唐使の航海の危険性については、もちろん中には暴風雨に襲われて難破したという事例もあったでしょうが、私は、それだけではないとみています。
というのは、遣唐使の往来の船は、朝鮮半島を沿岸伝いに航海するルートです。
常に陸の見える近海航海です。
暴風雨がきそうならば、先に港に避難すれば良いだけのことです。
それに、そもそも日本は卑弥呼の時代には南洋の島々から、なんと南米までも航海をしていたくらいの海洋国家です。
それだけの高い航海技術があったし、船舶技術も相当の技術を持っています。
それに、そもそもそんなに航海が危険なら、朝鮮半島を陸路で唐の都との往復をすれば良いだけのことです。
何もすきこのんで暴風雨の怖い海洋ルートをとる必要などありません。
にもかかわらず、海洋ルートを採ったのです。
ということは、陸路はもっと「危険だった」ということです。
朝鮮半島を陸路で旅することは、海で暴風に遭うよりも、もっと危なかったのです。
それ以外に、危険な海上ルートにこだわった理由はあり得ません。
つまり陸路を行くことは、まさに魑魅魍魎と凶悪強盗団、強姦魔の巣窟を行く、難儀な旅だったわけです。
それだけ朝鮮半島の住民が未開の蛮族であり、その蛮族の襲撃があまりにもえげつないものだったということです。
遣唐使で派遣されるのは、何も美男子ばかりではありません。
日本は金銀の産地でもありますから、遣唐使は山のような財宝を満載していたし、舞いの勉強のためにと、美しい女性たちもたくさん同行していたのです。
蛮族からしたら、これほどおいしい旅人の一団はありません。
ですから、襲われないようにと、わざわざ海路をとったのであろうし、その海路を行く遣唐使の往来の船は、また同時に、朝鮮蛮族に狙われ、襲撃されることになったであろうことは、容易に察することができることです。
なにせ、当時の朝鮮族は、汚穢(おわい)の濊(わい)の字の濊族(わいぞく)なのです。
この汚穢族の襲撃があまりに酷いことから、後年になりますと、遣唐使の航海は、朝鮮半島沿いではなくて、五島列島から直接黄海を横断する、遠洋航海ルートに切り替えられたりもしています。
まだ羅針盤のない時代に、陸のまったく見えない外洋を航海するのです。
それこそ危険きわまりない。
それでも、黄海ルートをとったというところに、朝鮮半島の怖さがあったわけです。
遣唐使は、そういう、いつ襲撃をくうかわからない危険な旅です。
行きも帰りも、無事に到達できる見込みは5割です。
死ぬかもしれない航海なのです。
生きて到着できる確率は5割、死ぬ確率5割です。
帰りたい。けど途中で襲われ、帰れないかもしれない。
俺は帰ることができずに、途中で死んでしまうかもしれないが、俺の子が、あるいは俺の仲間たちの誰かが、あるいはその子が、その孫が、いつの日か日本に帰れるかもしれない。
そしたら、あのとき俺が見上げた月を観て、「三笠の山に出でし月かも」と望郷の想いを歌に詠んでいたよと、故郷の人たちに伝えてくれよ・・・。
この史実を如実に物語る事件が、最近起こった。それが、内閣府職員変死事件である。以下のものである。
内閣府職員遺体事件 ソウルでボート、釜山でボート部品を購入
フジテレビ系(FNN) 2月3日(月)12時5分配信
福岡・北九州市の沖合で、遺体で発見された内閣府の男性職員は、1月、外国人を名乗り、韓国・ソウル市内でボートを購入し、さらに、南部の釜山(プサン)でもボートの部品を購入していたことが、新たにわかった。
1月20日、北九州市の沖合で、遺体で発見された30歳の内閣府の男性職員は、ソウルで開かれる国際会議に出席するため、韓国に入国していたが、その後の調べで、この職員は、1月6日に、ソウル市内でボートを購入していたことが新たにわかった。
その際、ボートは、釜山市内のホテルに送るよう要請していて、翌日には、釜山市内で、ボートのエンジンの部品などを購入していたことも、新たにわかった。
ボートのエンジン部品などを売った店は「1人で、大きいかばんをかつぎ、マスクをして、帽子をかぶってきた」と話した。男性職員は、英語を使い、香港出身と話していたということで、日韓の関係機関で、くわしい経緯を調べている。
まあ、そういうわけで、今も昔もどういうわけか、朝鮮半島には「オワイ族(汚穢族)」という危険きわまりない人型生命体の人喰い人種が住んでいるのである。
「法則発動」とは「韓の法則」のことだった!:「除鮮」あるのみか!?
元寇/対馬の虐殺
(元寇の時、対馬の日本人の島民たちが、元の手下となった韓国人たちに皆殺しされて全員が料理されて食われてしまったという史実。)
古代においても大半の人間はこの朝鮮半島から北は避けたのである。
ひょっとしたら、人類の北米大陸進出の一番の理由は、朝鮮半島近辺に住むこの種族から逃げ延びることだったということなのかもしれないですナ。
いやはや、日本は海で隔てられていて良かった。もし陸続きだったら、とうの昔に日本は汚穢族によって滅ぼされていたかも知れないわけである。
いずれにせよ、百人一首の解説にまで、日教組や反日在日系の人文学者たちによって次々と日本の文化の侵食が施されているのである。そろそろ、全面的にこういう害人による文化の書き換え事業をストップしなければならないだろう。一番良いのは、そういう連中に死んでもらうことである。みんなで呪い殺す他あるまいテ。
呪ってやる!
いまだにアセンションまだ〜〜〜なんてCIAの工作に引っかかっている人の気が知れない。最近では古歩道も完全に中国の手先と化したようだがナ。
いやはや、世も末ですナ。
おまけ:
ちなみに、私はアジアの発展がなぜ阻害されたか? 科学が西洋に起こってどうしてアジアでは誕生しなかったか?この理由にひょっとしたらアジアにはこの種族がいたことが直接の原因ではなかったかと最近はまじめに研究中なのである。汚穢族、ワイ族、匈奴、漢民族、鮮卑族、女真族、こういった古代のアジア人の歴史や先祖の姿を調査研究しているのである。
簡単にいうと、アジアの西からやってきた古代イスラエルの失われた10支族の東進にあわせてアジアが文明化し、その都度アジアに住む蛮族との交戦を交えて、そこを支配しつつ、最期に大和の日本に至ったという感じですナ。
唐はトゥルク人(いまのウイグル人)が作った国家である。このウイグルは失われた10支族の1団である。チベット人もチベット仏教を古代アジアに伝えた文明人だったが、これまた失われた10支族の1団である。秦の始皇帝の秦氏もウイグル系の目の青い人種であった。この秦氏が景教徒(古代ユダヤキリスト教)であり、これまた失われた10支族の1団である。その一派が日本の秦氏の祖先になったとも言われる。八幡神社を広めたのが秦氏である。一方、八坂神社を作ったのがその先陣の大和民族の子孫である。
こうしてみると、失われた10支族が東に勢力を広げていきながら、その地に帝国を作り、そこを文化的に支配しながら、文明化し、そこを後に地元の蛮人に奪われると、さらに東に逃げる。これを繰り返しつつ、日本列島にやってきたという歴史が彷彿されるのである。
古代のアジア史はまさに失われた10支族の視点でみない限り本当のところは理解できなさそうだというのが私個人の理解しているところというわけですナ。
by kikidoblog | 2014-02-04 09:44 | 反日・在日の陰謀