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湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

松尾芭蕉「奥の細道」より
天才もひれ伏す大天才の共通点、それは常人には決して見えない「景色」が見えていることのようだ。

「週刊現代」2013年4月20日号より


みなさん、こんにちは。

最近、例の保江邦夫博士から2冊本を頂いた。一つは、
量子力学と最適制御理論
湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?_e0171614_8542229.jpg

もう一つは「It Appears!」という、保江博士の1993年までの物理学の論文集(非売品)である。ありがとうございました。

(あ)前者は、いわゆる朝永振一郎流やファインマン流やちまたに溢れかえる量子力学の教科書とはまったく異なる立場から、量子力学を再構成したという、「ネルソン−保江の確率場の量子化」の量子力学の教科書である。世界でもおそらくこの立場で書かれた量子力学の教科書はこれしかない!

この立場の量子力学は、普通の量子力学の立場からすれば、それと比較すれば、「裏返し」になる。量子力学の普通の見方では、量子には不確定性があり、観測に制限が加わる。そういうふうに見る。ところが、ネルソン−保江博士の見方では、逆転し、波動関数は、粒子を制御するための「制御関数」なのだという、大どんでん返しが起こるのだ。

つまり、普通では、この宇宙は不確実だから、量子も不確実、だから量子には不確定性原理が作用し、量子の世界は厳密な観測が不可能なのだと思う。だから、量子の運動を記述するためには、粒子の確率的記述が必要になり、波動関数が必要になるというように考える。

ところが、保江流に考えると、いや物事は本当は逆なんだよ。この宇宙は絶大なる力を持っている。その宇宙は粒子を完全制御しようとしている。それが波動関数であって、その波動関数を制御関数としてみれば、おのずと量子の軌道が記述できる。しかしながら、量子はこの宇宙の時空世界でブラウン運動を行うため、その結果としてでてるくるものがシュレディンガー方程式なのだ。つまり、量子の観測不確定性は、この宇宙の性質から直接生まれているものなんだ、というふうに考える。

おどろくべきことに、数学的には、この両者は全く等価なのである。そういう話である。

(い)もう一つの「It Appears! in Voyage to Quantum Mechanics and Probability」は、保江邦夫博士のもっともアクティブな時代の物理学基礎論の論文集である。紫玉の名作揃い。ちまたの素粒子物理学者の世界とはこれまたちっと桁違いの毛色の違いを見せている。

本当にこういう物理学者が日本にいて心から尊敬の念と誇りを感じるものである。

保江博士の指導者は、湯川秀樹(=ノーベル物理学賞受賞)、伊藤清(確率微分の創始者=ノーベル経済学賞受賞のマイロン・ショールズの元ネタ)の京都学派;坂田昌一の弟子の高林武彦、豊田利之の名古屋学派;武田暁の東北学派;梅澤博臣、高橋康の東大学派(後の北米)、さらには、ウォルフガング・パウリの愛弟子エンツ(Enz)のスイス・ジュネーブ学派、アメリカのエドワード・ネルソンなどのプリンストン学派などであった。彼らから直接指導ないしは薫陶を受け、共同研究ないしは独自に研究して誕生したのが、その論文選集にある論文である。

驚き、桃の木、サンショの木。私などほとんど独学。強いて言えば、ユタのサザーランドくらいのものである。

(う)さて、今回のこの中にある、湯川秀樹博士の有名な「素領域の理論」の拡張及び完成の論文についてメモしておこう。たったの2つある。

湯川秀樹博士は、「丸の理論」というもので有名。長らく私はそれが「素領域の理論」と思っていた。ところが、保江博士の一つ目の論文を読んで、それから湯川博士の原論文
Atomistics and the Divisibility of Space and Time
Field Theory of Elementary Domains and Particles. I
Field Theory of Elementary Domains and Particles. II
を読んでみると、私の理解がまったく誤りだったと知ったのである。

湯川博士の晩年の最初では、湯川博士は
「素粒子は時空間に広がった丸い有限の領域を占めるもの」
と考えた。そして、そういう拡張された粒子が時空間内(特に、ミンコフスキー空間内)を運動すると考えた。これがアメリカのチューに伝わって、靴紐理論となり、さらには、南部陽一郎博士のひも理論、そして超ひも理論の原型になった。

ところが、さらに湯川博士の晩年の後半、死の直前では、この思想が裏返される。大どんでん返しが起こったのである。この時、湯川博士は、
「この宇宙はつぶつぶの素領域でできている。その上を移り変わる励起のようなもの。それが素粒子だ。」
という考え方に移っていったのである。

これを松尾芭蕉の言葉「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」という言葉で表現したのであった。

これまで、私はこの両者を味噌糞にしていたというわけですナ。

ところで、岡潔博士の思想の中で、人類史上最も知性的に高次のレベルの認識は、14〜15識まであって、その最高位の15識に到達した唯一の人物、それが松尾芭蕉だと繰り返し述べていた。そして、次の14識は道元。日本人が12〜9識。西洋人の大哲学者が8識。常人は6識。動物は5識(=いわゆる、視覚、聴覚、味覚、嗅覚(きゆうかく)、触覚の五感のこと)だと分類した。

私はこの岡潔のいう、松尾芭蕉がなぜ15識に至ったと見たのだろうか?ということがあまりよくわからなかったが、おそらく松尾芭蕉の「奥の細道」の中で見ることのできる感性のことだろうと思う。中でも「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。。。」の感性が最高級なのだろうと思うようになったわけである。

湯川秀樹もそれに気づいていた。

つまり、「月日」というのは、「我々の知るこの時空世界」という意味だから、その中で「みな旅人なり」とみるという感性のことである。

湯川博士は、それがこの宇宙の真実と仮定して、理論物理を構築しようとしたのである。そういうことになる。

同様に、大数学者の岡潔博士も
自然科学は間違っている
岡潔博士の「自然科学観」、「自然科学は間違っている」:いや〜〜、実に鋭い!
の中で、まったく独立に同じようなことを言っていたのである。こういっている。
【8】 大宇宙の本体は情である

情がどうして生き生きしているのかということですが、今の自然科学の先端は素粒子論ですね。これも繰り返しいっているんだけど、その素粒子論はどういっているかというと、物質とか質量のない光とか電気とかも、みな素粒子によって構成されている。素粒子には種類が多い。しかし、これを安定な素粒子群と不安定な素粒子群とに大別することができる。
その不安定な素粒子群は寿命が非常に短く、普通は百億分の一秒くらい。こんなに短命だけれど、非常に速く走っているから、生涯の間には一億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。こういっている。
それで考えてみますに、安定な素粒子だけど、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けている。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
いわば、不安定な素粒子がバケツに水を入れて、それを安定な位置に運ぶ役割のようなことをしているんではなかろうか。そう想像される。バケツの水に相当するものは何であろうか。私はそれが情緒だと思う。
やはり情緒が情緒として決まっているのは、いわばその位置だけであって、内容は絶えず変わっているのである。人の本体は情である。その情は水の如くただ溜まったものではなく、湧き上る泉の如く絶えず新しいものと変っているんだろうと思う。それが自分だろうと思う。これが情緒が生き生きしている理由だと思う。生きているということだろうと思う。
自分がそうであるように、他(ひと)も皆そうである。人類がそうであるように、生物も皆そうである。大宇宙は一つの物ではなく、その本体は情だと思う。情の中には時間も空間もない。だから人の本体も大宇宙の本体にも時間も空間もない。そういうものだと思うんです。
【 2】 自然科学者の時間空間

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。
【 3】 五感でわかるもの

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。

ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。

これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。それで、これに名前をつけて物質的自然と、そういうことにします、のちに要るでしょうから。

「情」としての宇宙世界=宇宙の素領域

つまり、宇宙は愛=情というようなものがつぶつぶにつまっている。そのつぶの励起状態がつぶからつぶにブラウン運動する。その時、その情としての素領域に「どのような性質を含ませるか」によって、現れる励起状態の性質が決まる。

だから、今存在する、すなわち、いままでに発見された素粒子を記述できるに十分な素領域を定義できれば、素粒子理論が完成するのだ。

これが湯川秀樹博士の「素領域の理論」の思想圏であった。

そして、湯川秀樹博士の死の直前にそれが完成した。それを行ったのが、保江邦夫博士と豊田利之博士だった。保江博士のこの論文は、湯川秀樹博士の高弟の豊田利之博士の手によって手渡されたという。それを手にした湯川秀樹博士は病院のベッドに横たわっていたが、その枕元に置かれた論文を見て以後、片時もその論文を胸で両手で抱いたまま離さなかったというらしい。

「これだ、私がしたかったことは〜〜」

そういって涙したのだという。

(え)さて、この両手に抱かれた論文がこれだった。
Derivation of Relativistic Wave Equations in the Theory of Elementary Domains
A new approach to the theory of elementary domains

こんな驚くべき研究を行った偉大な博士が、岡山のノートルダム清心女子大にいる。物理学部はなく、女性だけで、弟子もいない。

文科省は何やってんの?

東大京大名大東北大や基礎物理学研究所や理化学研究所の若い院生を保江博士の院生にして、さらに膨大な予算をつけて率先して発展させなきゃいかんのじゃないかいな?偉大な先生がご存命中に。知の遺産の継承者を即刻増やさなければならないのでは?

小保方さんのとぼけた細胞より、ずっと重要度の高い研究テーマですナ。

いやはや、灯台下暗し、とはよく言ったものである。

(お)最後にこの2つの論文を私が読んで感じたことは以下のものである。これもついでにメモしておこう。

まず全体を眺めてみてもその雰囲気は、かの朝永振一郎博士の論文を彷彿させる。実に”私好みの”すっきりした論文。

量子力学と最適制御理論の論文が一冊の本になったようにこのそれぞれの論文がみな一冊の本になるべきだろうという気がする。

特に、湯川博士の素領域の理論の拡張の2つの論文は本になるべきテーマ。というのも、2つめの論文中に、C*代数の話があるが、この代数は物性では1980年代に量子ホール効果が発見されて以来常識の一つ。Alain Connesのnoncommutative geometryという本はまさにこの湯川−保江博士の理論にうってつけの土台を提供しているように思う。

実は、私は素領域の理論の考え方は、現代数学者の代数的数論、あるいは、数論幾何学という分野の巨匠のアレクサンダー・グロタンディークという数学者の思想と非常に通じるものがあり、20数年前からずっと少しずつ勉強していた。

グロタンディークは
自分は物理でアインシュタインがやったのと匹敵する革命を数学で起こした
と言っていた。が、その真意はまだだれも理解できずにいるという偉大な数学者。その状況に頭にきてアルプス山中に引きこもってしまったというユダヤ人学者。まだ現存。

幸いなことに、最近この人の思想的後継者が現れた。それが京都大学の数理解析研にいる天才、望月新一博士。

数というものから数の集合というこれまた素朴な概念が生まれ、それから数直線という素朴な概念が生まれたわけだが、それから線や面や空間という我々物理学者の考える、そして前提にする時空間認識が生まれたわけ。

ところが、そういう素朴な数の概念をより厳密かつ高度に再構成しようとすると(というのも、微分幾何ではそうしないとうまくいかないことが生じるらしいので、具体的には例のリーマン予想を解くために)集合という概念を超える必要、むしろ、集合を使えない場合が出てくる。そういうものを定義しようとして、グロタンディークが生み出したものが、カテゴリーとカテゴリー理論という数学概念。日本語では圏と圏論と言っている。京大にはこの筋の専門家が多い。

この思想を私はずっと気にし続けてきたが、例の湯川博士の素領域の思想はどこかこのカテゴリーに似ているところがあるように感じる。

そのグロタンディークの思想圏の欧州の後継者の一人がアラン・コンヌ(上述の人)でその人の行った、一つのグロタンディークの思想の実現が、その「非可換幾何学」というもので、そこではC*代数が非常に重要になるわけ。

一方、統計物理学では、1980年代後半から1990年代になって組み紐理論(Knot Theory)というものが、可積分系という統計物理の分野と結び付いたが、これが、またC*代数を駆使するような分野になった。

ところが、保江博士の、豊田−保江の論文には、すでにC*代数を使って、素領域の思想から場の理論を導くという感じ。だから、実に面白いと感じる。

私が興味を持っていたことがみな繋がる可能性を見たからだ。また、フランスの覚醒理論物理学者のプチ博士のウンモ星人による宇宙理論の思想
ジャン・ピエール・プチ博士の「宇宙人ユミット文明」
とも湯川博士の素領域の考え方はよくマッチしているわけである。おそらくまったく等価なものだろう。

我々物性物理学者的理解では、おそらくもっとも似たものは、スピン空間というものだろう。スピン空間にはいわゆる座標は無関係の内部自由度の空間に存在する。が、それが、それぞれの場所の原子に張り付いている(というか張りつけられている)。ある原子と別の原子のスピン−スピン相互作用はスピン空間を通じて行われるが、現実には我々の住む空間の場所に現れる。スピンは別々の場所の各原子に張りついているが、スピン空間内ではいつでも原点を一致させて並べることが出来る。すると、各スピンの先端の軌道をスピン空間の中で比べることや軌道を追うことができる。これがスピン空間の中で我々がスピンの運動を通じて、時間と場所を定義することになる。

湯川博士の素領域の思想とは、
時空間の素としての素領域 → 固体物質の素としての原子
時空間の素領域の励起としての素粒子 → 固体物質の原子の励起としての素励起(スピン波)
との対応、こういうものに非常に似ているように思える。一方、スピンは内部自由度。だから、この空間内に存在するものではない。同様に、素粒子は素領域の内部自由度とすれば、この素領域のある空間に存在するものではないことになる。

こう考えると、
空間の中に素粒子がある
という考え方から、
素領域の内部自由度の中に素粒子がある
というような考え方に裏返しになるわけである。ある意味、我々の見る世界は、素領域の内部自由度の作る世界という感じになる。

プチ博士のユミット宇宙観というものは、どうもこんな感じのものだろうと私は想像する。

いずれにしても、湯川博士や保江博士の思想は、いずれまた物理の中心問題として復活する日が来るように思われる。実に重要な発想。

まあそういうわけで、東大、京大、名大などでちゃんとした物理の学生さんたちに伝達されるとすばらしいと思う。


とまあ、こういう次第ですナ。長くなったから、この関連はまたいつか。



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  by kikidoblog | 2014-05-26 10:22 | 保江邦夫博士

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