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「宇宙は不連続」と考えた人たち:リーマン、湯川、岡潔、グロタンディーク、保江。

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空間の計量というものは、先見的な形式を持つわけではありません。が、しかし、相互作用の性質に帰すべきものであります。たとえば、距離という古典的概念、すなわちユークリッドの計量というものは、剛体が存在するという仮定の下でのみその正当性が保証されるものなのです。

−−リーマン(1892年)


みなさん、こんにちは。

今回は物理学者のメモである。普通の人には理解できそうもないからスルーを。時間の無駄である。

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何でもすぐに忘れてしまう、忘れっぽい私のことだ。「後々書く」とか、「後でまた」とか、言っていてもいつそれに舞い戻るかまったく見当つかない。だから、今回は忘れない内に、例の湯川秀樹博士の「素領域の理論」
湯川秀樹の「素領域の理論」を完成した男、保江邦夫博士:2つの「大どんでん返し」!?
に関するものをメモしておこう。

まず、湯川秀樹の「素領域の理論」
Atomistics and the Divisibility of Space and Time
をかなり一般的な形で、一応完成させたのが、保江邦夫博士だった。その論文はこれだった。
(1)Derivation of Relativistic Wave Equations in the Theory of Elementary Domains
(2)A new approach to the theory of elementary domains

この2つの内の(2)のものに、ゲオルグ・バーンハート・リーマンの、かの有名なリーマンの言葉が引用されている。それが、現代語に直すと、最初のものである。

この言葉は、リーマンがこれから、いま我々が知る「リーマン幾何学」をこれから本で紹介していくという、その最初に出てくる言葉らしい。このリーマンの教科書もいまインターネットで無料ダウンロードできる。いい時代になったものである。これである。
Bernhard Riemann's Gesammelte mathematische Werke und Wissenschaftlicher Nachlass (1876)
もっとも19世紀のドイツ語だから、相当にドイツ語が読めないと無理かもしれない。

要するに、リーマンは、「曲がった空間がどうたらこうたら〜〜」と言う前に、「この世界に空間がどういうものだと理解できたものはいない」ということを言いたかったのである。ユークリッドの「空間」というものは、剛体=堅い物体の存在なくしてありえね〜〜ヨと言ったわけである。

当たり前である。

数直線というものは、「物差し(=メジャー)」になる竹や金属版のようなものがあって、初めてその上に「目盛り」を、数学の数直線の近似物として印字して、それによって初めて計量(=距離を測ること)できるからである。

リーマンはそれを実によく理解していたのである。

そこから、もし物差しが剛体ではなかったらどうなりますか?

というような問いかけによって、ぐにゃ〜〜と曲がるようなものの上で「目盛り」を乗せたらどういう幾何学になるかを、あくまで「一つの例として」幾何学を構築したのであった。これが、いま「リーマン幾何学」と我々が呼ぶものである。

そして、アインシュタイン博士が、これを使って、「一般相対性理論」を作るために利用した。

いくら素粒子の最先端といおうが、素粒子理論家がすごいといおうが、一般相対性理論の素のリーマン幾何学は、ユークリッドの剛体ではないが、今度はゴムのような物体を念頭においている。ゴムは、剛体のように固くはないが、伸びたり縮んだりはできるものの、ゴムが切れたり、消滅したりということはありえない。

そういうわけで、いくらリーマンの幾何学がユークリッドのものよりフレキシブルになったとはいえ、所詮は「曲がる物差し」でしかない。

ところで、我々物性理論物理学者は、剛体は原子の共有結合でできていること、ゴムは高分子ファイバーのファンデルワールス力で結合していることを知っている。つまり、金属の物差しやゴムの曲がる物差しの中が「つぶつぶ」のものや「ファイバー」でできていることを知っている。もちろんリーマンは知らなかった。

もしいまリーマンがいたら何を考えただろうか?

おそらく、曲がるゴムの物差しではなく、「水や流体のような物差し」、あるいは、「気体のような物差し」、さらには「かげろうのような物差し」、あるいは「煙のような物差し」をさえ考えたのではなかろうか?

つまり、計量となる「物差し」自体がつぶつぶでできている。そんなものを考えたに違いない。

これが湯川秀樹博士や保江邦夫博士の想像した「素領域」というものである。エレメンタリードメインである。

よくアセンション系やスピリチュアル系や宇宙人系の人たちやチャネラーというような人たちが「この世界は10次元でできています」などと得意気に恥知らずにいうが、それはあくまでユークリッドの2500年前の発想にすぎない。

だから、こういう人を見ると、「ああ、人間の発想だな、こりゃ〜〜」と俺はすぐに見破れるのである。同じ人間でも、我々理論物理学者がもっと先に行っているからである。まだ
「宇宙は情でできている」(岡潔)とか、
「宇宙は離散的である」(グロタンディーク)とか、
「宇宙は双子宇宙です」(プチ)とか、
言ってくれれば、「おっと、それはおもしれ〜〜ぞ」という気にさせてくれるのである。まだ
「宇宙は愛で満ちています」(バシャール)
というスピリチュアルの方が真実味を感じるのである。

さて、この現実の宇宙がどういうものか?ということについて、宇宙についてはまったく無知だったが(もっとも誰も知らないからどうでもいいが)、数学の立場からとことん突き詰めた猛者がいた。それが、アレキサンダー・グロタンディークであった。
数学者の孤独な冒険―数学と自己の発見への旅 (収穫と蒔いた種と)
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この本の83ページにこう書いている。
この状況では、今世紀はじめ、アインシュタインの相対性理論が出現したときにあらわれていた状況と非常に近いように思われます。そこには、突然の、解決できないように思える矛盾によって具現化された、さらに明白な概念上の行き詰まりがありました。(中略)

数学上の観点からすると、アインシュタインの新しい考えは月並みなものでした。逆に、物理空間についての私たちのもつ概念の観点からすれば、これは深い変革であり、突然「異なった環境に置かれる」という状態でした。2400年前にユークリッドによってひき出された物理空間の数学的モデル、そして地上および星の力学的現象を叙述するためのに古来以来すべての物理学者、天文学者(ニュートンを含む)によって力学の必要性のためにそのまま引き継がれてきたもの以来の最初の大きな変革でした。(中略)

。。。幾何学にとってもっとも基本的な概念、つまり空間という概念(そして「多様体」という概念)、すなわち幾何学的存在が生きている「」そのものについて私たちの持つ概念を覆すに至りました。

空間の新しい概念(一種の「一般化された空間」ですが、そこでは「空間」を作っていると考えられる点は多かれ少なかれ消えてしまっています)は、その実体において、アインシュタインが物理学に導入した概念とはまったく似ていません(アインシュタインの概念の方は、数学者にとって度外れなものでは全くありません)。これに対して、シュレディンガーによって発見された量子力学との比較が可能です。(中略)
そして昔の、人を安心させる粒子に取って替わったこれらの「確率の雲」が私に想起させるものは、強情な想像力がしがみついている、想像上の「点」を取り囲むために、影のうすい幻のように、トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」なのです。。。。

この19節の脚注の中で、最初にあげたリーマンの文章を高く評価している部分がある。
もう15年あるいは20年になると思いますが、リーマンの全作品からなるささやかな本を紐解いていたとき、「通りすがりに」なされている彼の指摘に心を打たれました。そこで彼はつぎのような考察をしています。空間の究極的構造は「離散的」であること、私たちが空間に関して作っている「連続的」表現はおそらくより複雑な現実の(結局のところは、たぶん過度な)単純化となっていること、人間の精神にとって、「連続」は「不連続」よりずっと把握しやすいこと、したがって、それは不連続を理解するための「近似」として役立っているということがあり得るということです。これは、物理空間のユークリッド・モデルがまだ一度も問題に付されたことがなかった時期での、一数学者の口から出た驚くほど洞察力のある指摘だと思います。。。。
こうも言っている。
要約すると、期待される革新(これが再び起こるものとして。。。)は、物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくるだろうと私は予測しています。だがとくに、問題の核心を把握するためには、「哲学的に開かれた心」を持っている人物が必要でしょう。この問題の核心は、技術的な性質のものでは全くなく、「自然についての哲学」の基本問題だからです。

グロタンディークの言わんとする意味が分かるだろうか?

「物理学者からよりも、むしろ物理学の大問題によく通じている、根っからの数学者からやってくる」

たぶん、京大の望月新一博士だな。俺が思うに。他にできそうな奴はいない。


私はこの「数学者の孤独な冒険」が翻訳出版されてから事あるたびに読み直してきているが、なにせ「グロタンディークの数学」の部分が理解できないために、いまだに行ったり来たりしてきているというわけである。まさにブラウン運動である。いまだにはっきりと理解できないでいる。

しかしながら、最近になってやっと、少なくとも、湯川秀樹、岡潔、グロタンディーク、そしてかのリーマン、こういった人たちは同じ問題を見つめていたということだけは理解できるようになったというわけですナ。そして、保江邦夫博士もそうだ。

「空間の点(・)」ではないものでできている「空間のようなもの」

これはなにか?

これを知りたいのである。

保江博士の「素領域の上のブラウン運動」の理論は、空間の各点の上には、統計的アンサンブルがある。各点はそういうアンサンブルと見なければならない。そういう見方である。これは、岡潔博士の「位置だけが重要である」という発想
安定しているのは位置だけであって、内容は多分絶えず変っている。そう想像される。
と同じ感じのものである。そして、グロタンディークのいうところの
そして昔の、人を安心させる粒子に取って替わったこれらの「確率の雲」が私に想起させるものは、強情な想像力がしがみついている、想像上の「点」を取り囲むために、影のうすい幻のように、トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」なのです。。。。

「トポスに充満している、捉えがたい「開近傍」」

いったいこれは何なのだろうか?

とまあ、そういうわけで、我々理論物理学者や数学者を侮ってもらっては困るのだ。我々は「次元」というものの考え方のかなり多様なアイデアを発見しているのである。

さらには、分数次元、フラクタル次元、こういうものまである。

ついでにメモしておくと、上でメモしたユークリッドの次元は、「数の並びの方向」の意味にすぎない。だから、数の集合のように、うまく序列がつくということが前提である。しかし、その序列は大きさで決めただけである。

つまり、お金持ち度を測るのに、預金残高で序列を付けるとか、偏差値一本槍でランクを付けるとかこういうものが、ユークリッドの次元の思想である。

しかし、それ以外に代数的に次元を作る。これが分数次元やフラクタル次元というものである。この場合は複雑度や入れ子構造の発達度の具合で序列を付けるわけである。つまり、頭の練れ具合でランクを付ける。こういう感じの次元である。だから、こういう次元は、「10次元です」というようなものとは異なる。むしろ、エントロピーのようなものに近い。情報エントロピーもその一つである。

場所ごとにそういう類の次元を貼り付ける。

どうもグロタンディークの思想はそういう感じのものに感じるのである。

いやはや、いまだに真理への道は遠い。



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  by kikidoblog | 2014-05-28 18:55 | 保江邦夫博士

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