スマイリー・シーからスマイリー・ケイへ:錦織圭選手96年ぶりのベスト4入り!
テニスの全米オープンでついに錦織圭選手がベストフォー入り達成の快挙。96年ぶりとか。
錦織4強!日本男子96年ぶり快挙/詳細
かつて野球の野茂英雄投手が日本人選手として初めて大リーグ入りした時、実は日本人初ではなかったことがわかり、野茂選手よりずっと昔に村上選手が大リーグで活躍したということが知られるようになった。
サッカーでもかつて1996年に、イタリアセリエAのペルージャに中田英寿選手が入団した頃、実はそれより前には三浦知良選手がブラジル・サントスFCの初の日本人選手となっていたり、1993年イタリアセリエAのジェノアCFCに初の日本人選手となっていたことが、普通の人にも分かった。
さらには、奥寺康彦選手
が欧州における本当の日本人プロサッカー選手の第一号で、そればかりか、旧西ドイツの1FCケルン時代は二度優勝。ブレーメン時代には、いまの主流となった、長友選手と同じ、左サイドバックの攻守の要めのプレーの源流となったのである。
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1.FCケルン時代[編集]
同年10月ドイツへ渡り、10月7日に1.FCケルンと契約を交わし正式に入団。12日にはブンデスリーガのベンチ入りを果たし、10月22日、対MSVデュイスブルク戦で先発デビューを飾った[5]。
12月20日に行われたドイツカップ準々決勝、シュバルツバイス・エッセン戦で初ゴール(2得点)、ブンデスリーガでは1978年4月8日のカイザースラウテルン戦で初ゴールを記録。名将・ヴァイスヴァイラーの下で数々の活躍をみせ、1977-78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献した。優勝を決めた試合では途中出場ながら2ゴールを挙げた。
翌1978-79シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準決勝に進出し、イングランドのノッティンガム・フォレストと対戦。アウェーの第1戦において貴重な同点ゴールを決め3-3のドローに追いついた[6][7]が、ホームの第2戦では0-1で破れ欧州制覇は成らなかった。
1980年にヴァイスヴァイラーがアメリカ・NASLのニューヨーク・コスモスへ移籍すると、後任監督カールハインツ・ヘダゴットの構想外となり、ベンチからも外れる。出場機会を求めて1980-81年シーズンの後半にブンデスリーガ2部所属のヘルタ・ベルリンへ移籍した。
ヴェルダー・ブレーメン時代[編集]
1部昇格に挑んでいたヘルタは最終的に昇格を逃したが、そのシーズンにヘルタに競り勝ち1部昇格を決めたヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督に認められ、翌1981-82シーズンからブレーメンに移籍する。
奥寺は左ウイングとしてブンデスリーガに渡ったが、レーハーゲルは守備的MFとしての奥寺の能力に注目した。守備の強さ、堅実なプレーに惹かれ、80年代なかばからヨーロッパの主流となった3-5-2システムの中で、奥寺は左ウイングバックという「天職」を与えられた。守備を行いながら、味方ボールとなると、ウイングそのものとなって攻撃の中核を担う。そうしたプレーはレーハーゲルをして「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」と言わしめた。
1982年、1部1年目のブレーメンは、5位という好成績を残し、翌83年にはハンブルガーSVに次ぎ2位、そして84年5位、85年、86年と連続して2位。優勝は経験できなかったが、奥寺は最もコンスタントな選手として監督に信頼され、ファンから愛された。
ブンデスリーガには通算9年間在籍。63試合連続出場記録を樹立するなど、帰国するまでの9年間でブンデスリーガ通算235試合出場、25得点を挙げ、ヨーロッパサッカー連盟主催の国際大会ではアジア人最高となる6度出場の活躍を見せた。
話がだいぶ脇にそれたが、これと同じで、錦織選手が96年ぶりの快挙ということがわかると、
え〜〜、前にだれかいたのか?
ということになる。
実は、その人こそ教科書などに書かれた
「やわらかなボール」という本のモデルになった清水善造さん
「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが態勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーションで清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。
であった。
相手は当時のスーパースター、
ビル・チルデン選手であった。
当時日本人選手が世界ランク、3、4位にいたのである。
当時の日本は軟式テニスが主流。高価なボールの硬式テニスをやるものはほとんどいなかった。清水善造さんも日本式テニスの軟式テニスから始めたという。いまでも柔らかいボールの軟式テニスでは、フォアハンドもバックハンドも同じ面で打つのが主流である。そして、コートに入れるためにトップスピンを掛ける。清水善造さんは硬式テニスになってもこの癖が抜けず、それが幸いして、1970年代のビヨルン・ボルグのようなトップスピンのロブなどを多用する変わったスタイルだった。だから西洋人には始めはからかわれたらしいが、実力が知られるようになると、「スマイリー・シー」と呼ばれる人気選手になったらしい。
さて、その頃のチルデン選手の映像がYouTubeにあったので、錦織選手を祝して、いかに昔だったかをメモしておこう。以下のものである。
Big Bill Tilden (1931)
Bill Tilden's Advanced Tennis
(昔のアメリカ人は細かったナア。やっぱりマックのせいですナ。)
おめでとう、錦織圭選手!次も頑張って!
おまけ:
その時代の韓国はというと、こんな感じだった。テニスどころではなさそうだ。

by kikidoblog | 2014-09-04 14:45 | サッカー&スポーツ