物理学者のひとりごと:年をとると理論より真偽の方が気にかかる!?
物理学者というものは、おそらくそれに限らないだろうが、若い頃はあまり状況を飲み込めないから、その代わりに数式を理解しようとするものである。私もそうだった。物理現象を考えるとか、物理的概念の内容を考えるとか、そういった抽象的なこと哲学的なことより、とにかく数式を覚える方が先であった。
一度、微積分やらフーリエ積分やラプラス変換からこういうことを学ぶと、今度はさらにその上のより一層高度な数学を学びたがる。トポロジー、代数幾何、群論、微分幾何、多変数関数論。確率論。
こうして、先に数学になれ数式いじりに長じてくると、いつの間にか、物理現象とは数学の延長のような気分に陥る。私もそうだった。力線なんていうものは、所詮微分形式のための予備概念に過ぎないよ。というような感じになる。
ところが、苦節10年でそういう数学を身につけて、その後の苦節20年30年を過ごしてみると、今度はどういうわけか逆になる。少なくとも私個人はそうである。
というのは、学生の頃は当たり前と信じて計算してきたそういった数式が、今度はそれは本当に正しかったのかというような疑念が沸くようになるからである。
かつて数学者の岡潔博士がそうだった。氏は「自然科学は間違っている」と晩年になって論破した。
それに似て、どうも最近の私自身もそういう感じである。
「ベクトルって何だったんだ?」
「確率って存在するのか?」
「エントロピーって本当にあるのか?」
「熱力学は正しいのか?」
こうなると、他人の最新の論文どころではなくなる。最新の論文に出ている数式は小説を読むように理解できるから、数学に問題があるわけではない。学生の頃はそういう数式がどうやって計算できるかそればかりを学んでいたが、今では数式は問題ではない。むしろ、数式で表象するところの対象の方が問題になる。そしてさらには、その数式の土台となっている基礎概念の真偽の方が気になるというわけである。
おそらく10年前までの私はそうではなかった。が、ここ最近になればなるほとより根本を理解したいという気持ちが強くなった。これって「アセンション?」
まあ、冗談はさておき、たとえば、ガリレオ・ガリレイは、「物体は力が加えられない限り、その場にとどまるか、等速運動をする」と考えた。ここからニュートンが「F=ma」を見つけて行った。
しかし、ガリレオの主張は、「力が働かなければ何も運動しない」と言ったのである。その対偶を取れば、「ものが動くためには力が必要だ」と言った。言い換えれば、物は力があって初めて動く。さもなくば、静止。ガリレイ変換すれば、物体は力があって初めて速度変化する。さもなくば、等速運動を続ける。
自然界には常に空気抵抗やら摩擦がある。だから、いつも力が加わる。よって、物体の速度が変化し、最終的には静止する。これがもっとも安定な状態だ。そういうふうに捉える。
最近の私はこんなふうな初歩的問題にばかり興味が行くのである。そういったことばかり考える。
では、その力はどうやってものに加えられるのか?ぶつかる、ひっぱたく、ひっぱる?
仮にどこかからの外力があって、それが物体に力を及ぼすなら、外力なしに動く生物の力はどこから来ているのだろうか?
外力とは何か?
仮にこれがポテンシャルの勾配であるとしよう。さすれば、力(F)によって引き起こされた位置変化(dx)はその勾配に比例するはずである。だから、物の速度(v)はポテンシャル勾配(∇V)に比例する。つまり、v=k∇V。kは比例定数。
明らかにこれはニュートンの運動方程式の結果、ma = F = -∇Vと違う。なぜなら加速度a=dv/dtだからである。つまり、dv/dt = -∇V/m。
ここにはいくつかの混同がある。それが原因である。
1つ目は、同じポテンシャルというものであっても、最初のVと後のVは異なるということ。2つ目は、力Fは外力だが、maは慣性力だということ。
物体に慣性力がなく、ポテンシャルのみで運動する場合が上の場合。逆に、ポテンシャルの上を質量mの慣性物体が運動するという場合が下の場合。
最初の場合のポテンシャルには、重力ポテンシャルとかクーロンポテンシャルとかそういった物理的ポテンシャルの他に、流体力学でいう速度ポテンシャルφや作用Sというようなものもポテンシャルにすることができる。
つまり、速度を定義する場合のポテンシャルと、外力と慣性力とが釣り合うという時の外部ポテンシャルという2つがある。前者は速度の定義のためのポテンシャルであり、後者は物理過程におけるポテンシャルである。
力がなんであれ、力が物体に作用すると、その力で位置変化が起こる。つまり、速度を持つ。この場合の、力×速度は何か?これがパワー(P=電気では電力のワット)である。P = Fv。仕事率とも言う。一秒あたりのジュールである。
方や物体の慣性力maにもパワーが働く。P’ =ma・vである。
この2つが運動の最中いつも等しいとする。P=P'。すなわち、Fv = ma・v。これがダランベールの原理である。ニュートンの法則F=maの別の見方である。慣性をもつ物体には、外力がはたらくとそれが”一瞬にして”慣性に伝わる。
つまり、ダランベールの原理は作用反作用の法則の一つの言い方だが、この法則は光の速度を超えて一瞬にして成り立つ。アインシュタインの理論を無視?なぜ?
ダランベールの原理を簡単に書き換えたものが、ラグランジアン(L=mv^2/2 - V(x))である。そしてそれを時間積分して書き換えた(平均化したもの)が、作用関数S(x,t)である。
解析力学によれば、この作用を最小にする(つまりいつも外力は慣性力に一瞬に伝達するということを繰り返して最小の作用にできる)経路をこの自然が実現するのだと考える。
この場合には、その粒子の速度は、作用関数S(x,t)を速度ポテンシャルとみて、作用関数S(x,t)によって与えられるのである。つまり、v=∇S。そして、作用の時間変化はハミルトニアン(-∂S/∂t=H)である。これがハミルトン・ヤコビの方程式というものである。
ガリレオの原理、ニュートンの法則、ダランベールの原理、最小作用の法則、ハミルトン・ヤコビの方程式。こういったものはすべて力学系を対象とする。だから、命を持たない無機物のものである。
岡潔博士は言った。
「じゃあ、自然法則に厳密に瞬時に従う一個の電子と社会法則すら守れない一個人とくらべてどちらが賢いのだろうか?」
「瞬時に最小原理に従って最適経路を運動することのできる電子とスーパーコンピュータを使ってもなかなか最小経路を見つけらない人間とどちらが賢いのか?」
「自然と人間のどちらがより賢いのか?」
「自然科学は間違っている」と。
はたして古典力学のようにして生命を考えることができるのだろうか?
生きているもの、自律しているもの、飲み食いしているもの、出入力のある系。こういうものを扱う理論をどのようにして構築できるか?
最近はこんなふうなことばかりを考えてしまんですナ。
by Kikidoblog | 2014-10-21 15:33 | アイデア・雑多