科学と宗教を極めた物理学者柳瀬陸男博士が言った:「魂は時間と空間を越えられる」
柳瀬陸男博士
人間は生きているかぎり時間と空間に閉じこめられている。
ただ、魂は時間と空間を越えられる
みなさん、こんにちは。
先日、保江邦夫博士のことをメモした。これである。
「スピリチュアルTV」が映るのがiTVだ!:神様につながった保江邦夫家元の講演会!
スピリチュアル界のインディー・ジョーンズこと、保江邦夫博士のこの講演で、その最後の最後に花束を持って登場する女性に対して保江博士が紹介したが、この女性は
柳瀬睦男博士のご夫人であった。
そこで、ついでにこのご夫人の夫であった、柳瀬睦夫博士のことをメモしておこう。私自身世代が非常に違ったのと、研究分野がまったく違ったために、あまり知らなかった。しかしながら、最近の理論物理学のある分野で、量子力学の「ハイゼンベルグの不確定性原理の破れ」の研究というものがあるのだが、その分野で、実はこの柳瀬博士が発見した式が使われているようである。
それが、ウィグナー−柳瀬の公式というものである。最近では、ウィグナー−柳瀬−ダイソンの公式という。
この柳瀬睦男博士は、英語では、ミドルネームがつき、M. M. Yanaseと書かれている。1960年代の論文がいくつかフリーダウンロードができる。例えば、以下のもの。
H Araki, MM Yanase, Measurement of quantum mechanical operators
E. P. WIGNER AND MUTSUO M. YANASE, INFORMATION CONTENTS OF DISTRIBUTIONS
柳瀬博士は、長らく上智大学の副学長と学長を務めたという。その間にたくさんの本を執筆ないし翻訳されたらしい。例えば、以下のものがある。
最後に2008年12月7日に満86歳でご逝去されたらしい。その時の上智大の追悼文を見つけたので、これもメモしておこう。以下のものである。
神学に精通の物理学者…元上智大学長・柳瀬睦男さん
2008年12月7日、肺炎のため86歳で死去
決して偉ぶらず、ギラギラと自分を表に出さない紳士が静かに息を引き取った。
大阪府出身。曾祖父の代からキリスト教徒で、小学3年で洗礼を受けた。東京高等学校から東大に入り、物理学(強磁性体)を学んだ。ときは戦争のまっただ中。1945年8月、物理学によって生み出された原爆が広島、長崎に相次いで投下された。大学卒業後、「物理学を宗教的な意味から考え直したい」と、物理学から離れてカトリック修道者としての道を選んだ。
しかし、優秀な学者はいつまでも放ってはおかれない。上智大の理工学部開設時に請われ、学問の道に戻った。
59年、理論物理学を学ぶために米プリンストン大へ留学した際、思わぬ人物と出会った。原爆の完成を指導した物理学者、オッペンハイマー氏である。大学院の助手として柳瀬氏の指導を受けていた東大名誉教授の村上陽一郎氏(72)はこう語る。
「(オッペンハイマー氏は)非常に内向的な方で最初は心を開かなかったそうです。しかし、柳瀬先生の人柄のせいか次第に打ち解け、原爆がもたらした被害についての自責の念を繰り返していた、とうかがいました」
高等学術研究所の所長だったオッペンハイマー氏はその後、柳瀬氏を研究員として同所に招いた。世界の第一線で活躍する多くの学者と接し、後に米滞在を「第二の青春を知的な喜びで満たしてくれた」と振り返った。
神学に精通した異色の学者。そのためか、周囲には道を究めた一流の学者が集まった。ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏は、柳瀬氏の影響によってキリスト教に導かれたといわれる。
村上氏によると、苦労は学長時代よりも大学紛争が激化した60年代後半の副学長時代に多かった、と打ち明けていたそうだ。上智大では大学構内をロックアウトして沈静化を待つ“上智方式”を断行。好きな学問にも打ち込めない日々が続いたが、「副学長という立場なのだから、それは覚悟のうえ」と気に留めなかったそうだ。
生前、「人間は生きているかぎり時間と空間に閉じこめられている。ただ、魂は時間と空間を越えられる」と説いていたという。時間と空間を超越した世界で今、柳瀬氏はどんな道を歩んでいるのだろう。
ZAKZAK 2009/01/08
ノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士は、かつて博士の留学中時代のプリンストン高等研究所の雰囲気を
「まるで天国に来たかのようだった」と評した。まだ太平洋戦争大東亜戦争後まもなく、まだ高度成長も見込めないという時期の日本から米国の最先端の大学に行った時のことである。
当時の日本社会は、焼け野原からやっと掘っ立て小屋ができつつあったころである。
最近の「梅ちゃん先生」の時代である。そんな時代に柳瀬陸男博士も海を渡った。
私が海を超えた1980年代後半は日本はバブル全盛期だった。だから、世界中どこに言っても独身貴族の日本女性が旅して回っていた。それも一流のブランド品と服を来てだった。だから、80年代には日本人がアメリカに言っても、不景気で治安の悪化が出始めた頃のアメリカだったから、私が受けた印象は、
「アメリカ?別に〜〜」という感じだった。町並みに関してはそれほど驚くほどの印象はなかったが、やはり研究におけるシステムには驚くことが山ほどあった。そういう時代に変化していたのである。
そんなわけだから、柳瀬陸男博士の感じた印象も相当なものだったに違いないが、その時代にプリンストン大で正教授になるというのは並大抵のことではなかったのである。今でも大変な時代に敗戦国の日本から勝利国のアメリカの教授になったのである。
確かに当時のアメリカは戦乱経験を受けていなかったから、敗戦国の日本人に対して、今で言う「最恵国待遇」で迎えた。要するに、日本人をアメリカナイズする路線に変更したのである。だから、見込みのある日本人を比較的暖かくアメリカの大学社会に向かい入れた。
この時代背景で日本から米国に拠点を移した日本人物理学者には、柳瀬博士の他に、
木下東一郎博士
ご存知、ノーベル賞の
南部陽一郎博士
真木和美博士(ノーベル賞候補の一人。2008年死去。追記:ちなみに、28年前私がユタ大にいた頃、真木博士の講演を聞いた。真木博士の英語は超絶早口のジャパニーズイングリッシュ。講演自体の内容は非常にすばらしいものだったが、それを聞いたユタ大教授陣などだれも英語が理解できなかったのだ。真木博士の英語を聞き取れたのは、我々日本人だけだった。当時私は有名なユダヤ系ダン・マティス教授の統計力学の授業をとっていたが、このマティス博士がこういった。「私は真木博士とは25年来の友人で彼が優れた物理学者だと知っている。しかしながらこれまでに何度も彼の講演を聞いてきたが、彼がなんて話しているのか一度も理解できたことはない。いつもトランスペアレンシーに書いていあることから理解する。」古き良き時代のエピソードである。)
ニューヨーク州立大バッファロー校の石原明博士
などがいる。他にもたくさんの方々がこの1950年代から1960年代にアメリカに渡った。もちろん、欧州に渡った人もいる。
そんな中でも理論物理学者でありなおかつカソリックの神父さんというのは、おそらくこの柳瀬陸男博士しかいない。
というわけで、最近保江邦夫博士が言っているようなこととまったく同じことを言っていたというところが実に興味深い。
「人間は生きているかぎり時間と空間に閉じこめられている。ただ、魂は時間と空間を越えられる」
ご冥福をお祈りいたします。
by Kikidoblog | 2014-11-20 09:26 | スピリチュアル