坊っちゃんが「坊っちゃんそば」を食べる!:坊っちゃんのモデル弘中又一が通った福助
私も中学生時代には、仲間からよく「井口は坊っちゃんだからな」とよく言われたものだ。たまたまその頃は、父が元気で活躍し、我が家は破竹の勢いでリッチだったからだ。
さて、
夏目漱石の小説
「坊っちゃん」といえば、その主人公の坊っちゃんは、私が出た東京理科大学の前進の物理学校出の高校教師ということになっている。
坊つちやん
『坊っちゃん』(ぼっちゃん)は、夏目漱石による日本の中編小説。 1906年(明治39年)、『ホトトギス』第九巻第七号(4月1日発行)の「附録」(別冊ではない)として発表。1907年(明治40年)1月1日発行の『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に収録された。その後は単独で単行本化されているものも多い。
主人公は東京の物理学校(東京理科大学の前身)を卒業したばかりの江戸っ子気質で血気盛んで無鉄砲な新任教師である。漱石が高等師範学校(後の東京高等師範学校)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。
人物描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、痴情のもつれあり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品である[1]。
漱石が、愛媛尋常中学に赴任していた1年間に経験した体験をモデルに小説としたものであるという。
では、そのモデルはいたのか?
というと、それが、弘中又一という、漱石の親友であった。この人である。
弘中又一(非常に私に似ている。)
この弘中又一の破天荒な性格とその実話体験を元にして、理科大出の関東の人間に仕立て上げて、坊っちゃんとしたのである。
実際の、弘中又一さんは、こんな経歴だった。
事実は小説よりも奇なり
【略歴を説明しよう】・・・
1873年(明治6年) 夜市(やじ)川の上流に広がるのどかな湯野温泉・山口県都濃郡湯野村第287番地で、
父・弘中伊亮、母・タメの長男として生まれる。
萩藩の重臣・堅田 就政 の旧家臣の家に生まれ、地元の湯野小学校に入学する。
高学年になると、桜田小学校(現在の 戸田小学校)の中等科を卒業。
1890年(明治23年) 京都の同志社普通学校(現在の同志社大学)に入学。
私塾時代の漢文の先生が京都に住居を構えたことから、 慕って京都の学校へ進学した、という説がある。
1894年(明治27年) 同志社普通学校を卒業。柳井小学校代用教員となる。
1895年(明治28年) 5月に、愛媛県松山尋常中学校の英語の教師に赴任する。
そこで、夏目金之助、後の夏目漱石と職場を共にする。
1896年(明治29年) 愛媛尋常中学校東予分校に転任し、その年に徳島県尋常中学校第二分校に転任する。
1900年(明治33年) 埼玉県尋常中学校第二分校(旧制熊谷中学時代)に着任する。
1912年(明治45年) 同志社中学校に転任する
1932年(昭和7年) 同志社中学校を退職する
1938年(昭和13年) 8月6日、京都に住んで数学などの研究をされていましたが、死去する。
弘中又一は、1896年(明治29年)夏目金之助(=後の夏目漱石)とともに愛媛尋常小学校の新任教師として赴任する。そして、1年後に、漱石は熊本の第五高等学校に転任。方や、又一はここ徳島県の尋常中学校第二分校に転任した。
私も最近まで知らなかったのだが、この徳島県尋常中学校第二分校こそ、阿南市にある、富岡西高校の前進である。以下のものだ。
県立富岡西高等学校
沿革
1896年4月 徳島県尋常中学校第二分校として開校
1901年7月 徳島県立富岡中学校となる
1948年4月 徳島県富岡第一高等学校となる
1949年4月 高等学校再編成により徳島県富岡西高等学校となる 男女共学を実施
1956年4月 徳島県立富岡西高等学校と改称
1996年5月 創立100周年記念式典挙行
所在地 徳島県阿南市富岡町小山18-3
ちなみに、徳島県尋常中第一分校 ⇒ 徳島県脇町中学校 ⇒ 徳島県立脇町高等学校である。
本校の前身校時代
[1879]高知県立脇町中学校開校。
[1880]徳島県立脇町中学校と改称。
[1885]徳島県立脇町・富岡・川島の三中学校を廃止し、徳島中学校に統合する。
徳島県尋常中学校第一分校時代
[1896]徳島県立尋常中学校第一分校として開校。
つまりだ。
坊っちゃんのモデルとなった弘中又一は、ここ阿南市に新しく誕生した中学校の「 徳島県尋常中学校第二分校」の開校とともに愛媛から赴任したのである。
漱石は熊本の五校へ、又一は阿南の富西の前進に赴任したのだ。
この富岡西校は、その後徳島県天下の富西(とみにし)となる。そして、その時代に初めて徳島県にサッカー部を作り出した2校の1つとなった。富西と徳商である。そして、二強時代を築いた。
戦後、この富西サッカー部は、女学校だった富東(富岡東高校)が共学化しライバル校となるに従って、どういうわけか地盤沈下し、今では、学力スポーツともに富東の方が富西の上となってしまったのである。ちなみに、我が息子たちは、長男が富西、次男が富東出身であった。
さて、話を元に戻すと、実はその弘中又一先生が、阿南の尋常中学校第二分校(=富西の前進)で教師をしているころ、あしげく通ったといううどん屋があった。それが、福助というお店である。
それで、戦後の今の代になっても、その福助は坊っちゃんのモデルであった弘中又一がよく食べに来たという記憶を失わないために、なんと「坊っちゃんそば」「坊っちゃんうどん」を作るようになったという。
この話は地元のテレビ局でたまたま放送したのだったが、私は「坊っちゃん」と同じ物理学校(=東理大)出である。だから、一度はその「坊っちゃんそば」を食べてみたいと思っていた。
ところが、たまにその店の前を通るたびに暖簾がなく、休業か、開店休業のような感じだったのである。それゆえ、これまで一度も食べる機会がなかった。
しかし、ごく最近、たまたま阿南の電気屋にMac用の電池を買いに行った帰り道、その店の暖簾に気づいた。そこで、恐る恐る中に入ったというわけだ。そして、ついに
坊っちゃんそばを食った。これである。
坊っちゃんそば
福助メニュー
さて、中に入ると、壁にはこんな新聞が貼ってあった。
まあ、そういうわけで、
山梨甲府の坊っちゃんが、ついに漱石の坊っちゃんが食べた福助で、坊っちゃんそばを食べるに至ったというわけですナ。
たぶん、阿南の人もほとんどこの話は知らなかったに違いない。
by Kikidoblog | 2015-03-25 18:18 | 人物