2chから拾って来た岡潔博士の文章1:「第一の発見」「第二の発見」「第三の発見」
さて、せっかく岡潔のことをメモしたから、そのついでにちょっとメモを加えておこう。
横山さんの岡潔思想研究会に問題があるとすれば、やはりそれは「ゆっくり」ということかもしれない。
なにせ、研究会で読んで、理解してから文字に起こすわけだから、自分たちが理解できないことやまだその作業中のものは文字にならない。だから、ましてや岡潔の死の直前のもっとも霊的に高いレベルの講演やら著作はまったく手が付けられていない。
また、岡潔は超人的な大数学者である。一般人は岡潔が語る科学や数学にちょっとでも関与すれば理解不能になる。だから、数学者岡潔の思想圏を理解するには、読む方も考える方も岡潔並みでないと不可能なのである。
その点、「俺の本を翻訳するには俺以上の哲学者たれ。さもなくばならん」といったショーペンパウエルの言葉が蘇る。
そんなわけで、横山さんの研究会にはまったく手が付けられずに眠っている文献や資料も山のようにあるらしい。
そういうわけだから、こちらが期待するものが出て来るのを待っていれば、それまでにこっちの方が先にお陀仏かもしれないわけだから、気の短い人間は我慢できないだろうヨ。
そこで、俺は考えた。
ひょっとして、インターネット内でだれか横山さんの資料以外の情報を提供したものがいないのか?
ビンゴ!ピンポ〜〜ン!
あった、あった。なんとかの悪名高き痰壷である2chにあったのである。以下のものである。
岡潔
今回はそんな中の興味深いものをメモしておこう。
(あ)数学上の発見の話
第一の大発見
私は西暦1925年に大学を出て、1929年の春に船でフランスへ向かった。 その途中でシンガポールへ寄ったのである。 私はそのとき二つほど習作はしていたのだが、こんどはライフワークを始めようと思った。 それには数学のどの分野を開拓するかを決めなければならない。 つまり開拓すべき土地が問題なのである。私はそれさえ決めればよいのである。 こんなふうだったのだから、産業界は工業時代から情報産業時代に移ったと聞くとよくわかる。
ソルボンヌ大学(パリ大学)とはどういう所かといえば、授業料は三種類ある。 一つは講義を聞くためのもの、一つは図書館を使うためのもの、一つは学位論文を審査してもらうための手数料である。 人員に制限もなく国籍も問わない。授業料さえ払えばよい。 アメリカ人はずいぶん来ていた。家庭教師を雇うより留学させたほうが安くつくからである。 数学教室は独立した建物になっていた。ロックフェラーの寄付で建てたのである。 アンリ・ポアンカレ研究所という名がつけてあった。
そこには大きな講義室が二つあった。小さいのはずいぶんあったが、いくつあったか知らない。 大きな部屋にはフランスがほこる大数学者たちの名をとって、 一つをエルミットの部屋、一つをダルブーの部屋といった。図書館がついていた。
私が着いたときは、もう夏休みに近かった。 この大学の夏休みは非常にながい。一年が三つにわかれていて、特別講義は毎年変わるのだが、その講義は最後の三分の一だけで、 先生たちは初めの三分の一は文献の準備、 次の三分の一の夏休みにだいたいの研究をすませて、 最後の三分の一でそれを講義しながら書き上げているような気がした。 先生のお弟子が講義の速記をする。それを先生が見て直すべきは直して、毎年本にして出す。 要点だけを抜き出して論文も書くというふうにしているようにみえた。 論文は夏休みがすんでから講義が始まるまでの間に書くのかもしれない。
私はその年度はその図書館の閲覧できる授業料だけを払った。それでもうパリ大学の学生である。
パリ市は城のあとである。その南の入り口にモンスーリーという公園があって、その外側に大学都市がある。 まだ城郭の内側だが、ここだけは自治を許されていて、パリ市は関与しない。 そのいわば国際的自治都市の中に日本会館もある。私はその一室を借りていた。 私のすべきことは、この図書館を相談相手に、この学年中にライフワークのための土地を選ぶことである。
そんなこと、日本でしても同じではないかというかもしれないが、 日本にいてはそれができないし、フランスにおれば易々とできるから全く不思議である。 何しろここは、ギリシャに源を発するラテン文化の流れを真向きに受けている国だから、 ただクラゲのようにポカポカ浮いてさえおれば、流れがおのずから着くべき所へ着けてくれるのである。
これが環境というものである。もちろん地上の影をそう呼んでいるのであって、これは生命のメロディーの影なのである。 彼らはそれを自覚してはいないが、やるのはそれでやっているのである。
論より証拠、だいたいその学年中にはライフワークの土地として、多変数解析函数の分野が見つかった。 それで、次の年には講義を聞くことのための授業料を払った。 そして世話してもらえる先生の家を訪ねた、私はそこで、先生の論文を少なくとも75はもらった。 しかし読んだのは二つだけである。しかもそのうちの一つは、日本で読んでいたのである。 この論文は広島の大学(後に岡が赴任する広島文理科大学、現在の広島大学)の私の部屋の書物棚へ入れておいたのだが、 私がそこを(広島事件等のために)やめた後も、いくら送ってくれといっても送ってくれないのでそのままにしておくと、 原爆で焼けてしまった。
三年目も学位論文の審査のための手数料は払わなかった。習作は日本で二つしていたし、フランスでも二つしたが、 そんなのを審査してもらって学位をもらっても仕方がない。
ではなぜ、留学は二年だのに頼んで三年いたのか、というと、 私はフランス文化をそれほど高く買っていなかったのであるが、これについては後に述べる。 ではなぜかというと、私は芥川の好きな中谷治宇二郎君(「日本先史学序史」の著者)とすっかり気が合ってしまって、 もうしばらく一緒にいたかったからである。 今になってこれが私にたいへん役立ったことがわかる。 私はじっと動かないし、この人はなんだか永遠の旅人という感じである。
ところでそのラテン文化であるが、私にはなんだか、「高い山から谷底見れば瓜や茄子の花盛り」という気がした。 この土地はいわば高原のようなものであって、その山に上る第一着手は、30年近く誰にもわかっていないのである。 十中八九、私にも見いだせないかもしれない。しかし一、二、可能ではないといい切れないふしもある。 よしやってやろう。私にできるかできないかわからないが、私にもできないのに、フランス人にできるはずがなかろう。 こう思ったから、これをやると決めたのである。
ラテン文化は実際は、私が思ったよりずっと底が深かったのであるが、これも日本に帰ってみて初めてわかった。 これも、というのは、この随想でいったかいわなかったか忘れたが、 私はフランスへ来て、初めて日本のよさがはっきりとわかったのであった。
今や私には問題はしぼられて、第一着手の発見が問題である。 私はパリのあらゆる文化をこの発見に役立てようとした。
私は1932年に日本へ帰って、(京大から厄介払いされて)広島の大学へ勤めた。 ずいぶんこの問題の解決の探求の邪魔になるのだが、 (ドイツでなくフランスに)洋行させてもらって、しかも一年延期してもらったのだから仕方がないのである。 そのうち1934年の暮れになった。
ドイツのベンケがトゥルレンに手伝わせて多変数解析函数の分野の文献目録のようなものを出してくれた。 私はそれが手にはいったから、翌1935年の一月二日から、それを持って私の部屋に閉じこもった。
これは私には箱庭のように思える。それを二ヵ月かかって丹念に心に描き上げた。今や困難の全貌は明らかである。 問題はその上へ昇る第一着手を発見することである。
私はくる日もくる日も、学校の私の部屋に閉じこもって、いろいろプランを立てては、うまくいきそうかどうかをみた。 日曜など、電気ストーブにスイッチを入れると石綿(アスベスト)がチンチンチンと鳴って赤くなっていく。 それとともに心楽しくなる。きょうは一日近く自分のものだし、 昨日まで一度もうまくいかなかったということは、きょうもまたうまくいかないということにはならない。 そう思って新しいプランを立てる。日が暮れるころまでにはうまくいかないことがわかる。
そんな日々が三月続いた。私には立てるプランがなくなってしまった。 少しも進展していないし、もうやりようがないし。
私は、これもパリでしばらく非常に親しくしていた中谷宇吉郎さん(理化学研究所所員、人工雪の製作に世界で初めて成功)、 この人は治宇二郎さんの兄さんで寺田先生(物理学者寺田寅彦、東京市生まれ、高知市出身)のお弟子なのであるが、 その人が、北海道へ遊びにこいといってくれたので行った。 そんなことをしている間も、知的にはもうすることがないのであるが、情意は働き続けていたのである。
中谷さんのいる札幌へ着いて、中谷さんの家の裏へ下宿した。 札幌の大学は講師の阿部社長(寺田先生のお弟子で、北海タイムス社長)の部屋を貸してくれた。 私は毎日そこへ行くには行くのであるが、何しろ知的にはもう私にできることはないのだから、 十分もたてば眠くなって、そこのソファに寝てしまう。 そのうわさが北大の理学部中にひろまって、口の悪い吉田洋一さんの奥さんが、嗜眠性脳炎という仇名をつけてしまった。
中谷さんは、「岡さん、札幌は失敗だったね」といった。 この嗜眠性脳炎の時期が、札幌へ来る前から数えて、三月続いた。 そうこうしているうちに九月にはいって、もう広島へ帰らなければならない日が近づいていた。 そうしたある日、中谷さんのお宅で朝食をいただいた後、いつもは一緒に学校へ行くのだが、 その日は妙にじっとしていたくて、一人残って応接室にすわり込んでいた。 二時間近くもそうしていただろうか。
そうするとパッとわかったのである。この種の発見に伴う悦びが、ながく尾を引いた。
疑いは少しも伴わない。私はその後を考えた。これが多変数解析函数についての論文Ⅰになるのであるが、 私には後のⅤまでは大した問題のないことがわかった。
Ⅰを書いたのは翌年の蛙鳴くころである。
第二の大発見
日本の文化の本質を調べてみて、 数学における情操型発見を詳しくお話ししておくことがどのように大切であるかがよくわかって来た。 それで話を少しもとに引きもどしてお話ししよう。
京大数学教室の二年以後の有り様から言おうというのである。 当時の教室の教授は四人で、うち一人は和田先生であったから、残りは三人である。 河合十太郎先生が函数論を、西内貞吉先生が射影幾何学を、園正造先生が代数学及び数論を教えられた。 ほとんどこの先生方の講義しかなかった。 この講義時間数が非常に少なかったということが、この教室らしく教えるには非常に大切なことであった。
私は意識してこの教室に入ったのではない。しかし入ってみるとここも神代の文化を教える所であった。 百花繚乱の花園に遊ぶようである。それでいて私は一日一日目が開けて行くような気がした。 かようにして私は数学研究を始めるための雰囲気を用意してもらったのである。 花が開くためには春の気が必要なのである。
数学研究の初めの頃は、私はインスピレーション型発見ばかりした。 しかしこれは情操型教育の上でインスピレーションを感じていたのである。
初めは、数学は西洋の学問だから、西洋にやり方を学んだことになって、こうなったのだと思う。 だんだん研究に習熟するとともに、東洋本来の型である情操型発見が出るようになった。
私の多変数解析函数の研究には三つの難関があった。 第一論文で突破したものと、第六論文で突破したものと、第七論文で突破したものとである。 そのうち第一論文はインスピレーション型発見、第六論文は(中間の)梓弓型発見、第七論文は情操型発見である。 これらについてお話ししようというのである。
第一論文を書いたときから私はこの第六論文の突破法について色々考えていた。これが研究本体であった。 私はゆるゆる書きながら暗中模索を続けたのであるが、少しもわかって来ないうちに第五論文まで書いてしまった。 いよいよこの難関を何とかして通らねばならぬ。
その頃日本は日支事変の最中で、国民精神総動員のやかましく言われている頃であった。 私は広島の大学をやめて郷里の和歌山県で研究していた。
論文で言って、第五までと第六からとは、問題の型が違うのである。 第五まではそうなることを言えというのであり、第六のものはそんな風に作れというのである。 初めのものは函数論的であり、あとのものは解析学的である。
私は解析学におけるものの作り方を一応しらべた。そんな作り方は何もない。 それで思った。 今の数学の進歩の状態でこの問題を解けというのは、まるで歩いて海を渡れと言うようなものである。
そう思うと急に実際それがやってみたくなった。それでちょうど台風の襲来が予報されていたから、 (広島事件同様家族に無断で)台風下の鳴門の渦を乗り切ってやろうと思った。
それで大阪港から船に乗ったのだが、台風はそれて、まるで春のような海を見せてもらっただけである。
読む本もないままに年が変わって蛍の季節が来た。 当時、もと紀見峠の上にあった私の家は軍用道路になってしまったために、 私は峠を南に下りた麓の所に家を借りて、家内と子どもたち三人とで住んでいたのだが、 毎夜一家総出で蛍を取って来ては裏のコスモスの茂みに放してやり、 昼は毎日(近所の子どもたちにからかわれながら)土に木の枝でかいて、 解析学の諸々の作り方を、もう一度、きちきち調べ直してみた。 そうしているうちにだんだん要求されている作り方の性格がわかってきた。
それで、フレッドホルム型積分方程式論の冒頭の二頁ほどを残して残りを切り捨ててみた。 この切り捨てるという操作がこの際絶対に必要なのである。
そうすると何だか使えるかも知れない、一つのものの作り方が出て来そうに思えたからそうしてみたのであるが、 それを実地に使ってみると果たしてうまく使えた。 難関は突破されたのである。
帯金充利「天上の歌―岡潔の生涯」より 開戦
こうして研究一本槍の毎日を送っていた潔であったが、1940(昭和15年)の10月に京大から理学博士号を受けた。 これは、金銭的なプラスにはならないが、それまでの研究(第一論文から第五論文まで)が認められたということである。 しかし潔は学位には関心がなく(フランス留学中の時にもそうであった)、もらうことを強く拒否したが、 周りから説得されてしぶしぶ受けたのであった。
第三の大発見
第七論文に移る。私は中谷宇吉郎さんの御厚意で北大理学部から「理学部研究補助を嘱託す」という変わった辞令をもらって札幌市に下宿して、何をしてよいかわからないから、功力教室の人たちに詰将棋を詰めさせたり、ピアノを聞かせたりしていた。
冬の初めだったかと思うが、石炭ストーブのよく燃えている下宿の一室で十時頃まで寝ていると、下宿のおかみさんにあわただしく起こされた。行ってみるとラジオが真珠湾攻撃を放送していた。私は、しまった、日本は亡びたと思った。
そして茫然自失していた。 当時の私の心境を、次のある無名女流作家(横井栄子という歌人)の歌がぴったり言い表している。
窓の灯に うつりて淡く 降る雪を 思ひとだえて われは見ており
しかし、やがて一億同胞死なば諸共の声に励まされて、それもよかろうと思って、数学の研究の中に閉じこもった。そしてある時期から後は、もっぱら次のテーマに没頭した。多変数解析函数の分野における不定域イデアルの研究。このテーマに関して、アンリー・カルタンが一つ非常に重要な結果を出している。しかしほかに誰も研究したことを聞かない。
この研究は非常に面白かった。しかし、どうしても完成できないままで終戦になった。
予想通り完敗したが、意外にも亡びなかったのである。これは一つはキリスト教のお陰であって、今一つは陛下のお陰である。
終戦になると、それまで死なば諸共と言っていた同胞が、こともあろうに食糧の奪い合いを始めた。私は生きていることも死ぬことも出来なくなった。それで存在の地を仏道に求めた。
(戦中から紀見峠に戻っていたが)終戦後第三年目の五月頃、私は光明主義のお別時(別時念仏)に就いた。 五日泊り込みで修行するのである。これが終わってあとの有り様は前に書いたが、最も大切な点であるからもう一度繰り返す。
帰りの京都の市内電車は非常な雑踏であった。私はズック靴をはいて腰掛けていたのだが、前の、立って下駄をはいている人に下駄で足を踏まれた。しかし私は、二つの足が重なり合ったな、くらいにしか思わなかった。お別時まではこの情景を見て、生きるに生きられず死ぬに死なれなかったのである。
日本人は、何となく外界は自分の心の現われと知っているのが本来の型であるから、心をお掃除すれば外の情景が全く変わるのである。
これが情操型研究のよって来る所である。
私は家に帰ると、また研究を始めて、毎日一時間ほどお念仏しながら、心の中に描いておいた不定域イデアルの姿を詳細に見直していった。私の、自分の心の中を見る目は、驚くほどよく見えるようになっている。
そのうち、一次方程式の形式解の局地的存在を言う問題の所に目が留まった。前にはこの一区画を本当に見極めてはいない。
よく見ると、すぐにこの存在が言えた。証明は二頁くらいである。そうすると解きたいと思っていた問題は皆完全に解けた。研究は完成したのである。
私はあくまでも「是心是仏」派らしい。
帯金充利「天上の歌―岡潔の生涯」より 高木貞治との交流
さて、こうして数学的に見れば歴史に名が残るような偉業を成し遂げた潔であったが、その生活は日増しに苦しくなる一方だった。潔は後にある数学者に、
「自分は数学の研究に打ち込んだので(生活の中で数学したのではなく数学の中で生活したので)、
まず田畑がなくなり、次に着る物がなくなり、次に住む家がなくなり、しまいには食う物もなくなった」
と言ったことがあるというが、その「食う物もなくなった」という状態になってきたのである。
それで潔が考えたのは、奨学金のようなものをもらうことであった。 生徒や学生ではないから奨学金というよりも「研究補助」と言う方が当たっているかもしれない。 要するに、潔が1941年から42年にかけて北海道帝国大学に行っていたようなシステムということである。
潔はそれを、当時すでに日本数学会の第一人者であり、世界的にもその名を知られていた高木貞治(1875~1960)に託したのであった。
高木貞治は、その名著『解析概論』とともに多くの理系の人間にその名を知られている。 そして(ドイツ数学を呑み込んでしまった)類体論の創始者として世界中から注目された数学者である (今、日本を代表する数学者を二人上げろと言われたら、百人中百人が高木貞治と岡潔の名を上げるだろう)。
昭和22年の4月18日という日付をもつ高木宛の手紙は非常に重要である。 その中に、前年までの研究で解明されていない問題が二つあることが書かれているからである。 それは、次の二つである。
Prob.E―(局所的に)Riemann面を抽象的に与えて、それを生む正則函数を求めること。
Prob.H―任意のRiemann面を(R)とし、その上の任意の点をP0とする時、
(R)はP0の近傍において、もしそれらを生む正則函数をもつならば必然的性質H'をもつか。
そして、潔はこう言う。
所で、先生に申し上げたいのは、其の本質的な部分は解いて了ったと思った(今でもそう信じて居ますが)
其の瞬間に、正確には翌朝目が覚めました時、何だか自分の一部分が死んで了ったやうな気がして、洞然として秋を感じました。それが其の延長の重要部分が、上に申しました様に、まだ解決されて居ず用意には解けそうもない、と云ふことが分って来ますと、何だか死んだ児が生き返って呉れた様な気がして参りました。 本当に情緒の世界と云ふものは分け入れば分け入る程不思議なものであって、ポアンカレの言葉を借りて申しますと、理智の世界よりは、或は遙に次元が高いのではないかとさへ思はれます。 又此の二つでは主観と客観とが入れ変って居るのではないかとも思はれます。物と物との結びつき方も全く違っていますし、ともかく一方だけを使ふのは、片足で歩く様なものではないかと思ひます。
これほど研究に対する情熱と自信がほとばしり出ている言葉があるだろうか。 これだけのことを成し遂げたというのに、潔の研究はまだまだ続くのである。
この手紙が書かれた翌年の1948(昭和23)年、潔は第七論文をフランスの学術誌「Bulletin de la Societe Mathematique de France」に送り、受理された。 これは、新たな研究の端緒を拓いたということを(高木への手紙にあるように、まだ解明しなければならない点は残っているけれども) フランスに報告したいという潔の気持ちの表われであろう。そもそも潔が論文をフランス語で書くというのも、その問題をフランスで発見したからであるが、その潔がついにその問題を解決してフランスに凱旋したのである (なお、潔は日本語については、「日本語は物を詳細に述べようとすると不便だが、簡潔にいい切ろうとすると、世界でこれほどいいことばはない」と言っている)。
こうして、潔が断行した「勤めをやめて研究に専念する」という生活は確実に実を結んだ。しかし、経済的には完全に行き詰っていた。もはや(ニート生活のままでは)自活の道はなく、(パンのために泣きながら)潔はそれまでかたくなに拒んでいた(奈良女子大学教授という)勤めを始めなければならなくなったのである。
(つづく)
by Kikidoblog | 2015-08-27 14:48 | 岡潔・数学・情緒