「キング・オブ・キングス」(1961)の「イエスの活人術」と「魂のかけら」:一寸の虫にも五分の魂
お祈りの力 ~ 私の人生に奇跡が起こり続いている!
みなさん、こんにちは。
(あ)「キング・オブ・キングス」(1961)の「イエスの活人術」
いや〜〜、やはり「神様はおられるのかも」というようなちょっと興味深いことがこの日曜日に起こったのだ。
先日まで紹介した保江邦夫博士のご著書
「唯心論武道の誕生」に登場する「キング・オブ・キングス」(1961)をレンタルしようと市内のツタヤに奥さんといっしょに行ったのだ。そして、その下にある市内の本屋で、この本とほぼ同時期、おそらくちょっと前に書かれたという「魂のかけら」なるご著書をすでに注文してもう入ったと連絡があったために、それも買おうと行ったのである。
レンタルショップで検索装置で調べるとどうもその古い方の1961年製作のはなかったのだが、女店員さんに調べてもらうと「あった」という。そこでそれを一旦は借りたわけだ。
ところが帰り際にちょっと見ると、どうも絵が違う。主演男優の名が違うということがわかり、製作年を調べてもらうと、やはり新しい映画の方だった。そこで、これは違うやつだということで返して、その下の本屋で保江先生の
魂のかけら―ある物理学者の神秘体験 単行本 – 2007/1だけを買ったのである。
阿南市内には古本ショップが2点だけあり、その本屋に近い方からまずその映画のDVDがないか探す。しかしやはりそこにはない。そこで我が家の帰宅の道すがらもう一方のショップでありそうな場所を2箇所調べてもらうと、やはりないということですごすごと帰ろうとしたのだ。が、「ひょっとして」と思い、私がその女店員が最初に調べた方を見てみると、一番下の棚に「あれ?」「キング〜〜〜」とあるから、よく読むと「キング・オブ・キングス」とある。「まあ、新しいやつだろう」と取り出してみると、「ビンゴ」。なんと
1961年版の「キング・オブ・キングス」
「キング・オブ・キングス」だったのである。750円。
そこで、昨日は奥さんと夕食の時間にずっとこの映画を見たのである。
そして、私が知りたかった「イエスの活人術」の場面をずっと探していた。そして、ついにその瞬間が来た。私は奥さんに、「そろそろ例のイエスの活人術が出てきそうだ、きっとこの辺だよ」、と言って見ていた。
暴れまわるキ印の暴漢がイエス(=ジーザス)を発見するやいなやイエスの方に走り寄る。そして一気にイエスに立ち向かい首を締め始める。すると、イエスはいとも簡単に赤子を寝かしつけるかのように、あるいは、子供をベッドに寝かしつけるかのように、抱え込みながら仰向けに倒す。すると、相手は狂気の顔から慢心の笑顔になり、イエスの差し出した手に向かって自分の手を差し出してイエスに起こしてもらう。
とまあ、こんな場面として描かれていたのである。
いや〜〜、これが保江博士が推奨する「イエスの活人術」か!
と私は黙って見ていたのである。
まさに「合氣道」「愛魂道」であった!
興味ある人にはお勧めである。ぜひ一度ご覧ください。
(い)「魂のかけら」
さて、一方の「魂のかけら」の方は、今読んでいる最中だが、これまた面白い。
しかしながら、こういう話をまだ自分の実名で書くだけの自信がなかったという時代のことであって、
佐川邦夫
というペンネームで書かれた本である。エッセイ集のようでもあり、詩集のようでもあり、未知の読者への手紙のようでもあり、実に不可思議な本である。
しかしその文章や文体は、文豪にまったく引けを取らなかった湯川秀樹博士の最後の弟子でもあった保江邦夫博士だけあり、実に名文である。校正も凝っていて一気に書き上げたものとは思えない。
かつて私が奥さんと出会った頃、ユタ州ソルトレークのアパートで毎日1章ずつたったの一週間で書き上げた文章、これが後に近代文芸社から自費出版された拙著の「日本社会の構造的問題とその解決の方向―三セクター分立の概念」となったのだが(そのずっと後に再出版したのが「三セクター分立の概念」である)、まったくテーマも内容も異なるが、その時と同じ匂いのする本であった。
つまり、
魂の叫び声
が書かれているのである。
たくさんの奇跡のような話、奇跡としか思えない話、いや実際の奇跡の話の数々が散文詩的に記述されている。
これまた一読すべき本である。
(う)モンセラートの修道院
私は保江博士の一番弟子の1人の炭粉良三さんが見たという日本のテレビ番組、つまり、モンセラート修道院の修道士がたった二人でモンセラート山で荒行をしているという場面のある番組、これをずっと探しているのだが、いまのところYouTube内では発見できなかった。
きっとまだ出ていないのだろう。あまりに古すぎるからである。
しかしながら、いろいろモンセラート修道院で調べていくと興味深いものがたくさんあるので、それもついでにメモしておこう。以下のものである。
天使の歌声
といえば、かのウィーン少年合唱団が有名だが、ここモンセラートにも少年合唱団があるらしい。それがまた負けず劣らず実に素晴らしい。
モンセラット少年合唱団の歌声
モンセラット修道院の聖歌隊
他多数
バルセロナ モンセラット(モンセラート) Montserrat
基本的にキリストの奥義は「祈り」である。祈るという行為に対してこの宇宙存在が「何かを返す」。これが時に「奇跡=ミラクル」というものになるが、物理学的科学的な言い方をすれば、ある種の「作用反作用」の法則である。
悪いことをすれば、あるいは、悪いことを願えば、その反作用としてカルマが生まれる。いい事を願えば、その反作用として宇宙が何かのいいことを返す。
この単純な作用反作用の法則、これが単に物理的機械的な装置や現象に限らずこの宇宙の存在には必ず成り立つ。ただ単にそんなことを繰り返し多くの偉人達が言ってきただけのようにも見える。
神にいい事を願えば、皆が救われ自分も救われる。
フラーの言葉
これに対して、恐怖を煽れば、自分に別の形の恐怖となって反作用が来る。
フラーの言葉
テスラやドラードのいう電磁気の作用反作用のもっと高次版と言える。そんな作用がある。
したがって、己が単に知識や教育や法律や教義や儀式の成果だけで語れば、反作用もそのレベルの答えが帰ってくるだけだが、自分が魂のレベルで語れば、相手もそれで返してくる。
保江博士の「魂のかけら」とはそういうことを示した本である。だれしも人であれば、「ヒトモドキ」でなければ、魂にたいしては魂で返してくる。
一寸の虫にも五分の魂
はたしてヒトモドキ共に魂の1%もあるのかどうかわからないが、もし魂のかけらのかけらのかけらでもあれば、この世はもっと違ったものになるかもしれない。
そんなことを感じさせてくれる。
人のためにただ祈る。
こんな簡単なことが一番難しいのである。もちろん、サッカーも同じ。
物事は簡単に見えることこそ難しいのである。
アーミテージ、ラムズフェルトよ、神に祈れヤ!
by Kikidoblog | 2015-11-09 14:22 | 保江邦夫博士