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2014年 10月 17日 ( 5 )

 

ブラジルのレシフェで隕石が落下か???:不思議な隕石ですナ。

みなさん、こんにちは。

ブラジルのあのレシフェ(へシフィ)に隕石が墜落したという謎のニュース。
オリオン座流星群が原因!? ブラジル・レシフェ市に隕石が落下。<動画あり>

Meteor Hits Brazil causing meteor fireball over Recife 2014






映像を見た限りでは、東日本大震災の時の青い発光現象や、富士山の山麓の発光現象
とか、桜島の発光現象
とか、何やら摩訶不思議な電磁現象のような感じのものである。



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  by kikidoblog | 2014-10-17 21:15 | ミステリー

日本 北朝鮮 0-1→1-1 →PK敗退 ゴール フル 17/10/2014 AFC U-19:アラブ人のファンも見ているヨ!

みなさん、こんにちは。

日本国内では、U19の日本vs北朝鮮を放映しない。新聞の実況だけである。
U19日本-北朝鮮/アジア選手権速報中

前半ハイライト


しかしながら、世界は広い。なんとアラブの番組から実況YouTubeがあった。以下のものである。
日本 北朝鮮 0-1 ゴール フル 17/10/2014 AFC U-19

それにしてもYouTubeがますます使いにくくなってきましたナア。どうしてかいな?

危うし日本!

準々決勝でこれではひどすぎる!もっとうまい選手はたくさんいるだろうに!

やはり日本代表は高校サッカー経験組でないと無理だネ。

日本代表も大半が高校サッカー部出身者。ユース出身者は、ママのお稽古事の延長でサッカーやってきたから、香川真司のようなおこちゃまばかりになってしまった。困った傾向である。

おっと、今実況新聞見たら、日本が1−1に追いついたよ〜〜!
日本 北朝鮮 1-1 ゴール 17/10/2014 AFC U-19


一気逆転行け〜〜!

結局、4−5でPK負けでした。

いやはやレベル低すぎ。



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  by kikidoblog | 2014-10-17 19:38 | サッカー&スポーツ

「アフリカでエボラ終了宣言!」?:信じる信じないはあなた次第です!?

みなさん、こんにちは。

超驚きのニュース到来。しかもWHO発表という。以下のものである。
エボラ熱、セネガルなどで拡大終了宣言へ WHO
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 【ミラノ=原克彦】世界保健機関(WHO)は17日にもセネガルで、順調ならナイジェリアも20日にエボラ出血熱の感染拡大終了を宣言する。感染者と接触した人の追跡調査の結果、最長潜伏期間の2倍に当たる42日間が過ぎても新規感染者が出なかったためだ。12日までの集計で、セネガルは感染者1人のみで死者はなし。ナイジェリアは20人が感染、死者は8人だった。

 WHOによるとナイジェリアでは2カ所で感染が広がったが、ラゴスではすべての接触者、ポートハーコートでも98%を追跡した。同国内の患者全員について感染経路をたどることができ、「すべてが最初にリベリアから渡航してウイルスを持ち込んだ人物にさかのぼることがわかった」(WHO)としている。

 WHOは加盟国に対し、感染者と接触した人を21日にわたり経過観察措置を施すよう勧告している。観察の対象には防護服を着用する医療従事者らも含む。そのうえで逆転写ポリメラーゼ連鎖反応(RT―PCR)法と呼ばれる検査で陰性を確認する。

さて、米国には失業に悩むアクターがたくさんいる。だからそういう連中は金のためならどんな役でもするらしい。

そういう連中が、ボストンテロ自作自演のクライムアクターをしたのは記憶に新しい。(ボストンテロでブログ内検索)

どうも米国内に連行されたアフリカ人患者や発病したという患者の映像を見る限り、あまりにも不審なものが多い。例えば、これなんかそうだ。
空前のエボラバブル崩壊
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私がここですでにエボラウィルスはインフルエンザウィルスを1000個合体させただけのウィルスだということをメモしたが、感染の仕方はインフルに似ているが、1000倍重くなっているから、空気感染はしにくい。インフルと同じ増殖の仕方をするわけである。だから、タミフルやファビピラビルが効くはずである。

ビル・ゲイツはエボラワクチンを大量生産して全世界に売りまくる計画だったというが、元の木阿弥。もはやその必要もないようである、もしこのWHOの発表が真実であればだが。

ところで、恐ろしいのは、どうやらエボラがついに「恐怖の国」韓国へ行ったというニュースである。
【緊急速報】エボラ出血熱、韓国でも発生か!!!? これは早く渡航制限しないとヤバイ!!!


韓国人は日本人にエボラを染せば、そやつは英雄視されるという精神風土にある。エボラ爆弾である。売春婦にエボラ感染者を仕込ませて、日本国内の女衒に売る。そして、韓国人売春婦を通じて日本人に感染させる。

こうなると、どうなるか?

たぶんこういう感じになる。
うわ〜〜〜!ヘルプミー!助けて〜〜!
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恐怖のジョーク一発!:韓国人のレイプマネキンがエボラ出血熱マネキンになる日!


即刻、「日韓断交」、韓国との交易は停止すべきだろう。


いやはや、世も末ですナ。



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  by kikidoblog | 2014-10-17 15:20 | バイオコンスピラシー

「司馬史観」以上の「ねず史観」2:戦後日本は「しょうゆ組」に乗っ取られたらしい!

(つづき)

昭和12(1937)年、日本は、日独伊三国同盟を締結しました。
海外「俺達は嘘の歴史を教わった」 日独の蜜月を伝える貴重映像に外国人衝撃
映像は1941年に、当時の外務大臣であった松岡洋右が、
ドイツ、イタリア、ソビエト連邦を歴訪した際にベルリンで撮影されたもので、
ベルリン市民の熱狂的な歓迎を受ける様子が紹介されています。

Hitler and Germany Welcome Japan's Foreign Minister 1/2

これに対し、当時軍務局長だった井上は、
米内光政海軍大臣
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山本五十六海軍次官
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永野修身軍令部総長
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らとともに猛烈と反対しました。

昭和12年とえいば、日華事変の最中です。
そして日華事変を背後で操っているのは、米英です。
けれど、だからといって、この時代にドイツと手を結ぶということは、米英と真正面から対峙することになるのです。
だから反対したのです。

当時の新聞などの論調は
「日独伊三国同盟は集団防衛であり、我が国の国益に適う」
拙注:これが戦前の朝日新聞が吹聴しアジったこと。戦前戦中戦後と朝日新聞はずっとアカヒ新聞だった!
というものでした。
けれど井上は、
「集団防衛というけれど、日本にドイツからどれだけの援助があるのか。またできるのか。強い国と仲良くしていかなけりゃならんのに、アメリカとも仲が悪くなるし、イギリスとも悪くなる。一方で、ドイツからは何等の恩恵もこうむらない。日本にとって何のメリットもなく、得するのはドイツだけです」
と述べています。

振り返ってみれば、井上大将の先見性の方があたっていたといえようかと思います。
けれど当時、三国同盟に反対する井上のもとには、「斬奸状」「宣言」などの奉書が送りつけられ、まさに国賊扱いでした。(拙注:こういうことの手口から戦前戦中戦後と朝鮮人が動いたことが明白。連中はずっと「韓国していた」のだナ。)いまならさしづめ、マスコミから総攻撃を受け、ネットで悪口やら誹謗中傷やらをめいっぱい受けるようなものです。
三国同盟に反対する米内、山本、井上は、「海軍左派の三羽烏」とまで揶揄されています。

昭和15(1940)年、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長となっていた井上に、事件が起こりました。
上海の共同租界で、私服の日本人憲兵が支那人の強盗に襲われ殺害されたのです。
陸軍はこれを口実に国際法規を無視して、一個大隊を租界に進入させようとしました。

これに対し井上は、
「強引に租界に入ろうとする者は、たとえ日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」
と命令しました。
上海海軍特別陸戦隊は、陸軍の行進と対峙し、押し問答の末、陸軍が引き下がっています。

結果からみれば、陸軍の判断の方が正しかったのかもしれません。
外国人一人を殺害したら、支那人1万人が報復攻撃される。
そのくらいの実力行為があってはじめて「侮れない相手国」と看做される。支那社会というのは、そういう社会だからです。
実際、支那に駐屯していた欧米白人諸国は、ぜんぶそうやって自国民の安全を図ってきています。
おかげで、いまだに支那人社会では、現実に植民地支配をしていた欧米に対しては、なんら苦情の申し立てがされません。
支那の社会では、何十万人が殺害されようが、いま自分が生残っていればそれで良いのです。
そして生残るためには、あえて危ない橋は渡らない。
これが彼らのマインドです。

けれど、その一方で、本当の意味での平和と繁栄を築くためには、そういう支那人的わがままには一切妥協せず、どこまでも正しい道を貫いて行くという努力が必要であることも事実です。
そして、いまを生きる私たちにとって必要なことは、そのどちらの判断が正しかったかという評価ではなくて、そういう見解の相違がかつてあったのだという事実から、私たちが何を学び、そこからどういう未来を建設していくかにあろうかと思います。

昭和16(1941)年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃の日、井上大将はカロリン諸島のトラック島で第四艦隊旗艦
鹿島
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艦上にいました。
そして艦の無線で、「トラトラトラ」を傍受しています。
通信参謀だった飯田秀雄中佐が井上に、「おめでとうございます」と言って電報を届けたのだけれど、そのとき井上は、
「何がめでたいだバカヤロー!」
と物凄い剣幕で怒鳴ったといいます。
飯田中佐は、そのときは何故自分が怒鳴られたのかわからなかったけれど、本土に帰還し、焼け野原となった東京を見たときはじめて、井上の「バカヤロー」の意味を理解できたそうです。

戦争が終わった時、戦前の海軍省は、第二復員省という名称になって、外地からの兵士の復員を専門に扱う省庁となっていました。
この復員省に、ある日、井上が自宅があった三浦半島の名物のミカンを大量に手土産に持ってやってきたそうです。
そして、
「田舎にはこんなものしかありませんが、みんなで食べてください」
と、旧部下に心づかいを見せたという。
この当時は、食べ物もなかなか入手できない困窮の時代です。
その時代に、ミカンは非常に貴重な果物だったのです。

それを井上は、自身も後日、貧困のため栄養失調と胃潰瘍で入院を余儀なくされるほどの生活を送っていながら、貴重なミカンを机に山が出来るくらい、たくさん持参して、みんなに食べてもらっています。
当時復員局員だった
中山定義
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は、
「元の大将中将で、復員局を訪れてかつての部下を労ってくれたのはそれまで一人もいなかった」
と述べています。

そして井上は、昭和50(1975)年に86歳でお亡くなりになるまで、横須賀で隠棲して暮らしました。
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近所の子供達や、軍人時代に懇意にしていた横須賀の料亭の芸者や仲居達に英語を教えていたけれど、
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謝礼を受け取らないので、生活はそうとう厳しかったようです。

軍人恩給の給付が一時凍結されていた際、井上家の経済的な窮状を察した関係者が旧海軍省次官の経歴で文官恩給の給付を受けられるよう取り計ろうとしたけれど、これも
「自分は軍人である」
と拒否しています。
さらに、海上自衛隊が発足した当時、海自の練習艦隊壮行会で、
嶋田繁太郎
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(A級戦犯にもかかわらず命乞して生き延びた。)
が出席して乾杯の音頭をとったと聞いたとき、
「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」
と周囲が青ざめるほどに激怒したといいます。

(拙注:上の部分はこのことを指しているらしい。)
東京裁判[編集]
終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」と語った。

極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と、元外務大臣東郷茂徳と対立。「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と批判した[11]。

海軍における戦争遂行の最高責任者として死刑は免れない、という予想が大多数を占め、実際に判事の投票では11人中5人が死刑賛成だったが、自己弁護により死刑は免れ、1948年11月12日終身禁固刑判決を受けた。東京裁判での自己弁護はウェブ裁判長が褒めるほど見事なものであった。そのことを憲兵から聞いた嶋田は日記に嬉しかったと記している。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと武藤章が日記に書いている。

1955年仮釈放後赦免される。海上自衛隊の練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。『昭和天皇独白録』では「嶋田の功績は私も認める」という天皇の発言があり、嶋田について、「知恵があり、見透しがいい」人物としつつ、「部下に対して強硬であったこと」がその不評判の原因だったとしている。


島田繁太郎という人は、大東亜戦争開戦時の海軍大臣だった人です。
要するに井上提督は、自分が軍人として、将官の立場にありながら、多くの部下や民間人を犠牲にした。そのことと真正面から向き合って残りの人生を過ごしたのです。

会社が倒産したとき、その会社の幹部が、多くの社員を犠牲にしたことを恥じ、隠棲生活をした、という話は、あまり聞きません。
井上提督は、開戦当時、第四艦隊司令長官であったけれど、それは大東亜戦争そのものの開戦責任を負うような立場ではありません。
けれど、彼は、多くの若者を犠牲にしたことと、生涯真正面から向き合って過ごしました。

それは、とても辛いことです。
けれど、それをやりとおしたのが、井上成美という人物だったのです。

先日「しょうゆ組」のことを書きました。
しょうゆを飲んで兵役を逃れた卑劣な連中が、戦後は、自分たちの卑劣さを正当化するために戦争反対、戦前、戦中の日本は異常だった、日本は悪い国だと声高に主張しはじめました。
私ははっきりと申し上げたいのです。
そういってきたあなた方こそ、異常で悪い人たちなのですよ」と。


とういうわけで、おソース顔とおしょうゆ顔という言い方があるが、それとはだいぶ違うが、しょうゆの一升瓶を飲むと、一時的に病気になり、仮病を起こして兵役を逃れる。いま在日韓国人がこれを必死でしている。あるいは、道行く罪もない子どもたちの隊列に突っ込んだり、殺傷して韓国への兵役逃れを行っている。これと同じことを戦前行った連中がいたということである。戦前の朝日新聞こそその「しょうゆ組」の代表格であり、戦後は連合軍に媚びへつらい、朝鮮進駐軍をつくって若い女性をレイプ、殺害、陵辱、拷問したり、自虐史観の反日報道に明け暮れた連中の同類だったというわけである。

いまやそういう真実が明るみに出た。

朝日新聞もまた「しょうゆ組」=在日韓国系だったという証である。

とまあ、長くなったが、ねずさんの記事を写真絵本化した。


おまけ:
海軍大将井上成美 ① 『余生に英語塾開く』



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  by kikidoblog | 2014-10-17 09:58 | 人物

「司馬史観」以上の「ねず史観」1:戦後日本は「しょうゆ組」に乗っ取られたらしい!

みなさん、こんにちは。

司馬遼太郎と言えば「司馬史観」。かつて故柘植俊一博士がその著書
反秀才論
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の中で絶賛したものである。

その当時の1970年代から80年代は、いわゆる「受験戦争」「受験地獄」の時代となり、伊丹十三の「家族ゲーム」が描いた時代である。こんな受験一辺倒の時代にあって、戦前の俊雄のような第一級の人物が育つだろうか?、ということを論じたわけである。

我々が目撃した真実の歴史では、「まあ、それなりに育っていた」というところだろう。今回の青色発光ダイオードの発明の中村、赤崎、天野の3人を見ても分かるように、東大にはいなくなったかもしれないが、名古屋大や東北大など他の大学内にそこそこ「反秀才」の居場所があったということになる。

さて、「司馬史観」もさることながら、「ねずさん」こと、小名木善行さんの「小名木史観」ないしは「ねず史観」というのもなかなか捨てがたいものがある。両方基本的な部分は同じであるが、前者は「サムライの最後のほとばしり」「サムライ時代の終焉」を基本にとっているらしいが、後者では「日本人魂」「日本人の心」の不変性を基本にとっている。だから、互いに補完しあう史観ということができる。

さて、司馬史観亡き後のねず史観、今日最近の記事に非常に興味深いものがあったので、今回はこれをここにもメモしておこう。

テーマは井上成美である。この人は以前ここで、私が個人的に調べた故三國連太郎さんの父親は日本海軍の南雲忠一ではなかったかというもの
佐藤浩市さんの祖父、三國連太郎さんの父はだれだったのか?
でメモした人である。(特にこの中で、戦前の日本軍人の顔つきは非常にいい顔をしていたということを強調した。我々の言い方ではハンサム。今風の在日マスゴミ流の言い方ではイケメンであった。私は英語風のハンサムという語の方が適切だと感じる。なぜならハンサムというのは客観的事実をいう言葉だが、イケメンというの主観が入るからである。)

しかし、ねず氏の元記事には写真がないので、適当にそういうものをつけて、だれがだれだったかをはっきりできるように、補足しておこう。以下のものである。

井上成美提督

几帳面で謹厳実直、まじめ一筋、けれど全力で生きてきた。
誰よりも努力した。
勉強もした。
世界の情勢に通じ、時代を確実に見通す眼も持った。
だからこそ、長いものに巻かれない生一本を貫いた。
遊ぶこともしなかった。
ただ、たまにギターをひくのが唯一の楽しみだった。
かつての日本人には、そんな人がたくさんいました。

そんなひとりに、井上成美(いのうえしげよし)元海軍提督
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がいます。
井上提督は、大東亜の開戦に、断固反対しました。
けれど、国家は開戦への道を進みました。
提督は、全力を尽くして戦いました。
そして終戦。
多くの優秀な部下を失いました。

戦後、彼は、一切の人前に出ることを拒み続けました。
そして贅沢とはほど遠い生活を送りました。
毎年8月15日には、一日中、緑茶以外は摂らずに絶食しました。
ひとり、古びた軍帽を被って、一日部屋で端座して遠い海を眺め、戦死した仲間たちの冥福を祈りました。

井上成美海軍大将は、明治22(1889)年、宮城県仙台市で生まれました。
仙台二中(現:宮城県立仙台第二高等学校)を優秀な成績で卒業し、江田島の海軍兵学校に学びました。
海軍兵学校の入学時の成績は、180名中8番です。
そして卒業時の成績は、2番です。
トップ集団の中で、さらに成績順位が上がったということは、相当な努力をする人であったということです。

兵学校を卒業した井上大将は、練習艦「宗谷」
宗谷のすべて
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(終戦後、宗谷は最初の南極観測船に転用された。)
乗り組みました。
このときの艦長が、後に終戦時の内閣総理大臣を務めた
鈴木貫太郎
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第一分隊長が
山本五十六
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指導官が後の連合艦隊司令長官でフィリピンで殉職した
古賀峯一
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でした。
いま振り返ってみると、まさにそうそうたる豪華メンバーです。

大正4(1915)年に、新造艦であった
「戦艦扶桑
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に分隊長として乗り込んだ井上大将は、翌大正5年に、
海軍大学
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に進学しました。
その後、イタリア駐在武官(昭和2)、海軍大学教官(昭和5)などを勤め、昭和7年には、海軍省の軍務局第一課長に就任しています。

その頃のエピソードがあります。
当時海軍軍令部は「軍令部令及び省部互渉規定改正案」を作ろうとしていたのですが、一課の井上成美課長が、案に真っ向から反対しているというので、海軍大学で一期上の
南雲忠一(後の海軍大将)
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が説得にやってきたのです。
大激論となったそうです。
論戦の果てに、南雲は激昂して、
「お前のような奴は殺してやる!」
と言いました。井上は、
「やるならやれ。死んでも俺の意志は変わらん!」
と、あらかじめ用意してあった遺書を南雲に見せたのだそうです。覚悟の上だったのです。

井上大将は、日頃から南雲大将をとても尊敬していました。
けれど、どんなに尊敬する先輩の説得であっても、イケナイものはイケナイ。
彼は、先輩後輩という「私」ではなく、職務という「公」を優先する男だったのです。

日本人は、論争を好まない民族です。
けれど「公」を背負ったときには、断固争う。同時にどんなに争っても、根底には相手に対する礼と尊敬の念が必ずある。それが日本人です。

昭和8(1933)年11月、井上は
練習戦艦「比叡」
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の艦長に就任しました。
このときの井上艦長の訓示です。
「軍人が平素でも刀剣を帯びるのを許されており、吾々またその服装を誇りにしておるのは、一朝事ある時、その武器で敵を斬り、国を守るという極めて国家的な職分を果たすからである。
国家の命令があって初めて軍人は武器を使用できる。手元に武器があるからと言って自分勝手に人を殺せば、どんな思想信条であろうとただの人殺しである。」


昭和11(1936)年、井上成美提督は、正月に催された横須賀陸海軍の親睦会に出席しました。
このとき、一緒に呑んでいた
憲兵
隊長林少佐(拙注:林清か林耕三かが分からない)が、井上に
「貴公、貴公」
と話しかけました。
これのとき、井上が激昂した話が伝わっています。彼は、
「君は少佐ではないか。私は少将である。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは無礼である。海軍では、軍艦で士官が酒に酔って後甲板でくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をする。これが軍隊の正しい姿である。君のような礼をわきまえない人間とは酒は飲まん!」

翌日憲兵隊長が謝罪に訪れました。普通ならこれで終わりにするのですが、井上は、
「あとで謝るなら最初からするな!」と相手が謝罪しても、一歩も譲りませんでした。

たかが酒の席のことで、と思われる方もいるかもしれません。
けれど、常住坐臥、常に戦場に心を置くのが武人です。
たとえ酒の席であっても、非礼は非礼として絶対に赦さない。
その厳しさこそが日本の武士の心です。

また階級差で、少佐が少将に「貴公呼ばわりするのは怪しからん」というのは、いささか階級主義、権威主義なのではないかという人がいました。
それも違います。
身に寸鉄を帯びる軍人が、酔ったからといって節度を忘れるようでは、これほど恐ろしいことはありません。
そういう意味で自己に対するどこまでも厳しさを忘れないのが日本の武士であり、帝国軍人であったのです。

憲兵の林少佐も、そのことに気が付いたから、謝ったのです。
井上も「最初からすなっ!」と声を荒げたけれど、気がついた林少佐を、言葉では叱りながら、心で許しています。
そのことに林少佐は気がついたから、井上提督を尊敬するのです。

そういう、「互いに相手の心を察する」という文化が、日本の文化の基本です。だからこそ、互いに人として成長していくことができるのです。

そしてそういう姿勢が、この話の両者にあり、この話を聞く側にも常識として具わっていたからこそ、こうしたエピソードが逸話として活きてくるのです。

昭和10年、井上が横須賀鎮守府の参謀長だった頃のこと、ある艦艇の艦長が、乗員に上陸禁止令を出しましたた。ところが自分は上陸して
水交社
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で飯を食っていました。
そのとき食堂に、井上参謀長が現れました。
彼は艦長に向かって言いました。
「貴艦には上陸禁止令が出ていたはずだが?」
当然艦長は、それを認めます。
すると、「それは艦長命令で出したのか?」
艦長「はい、艦長命令で出しました。」
すると井上の眼がみるみるうちに吊りあがり、
「自分が出した命令を自分で破ってどうする。すぐに戻れ!」と激怒しています。

艦長は、あわてて自艦に戻りました。
すると艦長室の入り口にゴミが置かれていたのだとか。
これは乗組員たちの、ささやかな抵抗です。
上に立つ者こそ、規律を守らなければならない。
でなければ、組織は成り立たないのです。

共産主義の人治主義のもとでは、上に立つ者にはありとあらゆる自由が許容されます。
下の者は、銃を突きつけられて無理やり言うことをきかせられる。
これでは、人として、組織として、人は育ちません。

学校で、先生が生徒に規律を守れ!というなら、まずは先生が率先して規律を守らなきゃならない。
会社で上司が部下に規律を守れ!というなら、まずは上司が率先して手本を示さなければならない。
それは
上杉鷹山
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(米百俵の話で有名)

の師匠だった
細井平洲
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の教えでもあります。


(つづく)


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  by kikidoblog | 2014-10-17 09:52 | 人物

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